今日のテーマは、イエス・キリストが言われたことばそのものである。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(35節)。この宣言があったのは、五つのパンと二匹の魚をキリストが祝福し、男だけでも五千人が養われたという奇跡の翌日にあった宣言である(6章1~14節)。キリストは群衆が空腹なのを見て、あわれみ、この奇跡を行ってくださったが、この奇跡の深い目的は、ご自身が永遠のいのちを与える救い主であることを示すということにある。けれども、そのことに気づく者はいない。彼らは自分たちのお腹をいっぱいに満たしてくれたキリストのストーカーになった(24節)。人間が必要だと求めているものと、神が人間にこれこそ必要だと与えようとしているものにはズレがある。ただ群衆はパンを求めていた。15節を見ると、キリストは、パンを与える王として祭り上げられるのを避けようとしたことがわかる。その後、弟子たちの舟に乗り込み、彼らとともに舟で対岸のカペナウムに渡った。群衆のうちのある者たちは舟で追いかけて来た。

キリストと弟子たちは疲れていた。五千人の給食の奇跡があった場所にキリストたちが出かけたのは、そこでそれまでの疲れをいやし休むためであった。けれどもそうはならなかった。大群衆の相手をしなければならなくなった。弟子たちはその場から離れ、夕暮れに舟に乗り込むも、前回学んだように嵐に遭遇し、夜中じゅう向かい風と荒波と格闘する羽目になり、全身を酷使し、寝ていない。到着したカペナウムはキリストの宣教の拠点である町だが、そこでも休ませてもらえる感じはない。無理解でパンを求めることで頭がいっぱいな人たちと相対しなければならなかった。

キリストは、彼らの関心をお腹を満たすパンではなく、いのちのパンに向けさせようと話を始める(26~27節)。

今日の記事を理解するために、また群衆を安易に批判することがないように、この記事の背景に「飢え」ということがあったことを知っておきたい。現代は一日2万5千人が飢えで亡くなっていると言われる。4秒に一人という計算で、死亡原因のトップに来ている。日本では一日五人の計算になるらしい。聖書の舞台のパレスチナではパンと水に事欠くことが昔から恐れられていた。それは最初に読んだ35節のキリストのことばが暗示している。キリストは飢えと渇きに言及しておられる。

日本も飢えに悩んできた。近年では天保の大飢饉などが有名である。秋田県南にもこの時代の餓死者を祀る無縁塚が各地にあるが、平鹿地方だけでも約300人が祀られているようである。そのほとんどが南部西和賀地方の人々とも言われている。この時代、嬰児を間引きし、ボロや藁じとに包んで川に流していた。それは地獄絵図さながらである。このような中にあって次のような逸話も残っている。当時は次男三男に分地、分家はご法度であった。現在の仙南地方に、文四郎という若者が生家の労働力として若妻をめとって働いていたが、分家として田畑を分けてもらえず、二人は亀田領に職を求めて旅立った。やがて日は暮れ、保呂羽山のこもり堂という所に泊ったが、空腹のため動けなくなってしまった。夫はわずかな食物を妻に与え、餓死してしまった。妻は助かった。だがこうした美談は少ない。南部沢内村の話だが、「あどは食いでえと言わねがら、ごめんしてけろアバ!」。泣き叫ぶ我が子を、橋から和賀川に突き落とした母親の逸話も残っている。我が子を身売りするのも生き延びる手段であった。

こういう飢餓の時代は食料が人の生死に直結している。米イコールいのち。パンイコールいのちという感覚である。パレスチナでは米が穫れないが、気象条件の違いから麦しか作れない。ある意味、米が作れるというのは恵まれた環境にあるということなのである。水がちゃんと供給できる、土地が痩せていない、暑すぎず寒すぎない、そうしたことが求められる。だから、日本以上にパレスチナでは飢えが身近である。

