今日の個所は、前回学んだ、キリストとサマリヤの女との対話の続きのお話である。サマリヤ人の中で評判がよろしくない一人の女性が、人が来ない時間帯を見計らってヤコブの井戸と言われる井戸に水を汲みに来た。井戸のかたわらには腰を下ろして休んでいるユダヤ人男性がいた。その方が「わたしに水を飲ませてください」(7節)と願ったことをきっかけに対話が始まる。そして、もしかしたらこの方こそが待ち望んでいたメシヤかもしれないと、彼女の心に衝撃が走ることになる。
このタイミングで、食料を買いに行っていた弟子たちが戻って来た(27節)。イエスさまと女が何か話をしている。ユダヤ教の習わしでは、女性に多くを語るべきではないと言われてきたし、ましてや公の場所で一対一で女性と対話をすることなどは恥ずべきこととされていた。しかも相手はサマリヤの女。サマリヤの女はただでさえ不浄の女とみなされていたのだが、彼女は真昼の時間帯にひとりで水をくみに来た女。普通の女ではないと弟子たちはピンと来ただろう。彼らは混乱して口を出せなかったと思うが、またイエスさまのしておられることに口出しすべきではないという思いもあっただろう。キリストは普通のユダヤ教の教師の枠にはまらない行動をとっていた。弟子たちもそれに従っていた。ユダヤ教の教師たちは、サマリヤに足を踏み入れること自体嫌っていたし、またサマリヤ人からパンを買うなどということは普通はしない。でも、弟子たちにさせた。キリストは後に、収税人や罪人と言われる人たちと一緒に食事もしたことが他の福音書からわかる。これも普通はありえないことだった。
サマリヤの女は5回結婚し、今6人目の男と同棲中だった(18節)。律法の基準からすると、何度も離婚を繰り返し同棲しているような女性は罪が重いということがわかる。けれども、神の愛は破格であり、神はこのサマリヤの女を愛していた。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。キリストは神の深い愛をもって彼女に声をかけ、接し、永遠のいのちを提供しようとしていた。生ける水のたとえをもって。ご自分がメシヤであることを伝えることによって。彼女は、キリストの人格に惹きつけられ、その心は踊った。最初の彼女の認識は、「ふつうのユダヤ人とは違う。サマリヤ人の私に声をかけるなんて」。しかし、彼女は目の前の男性を下品なユダヤ人とはみなさなかった。11節から「先生」とみなしていたことがわかる。そして、12節で「私たちの父祖ヤコブよりも偉いのでしょうか」と口にし、19節で「先生、あなたは預言者だと思います」と認めるに至り、ついには、私はキリストと呼ばれるメシヤと会っているという衝撃が走ることになる(25,26節)。
そうこうしているうちに、女は水がめを置いて町へ行ってしまった(28節)。「わたしに水を飲ませてください」と願ったキリストは、水を飲ませてもらったのだろうか。それとも、彼女が置いていった水がめから飲んだのだろうか。どちらだかわからない。彼女は水がめに水を満たしに来たのに、その水がめを頭に乗せて町に戻ることはしなかった。その理由は、一目散に町へ戻りたかったから。自分の罪を暴露した男から逃げるためではない。このお方こそキリスト、メシヤにちがいないという思いが芽生えて、町中の人に伝えずにはおれなかったから。
「『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか』。そこで彼らは町を出て、イエスのほうにやって来た」(29,30節)。サマリヤの女は、自分の過去、現在の自堕落な生活を見通した高貴な人物の口から、26節で「あなたと話しているこのわたしがそれです」、すなわち「メシヤです」と告げられる。彼女は、もうこの情報は自分のうちにだけしまっておくことはできなくなった。町へ急いで戻り、「来て、見なさい」と声を出し続けただろう。「この方を見なさい」と、キリストへの招きこそが、キリストを知ったすべての者がする働きである。
サマリヤの女が町に戻った間、サマリヤの女と生ける水について話をしていたキリストは、今度は弟子たちに食べ物について話しをする。「先生、召しあがってください」(31節)と弟子たちが勧めてくれたのに、すぐには食べようとはなさらずに、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」(32節)と、今度は弟子たちに謎かけ問答をされる。弟子たちはこれを理解しない。サマリヤの女と同じである。キリストはサマリヤの女に対して生ける水を提供すべく、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(13,14節)と言われた時、彼女は心の奥底では無意識のうちにもこの水を求めていたのだけれども、物質の水のことしか頭に思い浮かばなかった。弟子たちもまた同じであった。「だれか食べるものを持って来たのだろうか」(33節)と、「お前何かもってきた?」とか話し合ったのだろう。
