今日の記事は、「五つのパンと二匹の魚」、あるいは、「五千人の給食」として知られている。大変有名な奇跡で、四福音書すべてに記されている。しかし、それぞれ強調点が異なる。マタイとルカは奇跡そのものを強調している。マルコはキリストの群衆に対するあわれみに強調を置いている。ではヨハネの強調は何だろうか。二つあるように思う。一つは、この奇跡が、ある祭りと関係づけられているということである(4節)。過越しの祭りが近づいていた。これはイスラエル人がエジプトで奴隷であった時、子羊の肉が裂かれ、血が流され、そのことによってエジプトから救われ、自由の身とされたことを記念する祭りであった。この過越しは、神の子羊キリストが十字架につき、肉を裂き、血を流し、救いのみわざをされる型となっていることを私たちは知っている。今日の記事において、群衆の飢えを満たすパンは、やがて十字架の上で犠牲になり、永遠のいのちを与えるキリストを予め表している。キリストは後に35節で、「わたしがいのちのパンです」と宣言される。今日の奇跡は、実は、第四のしるしである。この奇跡には、キリストが永遠のいのちを与えるパンであるというメッセージが込められている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。キリストは永遠のいのちを与えるパンである。ところが群衆は、永遠のいのちよりもお腹を満たすパンのことしか頭にないようである(14,15節)。いつの時代も、お腹をいっぱいにしてくれる人物を王として担ぎ上げようとする。しかし、キリストは、そのためにこの世に下られたのではない。永遠のいのちのパンを与えるために来られた。
ヨハネの五千人の給食のもう一つの特徴は、この奇跡に絡んで三人の人物を描写しているということである。これから、そこにポイントを置いて見ていきたい。
第一の人物は「ピリポ」である(5節)。ガリラヤ湖畔で群衆の空腹という問題を解決するために、キリストは弟子たちの中からピリポを選んで、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」とためした。キリストは弟子たちの中からなぜピリポを選んだのだろうか。たまたま近くにいたからという回答も可能だが、別の要素があるかもしれない。ピリポは初期の弟子でキリストとのつきあいは長いほうである。そしてピリポは、この奇跡があった場所から近いところで生まれている(1章44節)。いわばピリポは土地のもの。ピリポは他の弟子たちよりも、食料をどこで入手できるか知っていた。「この近辺は俺が他の弟子たちよりも詳しい。俺の庭のようなものだ。イエスさま、よくぞ私に聞いてくれました」と思ったかどうかは別として、キリストがピリポに問いかけたのは自然なことであったということは了解していただけたかと思う。ポイントは、この問いかけは、ピリポに対するテストであったということ。「もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった」(6節前半)。ピリポはこのテストに合格したとは言えない。ピリポはどこでパンを入手できるかの知識は持っていた。しかし、それ以前の経済の問題を口にする(7節)。「二百デナリ」は当時のニ百日分の給料。「たとい、それぐらいのお金があったとしても、パンは全然足りません」という計算。「どこからパンを買ってきて」以前にお金がないことを問題にしている。何かを着手するにあたり、また何か問題を解決するにあたり、知識、計算、そういったことは当たり前に大切である。では、なぜピリポはテストに失敗したと言えるのだろうか。知識を働かせるのは大切であるし、計算することももちろん良い。問題は、キリスト抜きで答えを出したということにある。ピリポのキリスト抜きの計算では「二百デナリのパンでは足りません」。しかし、キリストが群衆に配給したパンは「足りません」ではなかった。12節に「そして、彼らが十分食べた」とあり、13節では「なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった」とある。「足りません」ではなく「余りました」である。ピリポの最初の予測は全く外れてしまう。
