強風にあおられる体験はそれぞれあると思う。私の場合、台風の風速20メートル以上の強風をまともに受けたことが印象に残っている。今日の記事はガリラヤ湖上での奇跡であるが、キリストの第五のしるしである。第四のしるしは、前回学んだ五つのパンと二匹の魚による五千人の給食の奇跡だった。そこで、弟子たちの信仰がためされたわけである。今日の個所では湖上で信仰がためされていることがわかる。

弟子たちは五千人の給食の後、夕暮れに舟に乗り、ガリラヤ湖を横断し、宣教の拠点であったカペナウムに渡ろうとした(17節前半)。記事は16節の「夕方になって」で始まっているが、日没頃はまだ辺りが幾分か明るい。彼らの計画は、まだ明るさが残っているうちに横断してしまおうということだったと思う。横断距離は10キロメートル弱だったので、判断としては順当である。しかし彼らの予想を超えることが起きてしまう。突然、突風が吹き荒れ、数時間の苦闘を強いられることになってしまう。この苦難の前触れは、「夕方」ということばが暗示しているかもしれない。ヨハネ神学においては、「夜」とか「夕方」は余り良い意味は持っていない。夕方は闇がだんだん深まっていく、闇が色濃くなっていく時間帯。もうすぐ暗夜になる。そこにある種の不安を感じる。

17節後半を見ると、不安を強める表現となっている。「すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」。ヨハネは「すでに暗くなっていた」という表現と「イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」という表現を対比させて書いている。これは意図的である。暗夜となった、しかしキリストは不在。また聖書では「湖、海」も余り良い象徴には使われない。それは混沌とした様子を表すことが多い。湖、暗夜という場面設定。そしてキリストが不在。不安な条件が三拍子揃っている。

そしてとうとう不安は実現してしまう。「湖は吹きまくる強風に荒れ始めた」。平行記事のマタイとマルコの福音書を見ると、「向かい風」とある。この向かい風によって、舟は前進が困難になった。この時期は過越しの祭りが始まる満月の頃(4節)。弟子たちは漁師たちが多かったので、この時期の強風はある程度予想はできただろうが、突然吹いて来て面食らってしまったようである。彼らはどの位の時間、苦闘していたのだろうか。キリストが途中から舟に乗り込むことになるわけだが、他の福音書からキリストが舟に乗り込んだ時刻は、午前3時頃か、もう少し時間が回っていた時間帯であったことがわかる。そこから計算すると、彼らはおよそ6~7時間、嵐に遭っていたと思われる。

実は、弟子たちにとって、キリストの弟子となってからの湖上での嵐の体験はこれが初めてではない。二回目である。最初の嵐のときは、キリストは最初から同船されていた(ルカ8章22~25節)。けれども、弟子たちはその時、恐れであわてふためき、「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言ってしまった。パニックに陥ってしまったわけである。むろん、キリストは、弟子たちのそのような態度は望んではいなかった。「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と叱責されている。弟子たちはその時、キリストの嵐を鎮める力を目撃した。

この二回目の嵐において、キリストは同船していない。弟子たちは、「一回目の時のようにイエスさまが同船してくれていたらなぁ」と思ったに違いない。キリストは、似ているようだけれども、少し違う状況下に彼らを置くことによって、彼らを訓練される意図があった。19節で、「四、五キロメートルほどこぎ出したころ」とあるが、舟は湖の真ん中辺りで木の葉のように揺られていた。「舟は湖の真ん中に出ており」(マルコ6章47節)。誰かが助けに行ける距離ではない。では、キリストでも近づくことができないのだろうか。キリストが助けに行けない場所というのはあるのだろうか。弟子たちは湖上の真ん中で、新たな学びをすることになる。

さて、今日の記事から、主キリストについて、三つのことを学ぼう。

第一、キリストは見守っている

キリストは舟にはおられなかった。しかし、キリストの視線は舟の中で苦闘している弟子たちの上に置かれていた。彼らは後にそのことを知ることになる。「イエスは弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」(マルコ6章48節)。キリストは五千人の給食の後、15節を見ると、ひとり山に退かれたようだが、そこで、弟子たちの状況を見守っていた。弟子たちの苦闘の姿を見守っていた。弟子たちは一生懸命漕ぎ、筋肉を酷使して何とか少しでも前に進もうとしていた。彼らは疲れていた。五千人の給食もハプニングといえばハプニングで、あの場所に行ったのは、普段人々の出入りが多くて、ゆっくりと食事する時間もなかったからである。しかし群衆が先回りして集まってしまったのである(マルコ6章30~33節)。疲れがたまっているところに群衆の世話。それが済んだと思ったら、また休めない。吹きまくる強風で、夜も眠ることができず、一晩中苦闘しなければいけないことになった。だが、キリストは彼らにおかまいなしで休んでいたのではない。キリストの視線は彼らにちゃんと置かれていた。キリストのまなざしは注がれていたということである。

私たちも精神的に、肉体的にハードになることを強いられることがある。もう勘弁してほしい、と思う時がある。そのような時も、キリストのまなざしは私たちの上に注がれている。それは恵みのまなざしである。

