今日の記事は、前回ご一緒に学んだ、ベテスダの池という場所で38年間病気にかかっていた男をキリストがいやしたというみわざの続きである(5節)。その病人は病歴から言って直る見込みのない病人だった。絶望的な彼に対して、キリストは「よくなりたいか」と声をかけてくださった(6節)。キリストには直す意志があるからこそ、声をかけられた。また彼は他の人から関心を払われていない病人だった。誰も彼のことを気にかけていないようだった。けれども、キリストは彼に目を留めて、「よくなりたいか」と声をかけてくださった。彼はキリストの愛の対象であった。そして彼は自分では自分をどうすることもできない無力な病人だった。そのまま行けば滅びでしかない。「病気」ということばは「無力、弱さ」という意味を持っている。それは肉体だけのことではないだろう。私たちは神に従えない弱さ、罪の弱さがあり、たましい自体が病んでいる。キリストは肉体の医者を超えてたましいの医者としてこの地上に来られ、永遠のいのちを与えることが最大の目的であられた。
今日の個所で、「いのち」という表現が多いことに気づかれただろう。「永遠のいのち」ということばを含めて9回登場している。キリストがベテスダの池で行われたいやしは、単に肉体のいやしにとどまらず、永遠のいのちを与えることを示すものであった。実は、この「永遠のいのち」が、ヨハネの福音書の特徴なのである。他の三福音書では、「神の国」、「天の御国」というフレーズがしばしばキリストの口に上るのに対して、ヨハネの福音書ではそれが二度しかない。それはすでに学んだ三章のニコデモとの対話で記されているが、その対話でも、クローズアップされるのは「永遠のいのち」である。対話の後半で、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16節)という有名なみことばが登場している。ヨハネの福音書の中心的みことばである。キリストは今日のユダヤ人たちとの論争でも、ご自身が永遠のいのちの与え主であることを強調している。
今日の記事では、キリストとユダヤ人たちの論争が記されている。彼らはキリストが行ったいやしのみわざに怒り狂っている。いったい彼らを何を猛烈に怒っているのだろうか。二つの理由がある。一つは、キリストが安息日を破ったということ(18節)。ユダヤ教は土曜日を礼拝と安息の日としていた。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出20章8節)。土曜日は礼拝の日であり、心もからだも休める日であった。礼拝をし、身も心も休む日として、この日は通常の仕事をしてはならなかった。キリストは前回見たように、伏せっていた病人に「床を取り上げて歩きなさい」と命じた(8節)。この命令のどこがいけないのか。その命令は安息日に荷物を運ぶという仕事をさせることだからけしからんというわけである。床を取り上げて歩くのは仕事だというわけである。すごい解釈である。それだけではない。いやしのわざというのも仕事の範疇に入ると解釈する彼らは、キリストは安息日に仕事をして安息日の規定を破ったと非難するわけである。安息の日に安息を与えることを非難する理由はないはずであるが、彼らは自分たちの律法解釈で、律法を骨抜きにしてしまっていた。
彼らが怒っているもう一つの理由は、キリストが「ご自身を神と等しくして」、神と肩を並べているからである(18節)。これが「ますますイエスを殺そうとするようになった」という大きな理由となる。
日本では神羅万象すべてが神となり、人間は死ねば神として祭られる。生き神様もいる。八百万の神の世界である。けれどもユダヤは一神教である。唯一の神を信じる。自分を神とした者は神を冒瀆した者として死罪である。
ヨハネの福音書は、キリストの神性(キリストが神であること)を強調している。ヨハネの福音書の冒頭は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1章1節)で始まっており、キリストが神であることを証しすることから始まっている。キリストは三位一体の第二の位格、御子なる神である。ユダヤ人たちはそれを認めたくない。キリストはユダヤ人たちとの論争において、ご自身と御父との関係について語っている。御父と御子は分離しておらず全く一つの関係にあるということである。キリストは17節において、御父が働き、私も働いていると言っているが、めいめい勝手に働いているのではなくて、御子の働きは御父の働きそのものになっているという一体性を伝えたい。御子の働きは御父の働きそのものなのである。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」(19節)。ユダヤ人たちが怒った、38年間病気にかかっていた男のいやしは、キリストの勝手な働きなのではなく、御父の働きであり、神そのもののみわざなのだということになる。だから怒る理由はさらさらない。キリストの中に御父は融和しており、キリストと御父は一つなのである。キリストのみわざは御父のみわざである。キリストのみわざは御父に示されて行うみわざなのである(20節前半)。