ある人たちは次のようにピリポを弁護するかもしれない。「ピリポは言い訳が立つ。イエスさまがあんなに素晴らしい奇跡をなされると、誰が想像できるだろうか?」なるほどとは思うが、ピリポを完全に弁護できない理由がある。というのは、この時点まで、キリストは弟子たちの前で、様々なしるし、奇跡を行ってきたからである。水をぶどう酒に変えるみわざも見て来た。他の福音書を見ると、たとえばマタイでは、このみわざは14章に位置している。それまでの足取りを、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書で見ていくと、キリストは実にたくさんの奇跡を行ったことがわかる。ピリポはこのキリストに対して信仰を働かせることに失敗した。ピリポはキリストに対して信仰を働かせる訓練を受けてきたからこそ、6節で「ためして」と言われている。生まれて初めてキリストに出会って、キリストとは誰なのか全くわからない者に対して、「ためして」とは言われない。ピリポはキリストに早く召された弟子で、キリストと生活をともにし、キリストの数々のみわざを見聞きしてきたからこそ、「ためして」ということばが成り立つ。私たちもキリストのみわざを学んできた。聞いてきた。見てきた。体験してきた。だから、私たちに対しても「ためして」ということは起きてくるのではないだろうか。自分の知識と計算の中にすべてを押し込んで判断するのか。ただ、知識と計算だけに信頼を置いてしまうのか、もし、そうであれば、行き詰って終わりということになってしまうか、現実逃避の道を選ぶか、みこころから外れた道を選んでしまうか、そういうことになってくる。神のみわざというものは体験できないで終わる。洗練された思考を持っている人、計算ができる人が、必ずしも、神に喜ばれるということにはならない。知識も計算もキリストの御手に置いて判断してゆけるかどうかである。クリスチャンたちがひざまずいてキリストに信頼することを忘れ、自分の知識に頼り、合理的計算に頼り、金銭に頼り、組織に頼り、結果として失敗に終わるという報告は山ほどあるわけである。解決の源泉はキリストにあることを忘れてはならない。
第二の人物は「少年」である(9節)。当時にあって少年は価値のない存在とされていた。ある人は「この世において少年ほど価値のないものはない」と言ったとのこと。それが当時の評価であった。しかも、この少年は貧しかったことがわかる。それはお弁当の中身から。大麦のパンは貧しい人々のパンであった。魚も干物だろう。貧しくて価値がない。彼がささげた弁当も、「何になりましょう」と本人同様価値がないことになる。しかし、祝福されて用いられた。ここにポイントがある。この区分では無価値な存在が用いられたということに焦点を置こう。私たちは、自分の無価値さ、無能さにあえいで、だから自分は無用なものであり、役に立たないと思い込む過ちを犯すことはないだろうか。自分はもっと頭が良かったら、もっと能力が高かったら、もっと健康だったら、自分はもっとお金があったらと、そこに意識が向いてしまうことがある。だが、神さまが目を留めておられることは、ささげる信仰があるかないのか、ということであると思う。この時、弁当を持ってきたのは、この貧しい少年だけ、そんなことはなかったはずである。ささげたか、ささげなかったかの違いがあるだけである。パンがある、お金がある、能力がある、豊かな人生経験がある、でもそれだけではみわざは起きない。キリストは、価値がなく、かつ貧しい、そんな少年を用いてみわざをされたことを心に留めたい。この少年は、自分のお弁当がキリストに用いられ、聖書にも書き記される歴史的な物語を生み出すことになろうとは、つゆにも思わなかっただろう。彼はささげた。弟子たちが「よこせ」と奪い取ったのではないだろう。もし彼がささげなかったならば、五つのパンと二匹の魚は、相変わらず五つのパンと二匹の魚のままであっただろう。