キリストは胃袋のほうはほぼ空であったが、この「あなたがたの知らない食物」のほうは今も食べたばかり。サマリヤの女と対話するということも食物の一つであった。食べるという行為は健康を維持するために必要であるが、神の子として神の子らしく生きるために必要な食物がある。それは炭水化物とかタンパク質とかビタミンとかミネラルとか酵素とか、そうした類のことではない。「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です』」(34節)。サマリヤ宣教は神のみこころだった。「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(4節)。
弟子たちは、キリストが「あなたがたの知らない食物」と言われたとき、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8章3節)のみことばを思い出しても良かった。この有名な「人はパンだけで生きるのではなく」は主のことばへの従順ということが言われているわけだが、ここの34節でも、それに類することが言われている。
この34節において、キリストの食物はまず第一に、「みこころを行う」ということが言われている。自分はこういう生き方をしたい、自分はこれこれをしたいしたくない以前に、主のみこころはどこにあるのだろうかと、みことばと祈りによって探り求め、そのみこころに生きるということである。キリストのサマリヤ行きもみこころの範疇にあった。そしてサマリヤの女と対話することもである。キリストは「みこころ」の前に、誰のみこころなのかということで、「わたしを遣わした方の」という表現をとっておられるが、私たちも、神によってこの世に遣わされた者たちである。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と、地に遣わされた者たちとして、今日、明日の生を考え、実行に移すわけである。皆さんは、神のみこころということを考えたときに、何か見えてくるものがあるだろうか。神のみこころはライフスタイルに変化をもたらす。
キリストの食物は第二に、「そのみわざを成し遂げる」ということが言われている。「成し遂げる」というのは「目的を達する」ということばだが、キリストの十字架上の最後のことばがこれだった。「完了した」(19章30節)。「成し遂げた」と訳してよいことばである。「目的を達した」ということばである。キリストは「無念だ」とも「やり残した」とも言われなかった。多くの方が後悔を口にして死んでいくと言われているが、キリストはそうではなかった。十字架でいのちを捨てるというのもみこころの範疇にあり、このことにおいて、キリストがこの地上に来られた目的を達成された。私たちはキリストのしもべとして後悔しない人生を送るために、自分のやるべきことはやり遂げたと言って世を去れるように、先に見た「みこころを行う」ということに、まず心を砕くべきではないだろうか。大切な霊の食物として。
キリストは宣教ということに焦点をしぼっていく。「あなた方は、『刈り入れが時が来るまでに、まだ四カ月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(35節)。キリストはたましいの刈り入れについて語っておられるわけだが、刈り入れ時は今、ということを伝えたい。麦畑を考えた場合、種まきと刈り入れの間は最低四カ月あったが、今はもう刈り入れを待つ時代ではないよ、今が刈り入れ時だと、刈り入れに強調を置くわけである。旧約聖書では、メシヤが出現する終末時代は、豊かな収穫の時代であることを告げている。「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」(アモス9章13節)。終末時代は種蒔きと刈り入れが接近している、豊かな収穫の時代だ、と伝えている。終末の時代の刈り入れは、キリストの出現によって始まった。その一つのしるしがサマリヤ宣教である。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」。「色づいて」は「白い」という意味のことばであるが、サマリヤ人の白い上着のことが意識されていたかもしれない。ある訳は「刈り入れに向けて白っぽくなっている」と訳している。
終末の時代の刈り入れは喜びの時である。詩編126篇5節に「涙をもって種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」という有名なみことばがあるが、終末の時代は36節にあるように、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」という喜びの季節なのである。
キリストは弟子たちに、あなたがたを刈り取りのために遣わしたと明言される(38節)。種蒔きのために遣わしたという言い方はされない。確かに彼らは後に、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)とキリストの大宣教命令に従って、刈り入れとともに種蒔きの働きをすることになる。けれども、このサマリヤ宣教の時点においては、彼らの役目は刈り入れである。すでに、旧約時代からの父なる神の働きかけと、キリストとサマリヤの女の証しによって畑は色づいていた。彼らはキリストとともに刈り入れの役を担うことになる。37節にあるように、「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」ということが本当に起きる。