キリストは20節後半において、ご自身のみわざの種類について、大切なことをほのめかす。「また、これよりもさらに大きなみわざを示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです」(20節後半)。「これよりもさらに大きなみわざ」ということばに注意が惹きつけられる。「これよりも」の「これ」というのは、38年間、病気にかかっていた男の肉体のいやしである。「これよりもさらに大きなみわざ」とは何だろうか。それは、永遠のいのちを与えることである(21節)。永遠のいのちは死によっても消え失せることのないいのちだが、それは延命治療で引き延ばすいのち程度のものではないし、永遠に終わることがないいのちというだけでもない。それは神との関係における生の満たしである。生の充足である。
キリストはここで永遠のいのちが与えられる前の人のことを「死人」と呼んでいる。エペソ2章1節では「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」とある。神から離れ、神のいのちを失い、罪の中に死んでいた人が死人であると言うのである。いのちを失った死んだ生き物は、すべて腐っていくだろう。詩編14篇2~3節にはこうある。「主は天から人の子らを見下ろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。神から離れた私たち罪人のたましいは霊的に死んでおり、腐敗しており、それは悪臭を放ち、ほんとうのいのちを必要としている。キリストは神のいのちであり、私たちを腐敗から救い、永遠に生かすいのちなのである。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。聞く者は生きるのです」(24,25節)。「御父と御子が一つであることを信じ、与えられる永遠のいのちは、「さばきに会うことがなく」と、今、この地上生涯の時点で神との関係を修復してしまう。ということは、今すでに、「死からいのちに移っている」ということなのである。今、現在、神のいのちに生かされ、死人でなくなり、真に生きる者となったということである。永遠のいのちは、今ここで、現在において働くいのちである。
そしてキリストが与える永遠のいのちは未来においても働く。永遠のいのちは肉体の死によっても妨げられることはないばかりか、そのいのちは、後の日に、復活のからだをも与えるものである。「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(29節)。これは、終わりの日の審判の描写である。「よみがえっていのちを受け」は、キリストが永遠に朽ちることのない復活のからだを与えてくださることの描写である。この個所は、一見すると、「善を行った者は」と、善を行うか、悪を行うかで将来の救いが決まるかような描写となっている。だが、救いは行いにはよらずキリストを信じる信仰による、ではなかったのだろうか。どういうことなのか説明しておこう。キリストは山上の説教において、「良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結ぶ」と話された(マタイ7章17節)。キリストを信じることを接ぎ木にたとえてみよう。キリストを信じる、すなわちキリストに接ぎ木されているならば良い実を結ぶはずである。それは行いの実である。「善を行う」というのは、キリストに接ぎ木されたしるしということになる。キリストに接ぎ木されているかいないかは、実によって見分けることができると言える。キリストに接ぎ木されているならば、キリストのいのちが働き、必ず良い実を結ぶはずである。後に、キリストは15章で、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしにとどまりなさい」と語ることになる。キリストといういのちにとどまることが大切である。
