「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(42篇1節)。私たち人間は神のかたちに造られた存在です。神のかたちに造られた存在は物質や神以外のもので満たされるはずはありません。神を知らないこの世界に住む私たちは渇きを覚えることになります。私たちの文化が神以外の代替物で満足させようとしても、私たちは満足できないのです。もちろん、孤独、孤立を喜ぶこともできません。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています」(42篇2節)という告白が生まれます。
詩編42篇、43篇はもともと一つであったと考えられていますが、「神への渇き」がテーマになっています。そして「共同体としての礼拝」ということがもう一つのテーマになっています。この二つは一つであり、切り離すことはできないのです。
詩編の作者は、神への渇きをもつ我が身を、谷川の流れを慕いあえぐ鹿にたとえています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(42篇1節)。これを読んで、緑豊かな自然の中で、水流が豊富な小川で舌鼓を打つ鹿をイメージされるかもしれませんが、そのような状況とは程遠いようです。まずパレスチナの乾燥した土地柄をイメージしなければなりません。乾いた地に太陽が照り付けています。「谷川」と訳されている<ワディ>は、共同訳では「涸れ谷」と訳されており、<ワディ>は「涸れた谷川」を意味しています。雨期ではない乾期の谷川を思い起こします。雨期には水が溢れていますが、乾期には川が干上がり、川底が見えてしまうこともあります。その川に水は十分にないと分かっていても、鹿は水を求め、慕いあえぐほどの渇きをもっています。ジリジリと太陽が照りつける暑さの中で水を飲まないでいると死んでしまいます。この渇きを強める他の理由もあります。「鹿」には女性形が使われており、臆病な女鹿が考えられます。臆病な女鹿は悠々と谷川に近づけるわけではありません。臆病な女鹿が恐れる存在は野獣です。詩編の作者は、神を恐れない人々に囲まれて暮らしているようです。42篇3節にあるように、一日中「おまえの神はどこにいるのか」とそしられながら暮らしています。10節でも同じ表現があります。10節では「敵対する者ども」という表現もあります。弱くて臆病な女鹿は乾いた地で谷川の水を慕い求めつつも、谷川から離れた場所にいて、野獣を恐れて近づけず、水を飲めないでいるのです。やせ細り、渇きはひどくなる一方です。全く哀れな女鹿です。この哀れな様を想像してみてください。絵に描くとどういうことになるでしょうか。孤独でみじめで弱々しく可哀そうな女鹿です。涸れた谷川にも近づけないでいるのです。
詩編の作者はどこにいたのでしょうか。聖地であるシオンにはいないようです。6節に「私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします」とありますが、これらの場所はエルサレムから離れた北の地にあります。4節最後の行には「神の家」とありますが、「神の家」は神の住まいで、神が臨在される場所、すなわちエルサレムの神殿を指します。しかし、そこから離れた遠い地で、敵に囲まれ、神を慕い求めて渇き切っているということです。神への渇望がピークに達しているような状態です。
詩編の作者のこの時の状態をもう少し考察してみましょう。7節では「あなたの大波のとどろき」という描写があります。彼が住んでいたヘルモン山のふもとでは、ヘルモンの雪解け水が激流となって流れる様子を見ることができました。涸れた谷川とは真逆の光景です。彼は苦悩の大波が私を襲っている、それは神の御手が許されたことなのだという感覚をもっていたようです。彼をこれほどまでに苦悩させるものは何であったのでしょうか。43篇1節を見ていただきますと、彼を敵のことを「神を恐れない民」と表現しています。彼は神を恐れない民との人間関係で神経がすり減っていったことは想像に難くないのですが、貧しさや健康の阻害といったことも付きまとったのではないでしょうか。先の「大波」に彼の病を考える方もいます。彼は43篇2節では、「なぜあなたは私を拒まれたのですか」と絶望感を表わしています。同じような吐露は42篇9節にも見られます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」。神の助けが生活の中で余り感じられないようなみじめな状況に置かれているようです。だからこそ、周囲の人たちから、「おまえの神はどこにいるのか」とあざけられるのです。こうしたあざけり、ののしりは、彼のたましいを打ち砕く棒のようでした。
