最初に、食道癌を体験した55才男性の手記の抜粋を紹介したと思う。彼は航海をなりわいとしてきた方で、それまで「病気」という二文字には縁のない日々を送ってきた。
「病気なんかになる者はろくな者じゃない。それはその人自身が悪いからだ」と思っていた私は、強くたくましい体を持ち続けることこそが、人生の勝利に結びつくものだと信じきっていました。・・・二度目の検査の結果、先生から「悪性の腫瘍があります。すぐに手術しなくてはだめですね」と告げられたのです。・・・ショックで目の前に、越えがたい黒い大きな壁が立ちはだかり、からだから力が抜けてゆきました。「これはいったいどうしたことだ!なぜなんだ!俺は何も悪いことはしていない!それどころか、俺はいつだって被害者だったじゃないか!」幼い頃、貧乏のどん底にあって欲しい物を手にすることがかなわず、級友たちを羨望の眼差しで見ていた自分。幼い弟妹の食い扶持稼ぎのために、早くから働かなければならなかった日々。からだにハンディがあるため、なりたい職業に就けない苦悩。兄の事故死。母の自殺。妻の浮気。そして離婚。子どもとの別離。財産をすべて失い、残ったのは借金と年老いたからだだけ。そこへきて、「だめ押しの癌か。もう神も仏もあるもんかっ!!」・・・その後(術後)、ICUに移され、物音に反応して万身の力を込めてまぶたを少し開いたとき、そこに家族の姿がありました。その瞬間、涙が溢れて止まりませんでした。「ああ、本当に生きて帰れたんだ!神様ありがとうございました」。いちばん感謝を表現したいときに、口も手も足も動かせないのは辛いものでした。ICUでは何一つ自分でできない無力さを、感じざるをえませんでした。自分一人では呼吸もままならず、寝返り一つ打てない有様。ただ天井を見つめているだけの状態で、看護婦さんや機械のお世話にならなければ、生きていけない存在でした。これほど人様のお世話になろうとは、思いもよらなかったことでした。
「いったい私は、いつの頃から人の世話になることを恥としてきたのだろう?」私は兄弟の多い環境で育ちました。次から次へと生まれてくる弟妹の世話で、母親は先に生まれた私の面倒までは、とうてい回らない状況でした。その中にあって、他の兄弟たちよりも、より多くの眼差しを獲得することから人生がスタートしました。何事も要領よくやること。そのためには、まちがいや手落ちがあってはならぬ。完璧に近い行為は、人の視線を浴びる絶好のチャンス。兄弟の中で№1でいたいという思いが、その方向を選ばせてしまったのです。「お前は手がかからなくていい子だ」。「この子は物わかりがいいから一人でもちゃんと生きてゆけるよ」。そういう褒めことばを受けるたびに、ますます私の中でよい子を確かなものとしていったのです。長ずるにつれ、その思いは、「俺は一人でちゃんとやっている」「誰の世話にもなっていない」という自負心につながっていったのでした。「自分の道は自分で切り拓くんだ!人の世話になるような人間は価値がない。最低だ」。そう信じてきた私が生かされてある今、大いなる存在の前に、小さく溶けゆく思いでした。「弱い自分があってもいいんだ」。「知らないことがあってもいいんだ」。「もう高望みや背伸びをしなくてもいいんだ」。今まで自分の人生に背を向けてきた私が、病により、自分の人生を受容するチャンスをいただいたのでした。・・・
この方はまた、当たり前だと思っていた食道という器官も、神さまが与えてくださった大きな役割を果たす器官であることに気づいたことも記している。そしてこの方は、手記の最後のほうで、病を今まで忌み嫌うべきものであり、価値のないものであると思っていたけれども、病という出来事には意味があること、そして病の中にあって、心の深みからの声なきメッセージに耳を傾けることが何よりも大切だと思うということを記しておられた。
今日のテーマは「病のいやし」ということになろうかと思う。今日の物語は、書いてはいないが、キリストの第三のしるしである。物語は5章47節で完結するが、今日は病人がいやされた個所までから、教えられることを見ていこう。
キリストがいやしを通して、ご自身がメシヤであることを啓示される。エルサレムのベテスダと呼ばれる池での出来事である(2節)。この池はエルサレムの北東に位置するが、かなり大きな池である。縦100㍍×横50㍍、縦100㍍×横70㍍。この二つの池が並んでいる。多くのスイマーではなく、多くの病人がいつもこの池に集まっていた。この池は薬効のある間欠泉(熱湯を吹き出す温泉)だったが、湯治のために人々は集まっていた。この池が特に人気だったのは一種の迷信が信じられていたからである。3節の欄外註を読んでみよう。「天使が水をかき回した後で、一番最初に入った病人は治る」と信じられていた。カトリックやギリシャ正教では、この聖水に与ればご多幸がある、といった信仰を信者たちに植え付けてしまっている場所が幾つかあるが、いつの時代でも、こうした迷信じみた信仰がある。