現在、コロナウイルスの感染で、治療薬やワクチンの開発が待ち望まれているわけだが、それらは、この肉体のいのちを延命させるためのものである。神のいのち、永遠のいのちを与えるものではない。真に私たちを生かし、永遠に生かすのは、キリストが与えてくださるいのちである。ヨハネの手紙第一5章20節が告げるように、キリストはまことの神であり、永遠のいのちである。キリストご自身が永遠のいのちである。このいのちこそが人類に最も必要なものである。
今日の記事の後半の30節以降では、「証言」ということばが目立っている。11回登場している。何についての証言かと言うのなら、キリストが神のメシヤであることの証言である。キリストは、ご自身を神のメシヤとして信じようとしないユダヤ人たちに対して、四つの証言を挙げている。第一は、自己証言(31節)。第二は、バプテスマのヨハネの証言(33節)。第三は、キリストのわざによる証言(36節)。ヨハネの福音書には、キリストが行われた七つのしるしについて記されているが、それはキリストが神のメシヤであることを証するものであり、ほぼすべてが、キリストが与える永遠のいのちと関係している。第四は、父なる神の証言(37節)。父なる神の姿を見たこともなく、声を聞いたこともない。それでは証言になるのかということだが、父なる神は聖書を通して証言しておられるということである。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39節)。ここでの「聖書」とは旧約聖書を指すわけだが、46~47節をご覧いただくと、モーセ五書が強く意識されていることがわかる。ユダヤ教の主な宗派はサドカイ派とパリサイ派であるが、旧約聖書のどの書を聖典とするかで違いがあった。しかしどちらの派も、モーセ五書を聖典とすることは一致していた。4章に登場したサマリヤ人たちもモーセ五書は聖典として認めていた。モーセ五書はキリストを証する書であったのである「。モーセが書いたのはわたしのことだからです」(46節後半)。キリストを証する書であるというのは歴史書、詩編などの詩書、預言書も同じである。そして私たちは、新約聖書を通して、より明確にキリストを知ることが許されている。新約聖書には、今まで見た、キリストの自己証言、バプテスマのヨハネの証言、キリストのわざによる証言も入っており、それに加え、キリストの使徒たちの証言も加えられている。もう完璧である。キリストは誰でどういうお方なのかを知るための証言は、すでに完全に備えられている。私は大学生の求道時代、クリスチャンの友人から質問を宿題として出された。「斎藤、聖書の中心は何だかわかるか?」一週間ほど考えたが、よくわからず、答えを尋ねると、「聖書の中心はキリストなんだ」という答えが返ってきた。聖書はキリストを証する書であるということである。私たちは、そのことを意識しながら、聖書の各書を読み、キリストの素晴らしさを、日々、発見していきたいと思う。そして、その発見した宝を他の人にお分かちしたいと思う。目的は、一人でも多くの人がキリストと出会い、永遠のいのちを持ってくださることであり、また互いにキリストにあって喜ぶためである。
ユダヤ人たちは、数々の証言を提示されながらも、それらを受けつけない。キリストを信じ、永遠のいのちを受けるチャンスを与えられていながら、それをふいにすることになる。彼らがすべての証言をはねつけてしまうのはなぜなのだろうか。44節において、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」とある。どいうことかと言うと、単純に言ってしまえば、彼らの関心は神にはないということである。それは42節からもわかる。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを」(新改訳2017訳)。つまりは、神への求道心がない。プライドだけが高く、関心は自分のメンツを立てることだけ。人の評判、評価を上げるために、自分を立派に見せることには心を砕く。反対に、へりくだった心で神を求めることはしない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18章11節)。聖書はくりかえし、神からの栄誉は神の前にへりくだる者に与えられると主張しているが、彼らはエリート意識が高く、自分の知識と義にしがみつき、人にほめられるのは大好きだが、とやかく言われるのはまっぴらごめん。罪人扱いされるのは大嫌い。これでは、真の求道心は生まれない。聖書も、ただの教科書、参考書で終わってしまうのだ。現代人もこのような人たちは多いだろう。私たちはどうだろうか。低い心で神を愛し、キリストを慕い求める者たちとなろう。そしてキリストが与えてくださる永遠のいのちを、さらに豊かに注いでいただこう。