著者は「快楽の空しさ」(2章1~11節)に次いで「死の空しさ」について述べます(12~17節)。彼が主張したいことは、人生の終着点が死であるならば、すべては空しいということです。著者が特に空しいと感じていることは、どんな人物だったかに関係なく死は訪れるということです(14~15節)。あんなりっぱな人、もうちょっと長生きしてほしかったと死を惜しむことは多いわけです。特に、飛行機事故とか、本人の責任に関係なく亡くなってしまう場合がそうです。敬虔な人物が早く亡くなり、高慢で横暴な人物のほうが長生きしてしまう場合も良くあります。不条理にも感じます。けれども、キリストにありて、死は人生の終わりとする必要はなくなります。
 キリスト教は「死」のことを「召天」(天に召される)、また「帰天」(天に帰る)と積極的表現で言い表します。まさしく死とは、キリストにありてそのような時です。この世の人々は、やがて自分に必ずや訪れる死を直視できないで他人事のように思っているところがあります。ブラックホールのように、すべてを暗黒に飲み込んでしまう死が恐ろしいからです。誰かの死のニュースを聞いて「かわいそうに」と思っても、その死がやがて自分にとっても現実のものとなるということを真剣に考えません。いや考えたがらないのです。死の先に確かな希望をもっていないからです。この者が伝道者1章のメッセージの時に語ったキリストのみことばを思い出してください。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)。キリストが与えるいのちとは、私たちを空しさから解放し、永遠のいのちを与えるいのちです。死に打ち勝ついのちです。私たちはキリストにありて死を直視し、死を乗り越えていくことができます。死の空しさは一転して、天の御国の喜びへと変わります。
 キリストのことばを、もう一箇所ご紹介しましょう。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために場所を備えに行くのです」(ヨハネ14章1~2節)。キリストは死よりよみがえり、私たちの先駆けとして天に昇られ、天の御国に私たちの住まいを用意してくださっています。
 わたしが関東で牧師をしていた時、両方とも再婚で、酒場で知り合ったという老夫婦を訪問していました。宗教嫌いを自負するご夫妻でしたが、忍耐深く訪問を続け、奥様が先にキリストを信じてくださいました。ご主人の方はというと、聖書の話には全く耳を傾けてくださいませんでした。ところがその後、そのご主人は脳梗塞で倒れられました。退院後、奥様がご自宅でご主人を介護する日々が続きました。奥様の働きかけもあって、ご主人は病床でキリストを信じ受け入れられました。私がご自宅を訪問すると、奥様はご主人のベッドの傍らで、いつもこう言ってご主人を励ましておられました。「おじいちゃん。イエスさまは天国で、おじいちゃんに家を用意してくださっているんだからね」。奥様は死を恐れるご主人の不安を、こうしてかき消しておられました。その姿がとても印象的でした。私たちも、ヨハネ14章1~2節のキリストのことばに応答したいと思います。