ヨハネの福音書はいやしに関する物語が多くあり、私の中では福音書の中でいやしについて一番教えられる書である。今日の物語はヨハネの福音書における一番最初のいやしの記事である。場所はガリラヤ地方である。「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた」(43節)。「イエスはここを去って」の「ここ」とは二日間滞在されたサマリヤであった。そこでサマリヤの女をはじめ多くのサマリヤ人がキリストを信じたわけであるが、もともと、サマリヤを通ってガリラヤへ行くことが目的であった。続く44、45節を読むと、このガリラヤ行きに関して読者を悩ませることが書いてある。43節の「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた」の記述の後、ガリラヤ行きの理由として、「イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言しておられたからである」(44節)と理由を述べている。故郷のガリラヤではユダヤと違って歓迎されるから行かれたのかと思いきや、そうではなく、故郷のガリラヤでは歓迎されないからこそガリラヤに行かれた、と読める。にもかかわらず、「そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した・・ ・」(45節)と続く。44節で、尊ばれない(歓迎されない)<から>とあり、ところが45節で、<そういうわけで>ガリラヤ人は歓迎したとなっている。これをどう理解したら良いのか。この難問の解決のために色々なことが言われているが、キリストの故郷はガリラヤであるということはまがいもない事実である。心に留めたいことは、45節で「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」とあるが、それは表面的なことに過ぎないということである。ガリラヤ人の多くがキリストを排斥することになる。彼らの不信仰は、48節の「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」というキリストのことばにも表されている。ガリラヤ地方の人も、ユダヤ地方の人同様、不信仰である(3章32,33節)。キリストは少数の者しかご自分を受け入れない不信仰の地であると分かって足を踏み入れた。一人でも多くの人に救われてほしいと。そして不信仰が満ちている中にあって、キリストの証しを受け入れた人の実例が今日の個所に記されている。
さて、今日見る奇跡は「第二のしるし」と言われている(54節)。「しるし」という表現は単なる奇跡を意味しないことを、「第一のしるし」があったカナの婚礼(2章1~11節)で説明した。奇跡を意味する一般的な言語に<デュナメイス>がある。これは「力あるわざ」を意味する。また<テラス>がある。これは「不思議」と訳する。「しるし」は<セーメイオン>である。聖書での「しるし」の用法を見るときに、それは確かに力あるわざであり、不思議という側面がある奇跡なのだが、信仰の目をもってそれを見るときに、そこに神の存在と神のメッセージを読み取ることができるものなのである。特にヨハネの場合は、キリストがメシヤであることを啓示するものとして「しるし」ということばを使っている。
キリストの最初のしるしは、婚礼の場面で水をぶどう酒に変えるというものであった。婚礼またぶどう酒は、メシヤ時代のシンボルだった。キリストは最初のしるしを通してメシヤ時代の到来を告げた。ご自分こそがメシヤであることを啓示された。また、そこで行われた水からぶどう酒という質の変化は、キリストにあって新しい人になれるという希望をもたせるものでもあった。
今日の第二のしるしが行われる場所は、やはりガリラヤのカナである(46節前半)。けれども婚礼といった喜びの場面ではない。ひとりの人が死にかかっているという顔が曇る場面である(46節後半、47節)。キリストはどのような場面でもみわざを行ってくださるお方である。カペナウムの王室の役人の息子が死にかかっているというニュースがキリストの耳に飛び込んできた。キリストは瀕死の子どもがいることを知る。しかし、これは人間的な言い方で、キリストにとって全くの初耳という事柄は何もない。先のサマリヤの女との対話では、キリストは初対面のサマリヤの女の過去も現在も、すべてお見通してであられた(18節)。同様に、キリストはすでに王室の役人の家族の、この危機的な状況を知っておられただろう。キリストはすべての人のすべての状況をご存じであられる(3章35節)。
