前回はキリストの宣言、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(6章35節)を中心に学んだ。舞台背景は中東であるが、中東は飢えと渇きに悩まされることがある地域だった。かつてエゼキエルという預言者はこう語ったことがある。「神である主は、イスラエルの地のエルサレム住民について、こう仰せられる。彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる」(エゼキエル12章19節)。そのような歴史を実際通ってきた。キリストは前日、群衆に大麦のパンを十分に与える奇跡を行った。それは五千人の給食と知られている。この奇跡はイエスがキリスト、すなわち救い主であることを示す第四のしるしであった。群衆の飢えを満たしたパンは、十字架の上で犠牲になり、永遠のいのちを与える救い主を予め表していた。五千人の給食には、キリストが永遠のいのちを与えるパンであるというメッセージが込められていたわけである。キリストを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つのである(3章16節)。

けれども、群衆はこのようなことに気づかない。ただお腹を満たしてくれるパンを求めていた。そしてキリストを追いかけまわしたのも、その線でしかなかった。人々はキリストに期待しただろう。「またパンを食わせてもらえるぞ。この方を王とすれば我らの生活は安泰だ」。人々は好奇心、食欲、生活の安定志向、それらをもってキリストに近づいた。罪からの救い、霊的な飢え渇きの満たし、永遠のいのち、そうしたものを求めてキリストに近づいたのではない。キリストを天から下ったまことの神の救い主として信じて近づいたのではない(41,42節参照)。彼らはある意味、お腹を満たしてくれそうな人物であればだれでも良かった。

それだから今日の個所では、キリストの嘆きのことばから始まっている。「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました」(36節)。救い主を目の当たりにして、そのことばを聞き、そのみわざを見ても、信じようとしない。この福音書後半では、キリストが弟子トマスに対することばとしてこうある。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(20章29節)。私たちも、キリストを見ずに信じることが期待されている。

さて、今日のタイトルは「いのちのパンが保証すること」だが、時おり、商品の説明に、「大量に摂取したからと言って、疾病が回復することはありません」とか、「発疹等が出たら中止してください」とか、保証できない旨の文章を目にすることがある。「食べすぎに注意」などというのもある。だがキリストは、ご自身といういのちのパンに関して、素晴らしい保証のことばしか述べられていない。けれども、その保証のことばとは、病気にならない、試練に会わない、太らない、痩せない、そういうことではない。では、いのちのパンの保証はどこが素晴らしいのかをこれから見ていきたい。

では、ご自身のもとに来るキリストの保証のことばを四つ見ていこう。

保証の第一は、「決して捨てないこと」。「そして、わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(37節後半)。日本人になじみの深いことわざに「捨てる神あれば拾う神あり」がある。八百万の神々が念頭にあることわざである。沢山の神に願をかけるのは、神さまのどれか一つぐらい聞いてくれるかもしれないという心理が働いている。裏を返せば、そんなに信頼しているわけでもないということになる。だがキリストは信頼を呼び起こす表現を使っている。「わたしは決して捨てません」。「捨てる」の原語の意味は、「投げ出す、追い出す、外へほうり投げる」。家賃払えないなら出て行け、これ以上面倒見切れないから出て行け、置いてやっても1カ月が限度だ、とかいうことは世間にはある。「どうか後生です。」「ダメだ!」ということを聞く。しかし、キリストは、「決して捨てません」と保証してくださっている。私たちは自分の弱さや罪深さを認識するときに、「決して捨てません」という主のことばは、恵み以外の何ものでもないと知る。キリストのもとへ行く人は、外の暗やみに放り出されることは決してない。もうあなたとの関係を断ち切る、と見捨てられることはない。しかしながら、現実には、見捨てられるのではと、おびえながら、恐れながら、信仰生活を送っておられる方もいる。恵みとは、忠実で誠実な神の愛である。本来なら裁きにしか値しない者に対して、救うと約束したら、途中何があっても絶対に見捨てない、それが恵みの意味するところである。

保証の第二は、「失うことがないこと」。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださった者を、わたしがひとりも失うことなく」(39節前半)。「ひとりも失うことなく」と言われている。砂粒が指の間からこぼれ落ちるように、主の御手から私たちがこぼれ落ちるということはない。信じるすべての人が救いを失うことなく、保持される。永遠に保持される。失われることはない。永遠の救いは信じるすべての人に保証されるということである。私は今信じていても、あとはどうなるか分からない、と不安を抱く必要はない。米粒を袋に移し替えるとき、一粒ぐらい落としてしまうことがある。一粒ぐらいいいや、となってしまうことがある。けれども、キリストは私たちをそのように見ていない。大切でかけがえのない一人ひとりなのである。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」なのである。私たちは、自分のようなつまらない者をと思っていても、失われないように守ってくださる。それが神の、愛のみこころなのである。

保証の第三は、「終わりの日によみがえらせること」。これについては39節後半、40節後半に記されている。「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」。これは救いの完成の描写である。救いとは何だろうか。人間はたましいとからだの統合体である。からだあっての人間である。だから、からだごとの救いがあって、救いの完成である。ピリピ3章21節にはこうある。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」。からだのよみがえりについては、パウロが第一コリント15章で詳しく書いている。そこを見ると、キリストを信じる者は、終わりの日に、疲れないからだ、弱らないからだ、病にかからないからだ、朽ちないからだ、死なないからだ、栄光のからだによみがえることが書いてある。それは御国仕様のからだである。私たちはこのからだを待ち望むことが許されている。病持ちの人も、老化現象で悩む人も、希望はここにある。

