伝道者の書の3章1~15節は「時間」について教えています。私たちは時間の世界に生きています。神さまは時間の世界にも時間の外の世界にも生きています。この事をたとえを使ってわかりやすく話しましょう。仮に皆さんが電車に乗っているとしましょう。車窓から外の風景を見ています。まず、大きな山が見えました。山の頂上付近は雪を頂いています。しばらく走り、そして牧場が見えます。そこに、かわいらしい羊の群れが見えます。そこからしばらく走ると、5分後には海が眼前に広がることになります。車窓から過去において、山が見えました。現在、牧場を見ています。未来には海が見えます。過去、現在、未来で車窓から見えるものは異なります。ところが電車の上をヘリコプターが飛んでいます。ヘリコプターからは、電車に乗っている人が見た風景、過去、現在、未来の風景が時間差なく、同時に見えます。山、牧場、海が同時に見えます。過去も現在も未来もありません。ちょうど神は、ヘリコプターの上から地上の風景を見ている人のようです。私たちの過去、現在、未来を永遠の今として見ておられます。神は時間の創造主であり支配者です。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(1節)「天の下」は時間の世界。時間は神が造り、神が支配しておられます。神は時間の中にだけではなく、時間の外にもおられる神。そして、ここでは、人生のすべての出来事には、神によって定められた時があると告げています。神は過去、現在、未来とすべての時間を見渡しておられ、それぞれの時に何が起こるかを定めておられます。実は、私たちが気づかないまでも、私たちの人生には神の時が織り込まれています。人生、偶然の重なり合いと考えるのではなく、そこに、見えざる神の御手を見、生かされていることをしみじみと喜べる人生を送りたいと思います。注意すべきことは、すべてのことはもうすでに定まっていると運命論的に考えてしまい、投げやりになったり、無気力になったりすることです。そうならないために、私たちは三つのことを受け入れなければなりません。
 1)私たちは、その日、その日に、自分の行うべき義務を見つけ、それを行っていくということ(10節)。この世に生きている限り、私たちには神から託された使命があります。それが何であるのか、今日何をしなければならないのか、それを神を愛し人を愛すという明確な目的の中で、知り、実践していきたいと思います。サミュエル・ウルマンは言っています。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失ったときに、初めて老いがくる」。私は今、何をするように定められているのだろうか、この時、何をしなければならないのかと、それを積極的に求め、発見し、生きていきたいと思います。
 2)神はすべてのことを働かせて益としてくださるということ。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(11節前半)。時には私たちの思いに反することが起きてしまいます。また辛酸をなめさせられるようなことが起きます。その時は、それがストレスで苦しく、辛いものでしかないのですが、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」(詩編119編17節)という告白に至ることができます。ですから、短絡的に事象を見ることなく、神を待ち望みましょう。
 3)私たちは、永遠に思いを馳せることができるということ。「神はまた、人の心に「永遠への思いを与えられた」(11節前半)。私たちは神ではないので、永遠の初めから終わりまで見極めることはできません。しかし、永遠を想うことが許されています。そればかりか、キリストを信じる信仰によって永遠のいのちをもつことを許されています。「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。このみことばに応答したいと思います。神の下さる永遠のいのちが、やがてちりに帰る人間に与えられた希望です。