登場する「王室の役人」とは、この地を統治していたヘロデ・アンティパスの宮廷の役人である。この仕事にはユダヤ人も異邦人も就いていた。どちらかというと、異邦人のほうが多かったようである。彼の場合はどちらなのかわからない。彼にはカペナウムという町に病気の息子がいた。カペナウムはキリストが宣教の拠点とした町である。王室の役人は死にかかっている息子をいやしていただきたい一心で、キリストに会いにカペナウムからカナにやってきた。カペナウムからカナは距離にして約30キロ。息子は危篤という状態にあったので、一分の時間も惜しむような気持で会いに来たと思われる。そして、下って来て息子をいやしてくださるようにと懇願した。
キリストはこれまでもそうだったが、やはりこの場面でも、一風変わった返答をされている。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)。キリストは「あなたがたは」と、王室の役人の周囲にいるユダヤ人たちのことも意識していることがわかる。ユダヤ人たちは、しるしにこだわる民族だった(2章18節)。ことばだけじゃ信じないよ。あなたが神の救い主だとわかる奇跡を行うのを見るまでは。そして、もちろん、48節のキリストのことばは、王室の役人も意識されている。「そこで、イエスは彼に言われた」とあるので。王室の役人には挑発的なことばに聞こえたかもしれないが、彼にほんとうに求められていたのは、しるしを見て信じる信仰ではなくて、神のことば、キリストのことばを信じる信仰だった。
王室の役人はとにかく必死である。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」と必死に頼み込む(49節)。ある人たちは、彼のこのことばを批判的に受け止める。「『死なないうちに』と言うのか。そこには、死んでしまったらイエス様でもどうすることもできないという低い信仰が隠されている」。このような批判は今この時点ではナンセンス。私たちはラザロのよみがえりとか、イエスさまの復活とか、そういうことをすでに読んでしまっているので、平気でそういうことが言える。王室の役人の懇願である「死なないうちに」は、人として、親として当たり前の懇願である。
王室の役人について、もう少し説明を加えておくが、普通は王室の役人と聞くと、お偉い人だ、ハハ~ッという感じになると思うが、ユダヤ人たちはヘロデに仕える王室の役人たちを軽蔑していた。王室に仕える高官であったが、好感はもっていなかった。キリストは、サマリヤではユダヤ人が軽蔑して付き合うことをしなかったサマリヤ人、しかも不道徳なサマリヤの女に声をかけられ、救いを与えた。そして今度はユダヤ人が軽蔑している職業人と相対する。キリストの愛はすべての人を包み込む。
キリストは「主よ。どうか、私の子どもが死なないうちに下って来てください」と懇願する王室の役人に対して、「はい、わかりましたよ。あなたの願い通りに今すぐ急いで行きます」というような返答はされていない。「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています』」(50節前半)。キリストは王室の役人がイメージしていた以上の方法でいやしを行われた。注目すべきは、「その人は、イエスが言われたことばを信じて、帰途についた」(50節後半)と言われていることである。このような反応はふつうはできない。半信半疑の反応を示すのが当たり前であり、場合によっては人を馬鹿にしてという反応になるだろう。「イエスが言われたことばを信じて」、これが、今日一番教えられたいポイントである。キリストはこの時、48節で言われていたように、確かに、しるしと不思議を行われた。しかし、この息子の父親は、しるしと不思議を見てから信じたのではなく、見る前から信じたようである。しるしを目の当たりにする前に、主のことばを信じた。見てから信じたのではなく、信じてから見た。これがキリストが望まれる信仰なのである。まだ見ていない事柄を先取りして主のことばによって信じる。「主のことばを信じる信仰」、これこそが私たちが身に着けるべき信仰なのである。
旧約聖書見れば、イスラエルの民は主のことばによって乳と蜜の流れる地カナンが約束されていたことがわかる。けれども、イスラエルの民は、荒野で食料が乏しくなり水が乏しくなると、この場所で自分たちは死んでしまうのだと泣きわめいた。またカナンに背丈の高い民族がいるのを知ると、無理だとわめいた。その中にあって、ヨシュアとカレブは、みことばの約束を信じ続けた。「みことばを信じる信仰」、これが大切である。まだ見ていない事柄を先取りして主のことばによって信じるのである。