保証の第四は、「永遠のいのちを持つこと」。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです」(40節)。キリストは後に、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と有名なことば(11章25節)を宣言される。その「死んでも生きる」といういのちが、ここでは意識されていると思う。いのちのパンを食べる者は死んでも生きる。

次週の個所であるが、48~50節において、キリストはご自身がいのちのパンであることを繰り返し宣言される。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないからです」。ふつうのパンは食べても死んで終わりである。けれども、そうではないパンが提供されているのである。これぞ人類を救済するパンなのである。

私は中学生の時であったか、印象に残る小説を読んだ。タイトルも主なあらすじも忘れてしまったが、パンに関する記述が心に残った。少年が厳しい旅をしなければならなかった。老人がパンを持っていきなさいと言って、包んである堅いパンを渡す。このパンが少年を支えることになる。少年は旅の途中、何度も心が折れそうになったが、どうしてもお腹が空いたならばこのパンを食べればいいと、力づけられて旅をやり遂げる。旅をやり遂げた少年は、包みを開けると、そこに入っていたのはパンではなくて、なんと木であることを知った。老人の知恵が少年を助けたという物語である。仮想のパンがこれほど人を助けるのならば、今学んだ四つの保証があるいのちのパンはどうだろうか。

パンに関して、もう一つ忘れられない物語がある。クリスチャンのアンデルセンが書いた「パンをふんだ娘」という創作童話である。自分が美しいことを鼻にかけていた高慢な少女がいた。彼女は奉公に出されたが、家に帰る時、一片のパンをおみやげにもたされる。雨上がりの道にできた「ぬかるみ」を前にした時、ドレスを汚したくないと思った彼女は、パンをぬかるみに放り投げて、それを踏み台にしようと考える。そして放り投げる。でも彼女がパンの上に乗ったとたん、ぬかるみの中にずぶずぶと沈んでいき、そのまま地獄に落ちていく。この童話には続きがあり、最後はハッピーエンドで終わるのだが、意味深なお話だと思う。

民衆はイエスという男なんかいらないと放り出し、「十字架につけろ」と叫ぶことになる。まさしく踏むような行為に出る。何の腹の足しにもならいないとみなして捨て、踏みつける。それで終わってしまった人たちもいた。けれども、キリストの復活後、悔い改める者たちが起こされていった。ペテロは五旬節の日、大群衆の前でメッセージをした。「今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたが十字架につけたのです」(使徒2章36節)。この後、多くの人が悔い改め、キリストを信じ受け入れることになる。

私たちはそれぞれがキリストを必要としない人生を歩んできた。求めてきたものの中に、いのちのパンはなかった。私たちは、飢饉に備えて倉に食糧を備蓄する。災害に備えて乾パンを準備しておく。将来に備えて貯金する。それで十分のはずはない。滅びないいのち、神のいのち、永遠のいのち、よみがえりのいのち、充足したいのち、このいのちを与えるパンこそが私たちに必要である。

最後に、6章37節にもう一度、目を落とそう。キリストの保証のことばがこの節から述べられていくわけだが、この節の前半で不思議なことばを述べられている。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」(6章37節前半)。私たちは自分の意志でキリストを求めて、キリストを信じたと思っている。確かに自分の意志で信じた。誰かに無理矢理に口を開かせられて、このいのちのパンを食べたわけではない。自分でいのちのパンを選んで、自分の意志で食べた。けれども、そこに、神の計らい、神の選びというものが先行していたのだということである。神は、私たちが信じる永遠の昔から、救いに選んでくださっていた。「神は私たちを世界の基が置かれる前から彼(キリスト)にあって選び」(エペソ1章4節)とある通りである。だから、私たちの側で誇れるものは何もない。ある人が飢え死にしそうな人たちを見て、あの人たちを救おうと、通りでパンの無料配布をしたとする。そのパンを求めて口にした人は、パンを食べてやったぞ!とはならないはずである。パンを食べられたのは恵みでしかないと思うはずである。

ここを読んで、誰が選ばれているのだろうかと、神の選びということをこねくり回して考えてはならない。あるドイツ人の年配の農民がいた。家の近くに通り一本はさんで教会が建っていたそうである。しかし、彼は決して教会には行かなかった。彼によればキリストの十字架による救いとは他の人たちのもので、自分とは関係がないと思ってしまっていたのである。自分は選ばれていないと思っていたに等しい。ある日、教会から、子どもたちが歌うコーラスが聞こえてきた。キリストの救いを歌う賛美だった。「恵み。それは魅力的な響きがある。それは耳に心地よい。天には恵みのこだまが鳴り響き、それを全地は聞くだろう。救いはただ恵みによる・・・イエスは全人類のために死なれた。私のためにも死なれた。」彼は、「イエスは全人類のために死なれた」という歌詞を聞いた時、イエスは自分のためにも死なれたんだ、という思いになったそうである。それがきっかけで礼拝に出席し、信仰を持つようになる。私たち人間の側では、素直に救いの招きに応えればいい。自分は選ばれていないと考える必要はないし、もう人生の晩年で今さらとか、長年の習慣が身に沁みついてしまっていて今さら変えられないとか、信じるには遅すぎるとか、失敗だらけの人生すぎて自分はふさわしくないとか、そうしたことには捕らわれずに、ただ愛の招きに応えて、救いの恵みを受け入れればいいのである。いのちのパンは、求めるすべての人に与えられる。