キリストはベテスダの池に集まっていた病人の中でも、一番望みのないような病人に声をかける。「三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」(5節)。年齢も若くないことがわかる。不治の病に長年かかっていた。どのような病気かわからないが、3節から察するところ、「足のなえた者」か「やせ衰えた者」であったことは確かであると思う。彼は人々に余り顧みられない人であったことは確か(7節)。病歴からいって彼は一番大変そうな人だから、彼を先に入れてあげよう、などと誰も思わなかったようである。キリストは4章を見ると、ユダヤ人に嫌われていたサマリヤ人の女や、ユダヤ人が軽蔑していた王室の役人を救ってきたことがわかる。また、ここでも、余り人に顧みられてこなかった者を救うことになる。
キリストは彼に目を留め、声をかける。「よくなりたいか」(6節)。この男はもちろん、よくなりたい、健やかになりたいと思っていた。だからこそベテスダの池の所まで来て、池を見つめていた。けれども病気が長引くと、治りたいという気持ちとともに、「今日も明日も何の変化もないかもしれない。同じような日が毎日続くのだろうか。日はまた昇り、日はまた沈む」と、ため息が出る毎日となっていく。いずれ彼には「よくなりたい」という意志は残っていた。そんな彼に「よくなりたいか」ということばは、意欲をかき立てることばである。またこのことばは、キリストの愛の裏返しのことばである。あなたを治す意志があるよ、ということばである。
この男は治りたい意欲を示すも、その心はベテスダの池に向けられてしまう(7節)。そして、「池の中に私を入れてくれる人がいません」ということばは、「よくなりたいか」と声をかけた人物に、健やかになるための補佐的な役目、補助的な役目を期待するようなことばにも受け取れてしまう。しかし、キリストは補佐でも補助でもなく、いやす主体となるお方なのである。池ではなく、キリストに心を向けよ、である。
私たちは普段、病気になった時、薬や医者に頼るだろう。では神に対してはどうだろうか。人々のいやしに携わってきたブルームハルトというドイツ人牧師のいやしについての考え方は参考になる。彼は「神に頼ることは、医術による治療を排除する」とは言っていない。しかし彼は「医者がどのように熟練し、技術に長けていても、本来的にいやすのは医者ではない」と言っている。彼が警戒したのは医術そのものが希望の対象となってしまうことであった。彼は言う。「私が希望するのは、医者と病人が、神の全能の御手のもとに謙遜になること以外のことではない。すなわち、医者はあまりに思い上がって、自分がいやしを強奪できるかのようにうぬぼれることがなく、また、病人は、人間的な技術や人間的な本性に置かないことである」。
イギリス出身のリーズ・ハウエルという伝道者がいる。彼はとりなしの祈りによって数々の奇跡的いやしに携わる。その後、医学を研究するように導かれる。神さまは薬やその他の方法もいやしのために用いられることを学習する。彼は専門家がサジを投げ出してしまった時のみに、神の直接的ないやしがあることを原則として語っていた。神は通常、この世の医療を用いていやされる。そして直接的にいやされることもある。方法はどうであってもいやしの恵みを与えられる方は神ご自身なので、いやしの希望は主なる神に置くということである。私自身、直接主の御手でいやされたことも経験したが、通常は医療手段を通していやされた。また神さまが人間に与えてくださっている免疫力が強められていやされることも普通にあった。手段、方法は様々でも、主ご自身に希望を置くことが大切である。主は補佐でも補助でもなく、いやしの主体である。
そして、なぜかいやされないということも起きる。ある一定の期間、病が治ることを許されないということもある。今日の男性の場合は38年間。彼にとってはつらい期間であったわけだが、神は無意味にその期間を許されたわけではない。以前、30年間いやされず重病の床にあった方が、主によっていやされたという記事を読んだことがある。また、一生いやされないということも神の主権のもとで起きる。私は大学卒業後、体を壊して自宅療養中、自分の体の弱さを神さまに訴えた時、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」というみことばを与えられた(第二コリント12章9節)。このことばは、人にいやしのみわざを行いながら、肉体の障害を一生抱えることになってしまった使徒パウロに与えられたことばである。彼は、この障害を取り去ってくださいと三度も願ったが、先のことばを与えられることになる。神さまの御思いというものは高い。神さまは、それぞれの人にご計画をお持ちである。だが、神さまは、やがてすべての信仰者を健康にする。人は、死んだら終わりだと言う。けれども、その時が信仰者にとって健康になる時であることを聖書は約束している。朽ちない復活のからだも与えられることが約束されている。最終的に、神は病をいやす。
キリストは、みことばの力で彼をいやされる。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)。ベデスダの池のほとりで伏せっていた病人は、池の音に反応するのではなく、キリストのことばに反応する(9節)。「床を取り上げて歩き出した」というのは、彼は単に治ったというのではなく、強くされ、筋肉も増強したことを物語っている。まことに、キリストがメシヤであることを表すのにふさわしいしるしであった。そしてこれは全き愛のみわざであった。