私たちは神の前に嘆きを吐露していいのです。しかし、それだけであってはならないことを、これらの詩編は教えてくれます。詩編の作者は、絶望感を覚えながらも、神を待ち望み、ほめたたえています。42篇5節をご覧ください。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。同じような表現が42篇の最後の節(11節)と43篇の最後の節(5節)でも記されています。読んで確認してください。彼はただ嘆きを吐露しているだけではなかったのです。うなだれ、思い乱れ、うつむいているだけではなかったのです。神を待ち望む姿勢を忘れてはいませんでした。希望は捨てず、顔を上げ、神をほめたたえていたのです。「私はなおも神をほめたたえる」の「なおも」ということばに注目しましょう。嘆くしかないような現実でした。「おまえの神はどこにいるのか」と言われる有様でした。それでもなお、神は私の救い主であるとほめたたえたのです。私たちは、うなだれている時も、思い乱れている時も、神をほめたたえること、神への賛美を止めてはなりません。なおもほめたたえるのです。失望や嘆きがある時にこそ、意識して賛美をするのです。賛美は力です。なおもと賛美をささげるのです。日毎、賛美の祈り、賛美の歌をささげましょう。どのような時も神をほめたたえることをやめてはなりません。なおもほめたたえるのです。それが神を待ち望む者の姿勢です。
次に、共同体としての礼拝について触れたいと思います。詩編の作者は強烈に神に渇いています。そして、それがなぜか、他の仲間たちと一緒に神を礼拝することへの求めとして表されているのです。42編4節はエルサレムに巡礼の旅に出かけ、群衆とともにユダヤの祭りを祝った喜びを回顧しています。読んでみましょう。これは他の信じている信仰者たちと一緒に礼拝をささげた思い出の回顧です。これが神に渇いている者の姿です。彼はひとりでデボーションの時は持っていたはずです。現代は個人主義の時代なので、個人礼拝で事足れりとする傾向にもあります。しかし、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」という渇きは、作者にとって神殿礼拝への渇望、公同礼拝への渇望だったのです。神への渇きは、共同体としての礼拝を通して、真に満たされることになるのです。
詩編の作者は、この礼拝の回復への願いを43篇で表しています。3,4節をご覧ください。42篇では、「過去に」仲間たちと一緒に礼拝をささげたことを回顧していました。43編では、「未来に」この礼拝が実現するようにと願っているのです。「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まい(シオンの山にあるエルサレム神殿)に向かって、それらが、私を連れて行きますように」(3節)。42篇を含めて43篇2節までは全くの闇の状況です。待ち望まれるのは光です。作者は周囲を照らし導くものとして、3節で「光」を求めています。神に敵対するこの世自体、実に暗いのです。闇夜です。救いの光、導きの光が必要です。「光」とカップルの「まこと」は神の真実を意味し、それはどれが進むべき道なのかを識別させてくれるものです。こうしてたましいは生ける神に、礼拝に向かっていくのです。
「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ」(4節)。この詩編の作者は表題を見ると「コラの子たちのマスキール(教訓的な歌)」となっています。「コラの子たち」とはレビ人の家系の子孫で、神殿で歌いうたいの奉仕をしていた者たちであることがわかります。作者は、また昔のように礼拝の場で神をほめたたえることを願っているのです。そして注目すべきは、賛美の対象である神を「私の最も喜びとする神」と表現していることです。直訳はぎこちないですが「私の歓喜の喜びとなる神」となります。歓喜、喜びという二つの喜びの表現を重ねることによって、神が私にとって最大の喜び、最高の喜びであることを表しています。神が私にとって最大の喜び、最高の喜び、私の宝、私のすべてであるならば、それはどこへ向かうのでしょうか。神への渇きとなって神と親密な交わりをすることを求めるでしょう。そして、神の民たちとともに神を賛美し礼拝をささげることを求めるに至るでしょう。今日の礼拝も主にあって感謝したいと思います。
最後に、共同体としての礼拝ということで、参考にヘブル10章25節を開いてみましょう。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」。この手紙は、一世紀のローマにいるクリスチャンたちに宛てて執筆されたものと思われていますが、「ある人々のように」と、教会の交わりから離れ、いっしょに礼拝をしない人たちが現れてきたようです。周囲には信仰に反対する人たちが大勢いました。この世からの誘惑もありました。そうしたことから、恐れ、倦怠感などが支配的になって、遠ざかっていったのでしょう。結局は、神への渇きを失っていったのです。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。そのような渇きを持ち続けましょう。生ける神は私たちのいのちの泉、私たちの永遠の喜びです。