では、パンということをキーワードに、今日の記事から4つのことを見ていこう。

  • パンはいのちにとって必要不可欠である

キリストの時代(約二千年前)、パンは今の時代以上に欠かせない食物で、唯一の主食であった。パンがなかったら人々は死んだ。パンはいのちであった。パンはいのちという当時の認識の中で、キリストはパンの講話をされている。大麦のパンや小麦のパン以上にすぐれたパンがあり、それを求めるべきであるということを教えられている。それは永遠のいのちのパンである。キリストといういのちのパンである。群衆が求めていたのは大麦のパンや小麦のパンであって、イエス・キリストといういのちのパンではない。彼らはキリストが大麦のパンを豊かに与えてくれたので、キリストを追いかけているにすぎない。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(27節)。食べるために働く私たち。だがここで、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と話されている。死活問題ということがあなたがたには何もわかっていないと言わんばかりに。キリストは、永遠のいのちに至る食物のために働かなければ、あなたがたに待っているのは死だよ、教えたい。この話を聞いた人々は、28節で、では私たちは何の働きを、何のわざをすべきでしょうか、と質問しているが、キリストは29節で、わたしを信じることだと答えている。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」。キリストを信じること、すなわち、いのちのパンであるキリストを食べることが、永遠のいのちに至るために必要なわざなのである。キリストはこう言われたい。「人間に不可欠ないのちはわたしが持っている。わたしを食べなさい」と言われたい。しかし、「はい。わかりました」とはならず、30節を見ると、メシヤとしてのしるしを求める彼らであるわけである。

  • パンはすべての人の食べ物である

すべての人が何でも食べられるというわけではない。好みの問題もあるが健康上の問題もある。エビやカニといった甲殻類が食べられない、わたしは梅干しがだめ・・・。アレルギーである。今年、ある男性と食事の席が同席となった。その方は40を過ぎて、パンが食べられなくなったという。麦アレルギーの発症である。しかし、キリストの時代、遺伝子組み換え、人工交配はなく、麦を食べて体をおかしくする人はいない。麦のパンは主食として、すべての人の食物であった。ではキリストといういのちのパンはどうか。キリストアレルギーというのは食わず嫌いのことである。キリストは私たちの心の飢え渇きをいやし、満足を与え、内なる人を変革し、永遠のいのち与えてくださる。充足した生はキリストによって与えられる。

けれども、すべての人がキリストといういのちのパンを求めるわけではない。多くの人は、やはり、お腹の飢え、喉の渇きをいやしてくれるものにだけ走る。私たちは家畜とは違う。詩編の作者は言っている。「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣(家畜)に等しい」(49篇20節)。家畜と人間の違いは、人間は神を求めるということ、永遠のいのちを求めるということにあるはずである。人間は神のかたちに造られたものとしての、たましいを持つ。だから肉体の死だけではなく、たましいの死が問題なのである。たましいの死とは、神から離れ、神のいのちを持っていない状態である。

  • パンは人のための犠牲の食べ物である

私は余り良く知らないが、皆さんは、穀粒がパンになるまでどんなところを通らせられるかご存じだろう。はじめ種が蒔かれ、成長すると、それは切り倒される。次にふるいにかけられ粉状に挽かれる。最後はオーブンの火を通される。こうした過程を経て、私たちの口に入る。これはキリストが私たちのパンとなるために、ご自身の身に起こったことである。キリストはこの世界が永遠のいのちを失い、霊的飢餓に陥っていたことを知っておられた。キリストは一粒の麦となって地に落ちた。貧しい農村で生活をされ、やがて罪人たちの手によって傷つけられ、十字架の上で切り倒された。十字架の上で、ご自身のいのちを捧げ、私たちの罪のために粉々になるような精神的苦しみを受けられ、罪に対する聖なる怒りという火の中を通られ、そして、よみがえり、全時代、全人類へのいのちのパンとなられた。