王室の役人が主のことばを信じたことは、51,52節からわかる。この役人は主のことばを信じて、30キロ先のカペナウムに帰っていった。だが、帰るのを急がなかったことがわかる。帰る途中、しもべたちから息子が治った良い知らせを聞く。「きのう、第七時に熱がひきました」。「第七時」とは午後1時だが、注意したいことは、しもべたちが「きのう」と言ったことである。カペナウムまでは4時間あれば帰ることができる距離。そして、しもべたちからは、その道半ばで会って報告を聞いた。到着してから報告を聞いたわけではない。だが、「きのう」という報告を受けている。王室の役人がどのように家路に向かったのかわからないが、猛スピードで息子のところに向かったという印象はもてない。彼はキリストのことばを信じたので、あせらなかった。主のことばを信じると、あせらない、じたばたしない。落ち着いていられる。
ロンドンの商人の印象的な話がある。彼は日曜の礼拝後に、自分の店が火の手に襲われていることを聞く。彼は伝道者とともに火事からの守りを祈った。その後、彼は静かにこう言った。「さあ、夕食を食べに行きましょう」。幾人もの仲間たちが反対した。「火事はどうなっているんですか」。でも彼は、主が消してくださるという、主にゆだねた完全な信仰をもっていた。「私たちはそれを主にゆだねたんではありませんか。私たちが行ったところで、これ以上何ができるというんですか。主がそれを始末してくださいます」。夕食の途中、彼の息子が朗報をもって入って来た。「奇跡が起こったように見えた。お店がだめになるかと思っていたけれども、戻った時、炎が不思議な動きを見せて止まったんだ。消防士さんたちも不思議がっていた。それは神さまのみわざだと思う」。信じる者は心のうちに平安があり、あせったり思い煩ったりしない。見てからああよかったと信じるのではなく、見る前に信じて平安がある。
朗報を受けた王室の役人と家の者たちの反応を見よう。「それで父親は、イエスが、『あなたの息子は直っている』と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた」(53節)。ここでの「信じた」ということばは、イエスがキリストであると、すなわちメシヤ、救い主であると信じたということである。キリストが行われたみわざは、まさに、そのためのしるしだった。
この第二のしるしから、もう一つのことを教えられる。それは、キリストがまことのいのちを与えられるお方であるということである。50節の「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」をご覧ください。「直っています」と訳されていることばだが、直訳は「生きます」である(新改訳2017欄外註)。キリストは「行け。あなたの息子は生きる」と言われた。51,53節でも「直る」とあるが、そこも同じく「生きる」である。キリストが「生きる」と言われれば生きる。キリストはいのちの与え主である。キリストがいのちの与え主であることは、サマリヤの女との対話でも啓示されていた。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4章14節)。そして3章15~16節においても。「それは、信じる者がみな、人の子にあって、永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。キリストが永遠のいのちの与え主であるということが、第二のしるしによっても告げられていると言えるだろう。
キリストが与えるいのちは、この世のそれとは異なる。次のような文章がある。「『人の死』は医学の敗北を意味します。その敗北を先送りしていくために行われているのが延命治療です」。キリストが天から下られたのは延命治療を施すためだったのだろうか。死にかかっていていやされた父親の息子も、時を経て死の眠りについただろう。この息子の死はキリストの敗北を意味し、キリストは延命措置をするのがせいいっぱいだったということだろうか。いや、キリストは延命措置のために来られたのではない。永遠のいのちを与えるために来られた。死んでも生きるいのちを与えるために来られた。「御子を信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」とういうのは本当のことである。
今日の個所から主の愛について教えられ、主のことばは成就するのだということを教えられ、主が与えてくださる不変のいのちについて教えられことを感謝したい。私たちもまた王室の役人同様、今日の記事で啓示されているすばらしい主イエス・キリストと向き合って生きることが許されている。