第二、キリストは時にかなって助けてくださる

キリストは弟子たちが置かれていた厳しい状況をご覧になっていたが、枝豆とビールで野球を観戦するかのような、その程度の関心の寄せ方ではなかった。彼らのことを心にかけてくださっていて、助けに行くタイミングを見計らってくださっていた。キリストは多くの場合、自分の力に限界を感じ、耐えがたくなるような時に来てくださる。

弟子たちが苦闘していたのは夜という時間帯。湖上は大荒れで波は逆巻いていた。彼らは湖の真ん中辺りにいた。最悪の条件下にあったと言って良い。だが、キリストは夜という時間帯だろうが、吹きまくる強風だろうが、逆巻く波だろうか、近づくのに難しい場所だろうが、関係がない。近づく物理的手段がなくても問題はない。

弟子たちはおそらく、まさかここにはイエスさまは来れないだろうと思っていたにちがいない。弟子たちはキリストの偉大さをさらに学ばされることになる。「彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」(19節後半、20節)。弟子たちは、どんな状況下にあってもイエスさまをお招きすることができるのだ、イエスさまの助けを体験できるのだ、と学んだはずである。

私たちは今日の記事からは、主のみこころを行うという文脈の中で、助けということを考えたい。弟子たちがガリラヤ湖を横断しようとしたのは、主のみこころにかなっていた。マルコ6章45節には、「それから、すぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ」とある。彼らは無謀な選択をしたわけではない。ただ、ここまでのことになるとは予想できなかったはずである。私たちはみこころにかなう歩みをしていても、困難に直面することがある。それがしばし予想外であったりする。キリストはその時、私たちが落ち着いて対処できるのか、信仰を発揮できるのか、見守っておられ、必要な助けを与えるタイミングも見計らっておられる。私たちは自分の力の限界を覚える時、心の表層からではなく、心の深層からキリストに助けを求めることになる。「主よ。乗り込んでください。私は漕ぎあぐねています。沈没の危機です」。その人は、今も生きたもうキリストの助けを体験することになる。弟子たちもこの時の体験を生かし、時代の嵐、試練に立ち向かっていったはずである。

第三、キリストは目的地まで導いてくださる

弟子たちは、単にキリストの助けを体験したというのではない。彼らはキリストのおかげで、目的地まで無事に行くことができた。「それで彼らは、イエスを喜んで迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた」(21節)。「目的の地」というのは、ヨハネ独特の表現。「目的の地」、そこに達成という意味が込められている。私たちには使命、役割というものが神さまから与えられている。何にも与えられていないという人はいない。自分の使命を全うしたい、自分の役割を果たしたいと願う。ところがその途中で漕ぎあぐねてしまう。吹きまくる強風で、向かい風で、挫折しそうになる。前に進めないというピンチで引き返したくもなる。間違って進んだのだったら引き返せばいい。でも、神にあって目的の地点まで進もうとしているのなら、それが自分たちのすべきことだとわかっているのなら、真剣にキリストに助けを仰いで前進すればいい。「主よ。漕ぎあぐねています。来てください。今の私に、そしてこの状況に」と。暗やみ、向かい風、逆巻く波、混沌とした状況で右往左往が続く。漕いでいる船首さえ見えない。けれども、キリストの恵みのまなざしを信じるのである。そして、キリストの御名を呼び求めるのである。キリストは向かい風や混乱を鎮め、私たちを向こう岸まで導いてくださる。

最後に、クリスチャンでない方々にもお話したい。皆さんも、思いがけない嵐のような状況に遭遇したことがあるだろう。これらの福音書が書かれた時代、世界は不安定な中にあった。時代の嵐が吹いていたとも言える。それは現代でも同じだろう。人は嵐の中で、自分の本当の姿、弱さなどを思い知らされることがある。湖上にいた弟子たちの多くが漁師であったため、舟を漕ぐのは慣れていたはずである。けれども、限界というものはある。多くの人が、自分の力を信じてがんばるものだ、自分の道は自分で切り拓くものだと言う。自分の力を信じて前に進むだけだ、と言う。しかし人間は土くれに過ぎない。生かされて生きる者にすぎない。自分の無力さや弱さは認めるべきである。特に罪との戦いや悪習慣との戦いにおいて勝てない者であり、神の前にちりに等しい者であることを素直に認めたい。

先ほど「目的地」というお話をしたが、神を信じる者の最終目的地は天の御国である。人生の海の嵐は吹き荒れるが、この最終の目的地に向かって進み続けたい。ことわざに「道なきところに自ら道を築いて進め」とある。舟のたとえで言うと、「吹きまくる強風をものともせず、高波が押し寄せても、それらを突き破って前に進め」となるだろうか。こうしたことわざは勇気づけられるように思う。ただし、天の御国という港に行くことを考えたら、人間の力では不可能だということに気づくことになる。私たちは自分で自分を救うことができない罪人である。舟の中に大金を積んでいても、すぐれた成績表を積んでいても、たくさんの善行の思い出を積んでいても、役には立たない。私たちは人生の引き算をしたら大量の罪は残るし、それを消し去る手段もない。だからこそキリストは、私たちの罪の身代わりに十字架についてくださり、罪を清算してくださり、三日目によみがえり、天の御国への道となり、かけ橋となり、いのちとなり、推進力となり、すべてとなってくださった。キリストは人生の訓練を私たちに与えてくださると同時に、天の港まで完全に守り、導いてくださるだろう。