ところが、キリストと正反対の心の持ち主が登場する。ユダヤ人たちである(10節)。この日は安息日だった。彼らは39か条の安息日の規定を設け、その一つに安息日に荷物を運搬してはならないというものがあった。これ自体はまだいいとしても、この荷物の運搬に「床を取り上げて歩く」ことが入ると解釈しているわけである。彼らは病人の病のいやしなど少しも喜んでいない。喜ぶどころか、非難する有様。彼らに神の愛はない。キリストは、この物語の後半で、彼らにお説教することになるが、それは次回見よう。
いやされた男は、自分をいやして下さったお方が誰かを知らないでいる。名前さえ知らない模様(12,13節)。これまで、キリストは取り扱った人の前から、相手にご自分を認識させないうちに素早く消え去るなどということはして来なかった。おそらく、キリストがすばやく立ち去ったのは、一つは場所が関係していると思われる。キリストは、これまでのように、家の中とか、田舎のガリラヤ地方とか、そういう場所にいたのではなく、ご自身に殺意を抱いていたユダヤ人たちが固まって活動している聖地エルサレムの、しかも人通りが閑散とした場所ではなく、けっこう人が集まっていた場所におられた。そこで驚くべき奇跡を行われたわけである。人々は騒然となって押し寄せ、パリサイ人たちなどがさっと登場することが予想され、彼と差しで話せるような環境になかったと思われる。
キリストは時と場所を変えて、彼をつかまえて話された。「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことが起こるから」(14節)。いやされた男は神殿に感謝を捧げに来たのだろうか。さて、ここでのキリストのことばをどう受け取ったらよいだろうか。特定の病はいつも罪に原因があると結論づけてよいのだろうか。しかし、そうあってはならないことは、9章1~3節で見る、生まれつきの盲人の記事から明らかである。当時の人は、病人は罪深い者で、病は罪のしるしだと決めつける傾向があった。だが病気の原因は一様ではない。特定の病気と罪を結び付けるのは愚かである。病気の人は罪があり、健康な人は罪がない、などと決めつけるのは愚かである。聖書は脂ぎって健康そうな人の方が罪深いということがあることも語っている。しかしもちろん、不摂生とか、怒り、憎しみといったマイナスの感情が病をもたらすことは事実であるし、病や死自体は、アダムとエバの罪によってこの世界に侵入してきたものであることを聖書は語っている。また神さまの直接的なさばきとしての病もあることも事実である(預言者エリシャのしもべゲハジ 第二列王記5章20~27節)。ベテスダの池のほとりでいやされたこの男はどうであったのか、解釈は分かれるが、見落としてならないことは、キリストはこの男を愛しておられるということ。彼は人に余り顧みられず池のほとりに伏せっていた。ユダヤ人たちはいやされたこの男を見ても、非難するだけ。けれどもキリストはイニシアチブをとって伏せっている彼に近づき声をかけ、いやしのみわざを行い、また治ってからも彼を捜し、彼の永遠の祝福を願って声をかけている。キリストを通して、やはり神の愛が啓示されている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。
キリストは、この14節で生活指導をしている。医者は術後の患者に再発しないように生活指導をするだろう。キリストはたましいの医者として生活指導をしている。キリストは他の時に言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい者を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2章17節)。病人、罪人と自覚する者こそ幸いなのである。
5節に戻ってみよう。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」。「病気」と訳されていることばは、「無力、弱さ」という意味のことばである。これを霊的なことに当てはめれば、罪のゆえに神に従いえない弱さ、すべきことが分かっていてもそれをすることができない無力さ、たましいは病んでいる。最終的には滅びである。ダビデは言った。「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14篇3節)。このような意味において、私たち罪人は病人である。ベテスダの池でいやされた病人は、その代表のような人かもしれない。三十八年という長さは、いやされる望みもないような長さであり、彼はもっとも無力に思われる病人である。絶望的に見える。自暴自棄になってもおかしくない。彼は「よくなりたいか」ということばにトンチンカンな反応を示すも、「よくなりたい」という意志を表すことができた。明日もあさっても同じ私、変われるはずはない、変わりたくもない、と諦めきっていたのなら、その先に希望はないだろう。「よくないたい」という意志をキリストに向ける者は幸いである。
私たちは、今日の個所を肉体のいやしの次元だけで読むこともできるだろうが、キリストはそれ以上のいやしを提供してくださることを知ることができる。その処方箋は罪からのいやしと「永遠のいのち」である。このいのちは霊、たましい、からだ、全存在のいやしを与えるものであり、永遠の生であり、人間本来の姿に回復させるいのちである。キリストは現在、それをご自身の御霊を通して与えてくださる。