私は大学一年生の時に川崎市で信仰をもったが、振り返ってみれば、種蒔きはそれ以前に行われていた。小学生の時に図書館で借りた聖書絵本は強烈な印象をもった。その絵本は私にとっての種蒔きになった。次に高校二年生の時に、両親の寝室の書棚にギデオン協会の聖書があるのを見つけて読んだ。そのギデオン聖書は父の妹が高校時代、学校前でもらった聖書だった。ギデオン協会の人が配布をして種蒔きをしてくれたわけである。大学一年生の時は、三浦綾子の本を貸してくださる方がいた。それも私にとっての種蒔きになった。私のたましいの刈り取りには、同学年のクリスチャン学生や、教会で聖書入門クラスを担当していた信徒の方や、礼拝説教に来てくださった神学生などが担ってくださった。また牧師をはじめ教会員の方々の祈りがあった。ひとりで信じたようで、そうではなかった。皆さんも振り返ればそうしたことがあったと思う。
さて、刈り入れの実例、収穫の実例が、この後の記述である(39~42節)。サマリヤの女の証言、証しは強烈なインパクトがあったようである(39節)。「その町のサマリヤ人のうちの多くの者が・・・イエスを信じた」と言われている。「わたしに水を飲ませてください」(7節)から始まって、こんなことになってしまった。そしてユダヤ人嫌いのサマリヤ人のはずなのに、キリストを帰そうとしない。キリストと弟子たちは、なおサマリヤの町に二日間滞在して教えを説くことになる(40節)。その結果、「さらに多くの人々が・・・・信じた」(41節)。二日間教えを聞くことによって、この人はメシヤかもしれないという浅い信じ方からメシヤだという確信に至る人は多かっただろう。サマリヤの女は、それより早く、信仰の確信を持ったと思われる。彼女は、キリストと会ったその日は興奮して眠れなかったか、平安に包まれて熟睡したかのどちらかだろう。彼女はキリストとの出会いを通して、生ける水を手に入れて、過去の生き方も清算したはずである。
42節は、サマリヤの町の人々の女に対することばが記してある。「俺たちは、お前が言ったから信じているんじゃないぞ。自分の耳で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だとわかったんだ」。彼女の、「来て、見てください」というキリストへの招きは、大きな収穫につながった。
私たちは種蒔きも、刈り入れという収穫もしていく。種蒔き、刈り入れのたとえから教えられることは、種蒔きをして、いつまで経っても収穫の時期が訪れないように思えても、主への期待をもって収穫のビジョンを抱き続けること、そうして主の働きに携わっていくということ。キリストが来臨されてからのこの時代は、神の国の収穫の時代である。収穫ということにおいて、キリストの次の命令も思い起こす。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタイ9章38節)。私は実際、この働き手が、この教会の内外から起こされるように祈っている。皆さんも祈りに覚えていただきたい。
今日の主要なテーマは「霊の食物」ということになると思うが、ダイエットや健康食品の知識を身に着けることも大切だが、この世に遣わされた者たちとして、こちらの食物に心を留めていこう。実は、キリストの時代、民衆は貧しかった。いつもお腹を空かせていた。だから彼らの関心は食べ物だった。民衆は腹いっぱい食べさせてくれるような王様の出現を願っていた。そして、キリストが弟子たちに「あなたがたの知らない食物」と言われた時点で、弟子たちもお腹が空いていた。彼らも直近の関心はお腹に入れる食べ物である。さあ、これから食事の時間だという時に、「あなたがたの知らない食物」という話になった。食物はいのちの糧である。人間を生かすものである。もし私たちが神のみこころと関係なく生きているなら、日に三度の食事に与っていても、本当の意味で生きていることにはならない。お腹に食べ物を入れるのも、神のみこころを生きるためのはずである。そのみわざを成し遂げるためのはずである。
ヨハネ4章に見るキリストの食物は、サマリヤへ行って、サマリヤ人にメシヤとは誰であるのかを伝えることであった。8節では「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と記されていた。だが、つきあいをしない人へアプローチすることがキリストに求められていた。それはキリストだけではなく、私たちにも求められていることかもしれない。いずれにしろ、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることがわたしの食物です」というみことばを受け止めて、種蒔きや刈り入れなどの神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げるという食物を食べ、真に生きているという証をもっていきたい。