第三の人物は「アンデレ」である(8節)。アンデレもピリポと同じ町の出身であった。ピリポは自分の知識と計算止まりで終わったが、アンデレもピリポに似ている。「しかし、こんなにおおぜいの人々では、それが何になりましょう」(9節)。彼もピリポのようである。「イエスさま、これでは足りませんが、イエスさま、あるにはあるわけです。これをどうされますか」と相談してほしかったところである。アンデレがピリポと異なる点は、五つのパンと二匹の魚を持っている少年をキリストに紹介したということである。いわば情報提供をした。これがすばらしいみわざのきっかけを作ったと言えよう。私たちは情報収集は必要である。そうした中で、あまり意味がないと思えるような情報、取りに足らなくて役に立たないと思えるような情報が入ってくる。主のみわざのために余り役に立たないのではと思えるような物事、以外な人物、それらが意外な結果というか、すばらしい結果を生むことになる。キリストがみわざを行われる原資、元となるものは、五つのパンと二匹の魚のようなものであることが多い。アンデレはこの経験を通して、後に、少年だからといって軽く見たり、少しばかりのパンと魚にすぎないから何にもならないと、そんな風に思ってはならないと教えられただろう。自分自身のうちに、自分の持てるものの中に、そして私たちの周りに、可能性に満ちた五つのパンと二匹の魚を発見することができる。それは一見、「何になりましょう」と思えるものかもしれない。けれども、キリストにはそれを用いる計画がある。
「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」(6節後半)。キリストには計画がある。けれども、「私は五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を養う計画がありますからね」と、予め、その計画を告げられない。弟子たちが信仰を働かせなくなるから。信仰を働かせるのかどうかと、ピリポもアンデレもためされている。
私たちも信仰をためされ、祈りつつ、悩み、もだえ、「ではこの状況にあってどうしたらいいんですか」となる。弟子たちの場合、五つのパンと二匹の魚をキリストに渡した。もうひとつ大切なことは、10節の「人々をすわらせなさい」の命令に従ったということ。「人々をすわらせなさい」というのは、キリストが与えたGOサインである。着手できるよ、解決できるよ、というGOサインである。キリストは五千人分の食事が整ってから「人々をすわらせなさい」と言われたのではない。五つのパンと二匹の魚しかない時点で、それがささげられた時点で言われた。みわざはまだ始まってはいない。まだ数人分の食べ物しかない。数千人分の食べ物はない。けれども、主からGOサインが出たら、それに従うという原則がある。ただ気をつけたいことは、信仰とは、神さまは全能だと言って、神さまの計画を無視して、やみくもに突っ走ることではないということである。信仰とは、神さまの計画、指示に沿うものである。その計画、指示が自分たちの持てるもの、能力の範囲で何とかなるようなものであるなら、従うことは容易だろう。しかし、多くの場合、そうではない。そこで信仰がためされる。数秒か、数時間か、数日か、心の中で格闘がある。そして、神さまがどうしてくださるのか良くわからなくとも、従い、一歩踏み出すときに、みわざは起きる。弟子たちの場合、五つのパンと二匹の魚をキリストに手渡す、群衆を座らせるということであったが、キリストが彼らに期待した最低のことはできたということになる。こうして、すばらしいみわざが起きることになる。群衆を座らせるのは、十二弟子皆で協力したことだろう。
私たちは、自分たちのわずかさ、無価値さ、持てる能力、賜物、財の少なさを思うとき、困惑に陥る。ピリポのように「これでは足りません」と結論づけてしまう。アンデレのように「それが何になりましょう」とあきらめかける。五つのパンと二匹の魚が悪いのだろうか。五つのパンと二匹の魚が悪いのではない。問題はそこにはない。問題は私たちが信仰を働かすことができないこととともに、ささげるという献身の姿勢を持てないことにある。問題をすり替えてはいけない。こうした問題のすり替えは起こりやすい。五つのパンと二匹の魚しかないからダメなんだとなる。そうではなく、可能性に満ちた五つのパンと二匹の魚がある。小さな群れ、平凡な人、私たちの手・足・口・からだ、一タラント、わずかの財、それらは何十倍、何百倍、千倍にも祝福され、用いられる可能性を秘めている。11節には「そして、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人に分けてやられた」とある。キリストの御手に五つのパンと二匹の魚を渡たし、用いていただこう。