不思議なことに、このキリストというパンはただである。材料を吟味して最高の製法で作られているのに、いつもただで売られているパンなどあるだろうか。いくら安いパンでも何十円かは払わなければならない。だが、永遠のいのちを与えるという、この愛の犠牲のパンはただである。もし、先に述べたような天保の大飢饉のような食物がない時代に、街道沿いでパンが無料でふるまわれたらどうだろうか。人々は行列を作って並び、ありかたくパンをもらって帰り、喜んで口にするだろう。こんな時、食べなさいと勧められてもパンを断り、つばを飲んでぐっとこらえ、石ころを口にしてがまんする人がいるだろうか。今、いのちのパンはただで提供されている。そのパンは寿命を一日延ばすパンではなく、永遠のいのちを与えるパンである。また不味いパンではなく、神の愛で味付けられた喜びと平安を与えるパンである。けれども、このパンを勧めても、多くの人がこのパンを食べようとしない。

キリストはパンを食べるようにしてご自身を受け入れることを願っておられる。今、いのちのパンは私たちの前に差し出されている。しかもただで提供されている。だからそれは恵みのパンである。私たちには、お恵みくださいと、へりくだった物乞いのような姿勢が必要である。キリストは言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5章3節)。キリストが言われた「貧しさ」とは極貧の貧しさを意味している。明日の食い扶ちまでは稼げない日雇い労働者が体験するような貧しさ、日毎、施しに頼るしかない物乞いの貧しさ、そういう貧しさである。貯金があとわずか、そういう貧しさではない。貯金などはない。冷蔵庫に一食分の食べ物しかないような貧しさである。キリストはこのような極貧の立場に身を置いて、神の恵みにすがれ、いのちのパンを乞い求めよと、願っておられる。路上でパンを乞う物乞いのように、心低くして、わたしを求めよ、ということである。私たちは、心低くして、このいのちのパンを求め、いただきたい。そして食べるようにして、心に信じ受け入れたい。

  • パンは毎日食べるものである

このポイントは、キリストを信じ受け入れた人のためのものである。つまりパンが日常食であるように、キリストは私たちにとっての日々の糧であるということである。私たちは毎日、祈りとみことばを通して主と交わる。そして主とともに生きる。私たちは人間のほんとうの幸せはモノにはなく、人格との交わりであることを知っている。人格と人格との交わりが幸せの本質である。私たちは、家族や友人からモノを得ようとして打算的に付き合うわけではない。心を行き交わし合う交わりに喜びを覚えるわけである。主キリストは最高の人格である。そして、このお方がいのちのいのちなのである。ならば、このお方を第一に求め、日々、このお方と交わっていきたい。

私たちは食欲を失うことがある。胃腸が悪い、運動不足、間食ばかりしている、落ち込んで食べる気力もない等。もし、キリストへの食欲が余りにもないというのなら、どこか悪いわけである。霊的傲慢が原因かもしれない。傲慢は心の貧しさと反対で、キリストを必要としなくなる。そんな時私たちは、十字架の物語を改めて思い巡らすことが必要かもしれない。また、心が余りに色々なもの奪われているということがあるかもしれない。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の世界へと。この世の楽しみという化学調味料、人口甘味料の味に慣れ過ぎて、本物の味を識別する味覚を失っているのかもしれない。やはりこの場合も主の十字架を見上げ、初めの愛に立ち返っていくことが必要かもしれない。またある場合、信仰的な理由というよりも、精神的にかなり鬱的になってしまって、聖書を開くことも祈ることも難しくなってしまう、ということが起きることもある。そうした場合でも、残されたエネルギーでキリストに心を向けよう。キリストは私たちのいのちなのだから。いずれにしろ、霊的に細らないために、日々、キリストをすべてにまさって求め、祈りとみことばのうちに交わっていきたい。そのことによってキリストの愛のうちにとどまる、キリストのいのちが豊かに注がれる、キリストをさらに知る者へと変えられる、という恵みに与っていくのである。

キリストは朝のトースト、昼のざるそばよりも大切なお方である。キリストは腐らない食物、いのちのパン、永遠のいのちそのものである。