本日の個所は非常に有名な物語である。今日登場するサマリヤの女は人目を避けて行動していた女だったが、キリストと出会い、聖書に書き留められてしまったことにより、二千年間に渡り、世界中の人に知られる存在になってしまった。今も毎日誰かが、彼女の物語を読んでいるはずである。そして礼拝でもしょっちゅう彼女の物語は取り上げられる。キリストとの出会いによって、こんなことになってしまうとは夢にも思わなかったと思う。しかし、これも神のご計画のうちにあった。
ヨハネの福音書はこれまで、キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられるという約束を示してきた。ヨハネ3章16節では、「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、御子を信じる者に永遠のいのちが約束されており、この物語の直前の3章36節でも「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と約束されており、その事例としてサマリヤの女が取り上げられているということになる。彼女は私たちにとって慰めとなる。なぜなら、キリストの祝福に与ったのが道徳的人物でもなんでもなく、むしろその反対の人物で、しかもユダヤ人ではないというところにあるからである。では今日の物語を見ていこう。
キリストは弟子たちともに神殿のあるユダヤを去って地方のガリラヤに行く決断をされる(3節)。その理由の一つはパリサイ人たちを避けるためである(1節)。パリサイ人はユダヤ教の指導者たちで、キリストに敵対心を露わにしていた。3章前半はキリストとパリサイ人のニコデモの対話が記されているが、キリストはニコデモに対して、「あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません」(11節)と語っておられた。そして今、キリストの人気はバプテスマのヨハネをはるかに凌ぐものとなり、弟子たちも増えてきた。パリサイ人たちが敵対心をますます露わにして、キリストに攻勢をかけるのは目に見えていた。キリストは、彼らに絡まれて無益な時間を過ごすことを避けようとしておられる。
キリストがガリラヤへ行く決断をされたもう一つの理由はサマリヤ宣教である。「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(4節)。ガリラヤに行くにはサマリヤルートは近かったが、当時のユダヤ人たちは、よほどのことがなければ、このサマリヤルートは選択しなかった。ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲であった。それには過去の歴史が関係している。イスラエルはソロモン王以後、南王国と北王国に分裂してしまう。「サマリヤ」は紀元前722年にアッシリヤに滅ぼされるまで、北王国の首都であった。アッシリヤの王は北王国を滅ぼすと、北王国の民をアッシリヤに捕囚として連れて行くとともに、サマリヤに周辺諸国から植民を送り込んだ。「アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた」(第二列王17章24節)。結果、サマリヤの残された庶民と外国人の植民の間で雑婚が起こり、混血民族となり、血の純粋さを失い、また諸外国の宗教が入り込み、混淆宗教状態になってしまう。どうにか唯一の神を礼拝する慣習は残っていたが、ユダヤ人からすれば不純の民。礼拝の場所であるが、ユダヤ人はエルサレムが礼拝の場所である。しかし、サマリヤ人は紀元前5世紀に、勝手に自分たちでゲリジム山に神殿を築き、ここが神の選ばれた聖所だと宣言してしまった。その場所はサマリヤの女との対話が行われた場所の近くにある。20節の「私たちの父祖はこの山で礼拝をしましたが」の「この山」がゲリジム山である。この頃はゲリジム山に神殿は残っていない。紀元前128~129年にサマリヤを敵視するユダヤの王が攻め入って焼き払ってしまったからである。けれども、サマリヤ人はその後も、この場所を礼拝の場所とし、過越の祭りを守ってきた。不仲はその後も続いていた。キリストが公生涯を始める約20年前は、あるサマリヤ人たちが、過越の祭りの期間、エルサレムの神殿の庭に侵入し、人骨をばらまいて神殿を汚すという悪行を行っている。やられたらやり返せのようなことが続いていた。もとをたどれば同じ民族であったわけだが、ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人並みに嫌い、つきあいを極力避けていた。
キリストはサマリヤに入られると、疲れを覚えた体で「ヤコブの井戸」と言われる場所を、最初の宣教の地点に選ぶ(5~6節)。「ヤコブ」とは、イスラエル民族の父祖である、アブラハム、イサク、ヤコブの「ヤコブ」のことである。ヤコブが神によって「イスラエル」と改名され、イスラエル12部族が生まれていくわけである。ヤコブは、ユダヤ人にとってもサマリヤ人にとっても、共通する信仰の先祖である。「ヤコブ」はこの後の会話の流れ上、大切な存在となる。また、井戸という場所は、渇きの問題や永遠のいのちについて話しをするには、もってこいの象徴的な場所である。キリストは知恵深さをもって、この場所を選んだ。
キリストは井戸のかたわらに腰を下ろして休んでおられた。「時は第六時ころ」である(6節)。これはお昼の12時頃である。そこにひとりのサマリヤの女が水を汲みに来る。弟子たちはちょうど食糧を買いに出かけていて不在だった(7~8節)。通常、このような暑い時間帯は水をくみに来る時間帯ではない。明らかに彼女は人目を避けていた。通常、中東の女性たちは、早朝か日没前に水を汲みに来る。炎暑を避けるためである。しかも通常は井戸の往復は近隣のうわさにならないようグループ行動を取る。逢引きしているとか、男を誘い込みに出かけたとか、誤解されないように。グループ行動の理由はそれだけではない。井戸から汲んだ水を壺に満たすわけだが、満杯になった壺はかなりの重さになるので、女手ひとつで、それを頭に乗せるのは容易なことでない。そういう意味でもグループで行動するのが自然。けれども彼女は真昼時にひとりで井戸に現れた。これで彼女の正体はある程度ばれてしまっている。村八分の女か、自分に言い寄る旅人がいてもかまわないと思っている女か、いずれ問題有りの女であるということ。プラス、彼女はユダヤ人が付き合わないサマリヤ人。
にもかかわらず、キリストは彼女に飲み水を求めるという、通常であればありえない行動に出る。「わたしに水を飲ませてください」(7節)。彼女が来る前に、自分で水を汲んで飲んでしまえば良かったのにと思うかもしれない。しかし物理的問題があった。中東の井戸は水を汲むつるべが備えつけられていない。それは持参するのが当たり前であった。イエスさまはつるべを持っていなかった(11節前半)。だから、誰か水汲みに必要な用具を持っている人が現れるまで待つしかなかった。彼女がそれを持っていた。それにしてもキリストの行動は常識破りだった。女性が近づいてきたら、少なくとも6メートルの間隔を開けて退くのが習わしであった。だが彼女が近づいてきても、イエスさまは動いた気配はない。はっきりしていることは女性に声をかけたということ。女性に話しかけることは、それも特に、現場に第三者の証人のいない場所で話しかけることはタブーだった。それどころか村社会では、よそ者の男は公けの場所で土地の女性と目線を合わすことすらしなかったという。女性に話す場合でも、「女性を相手にあまり話をしてはいけない。自分自身の妻に対してすら同様のことが言われていた」というユダヤ教の記録さえ残っている。ところがイエスさまは、第三者が誰もいないようなところで自然に女性に話しかけている。しかも相手はユダヤ人がつきあわないサマリヤ人。そればかりか、彼女はサマリヤの女性たちの間でも仲間外れにされていた評判の悪い女性。それを思えば、キリストはなんという気さくなお方というか、ナチュラルなお方というか、謙遜なお方というか、とにかく驚かされる。
サマリヤの女は、「あなたはユダヤ人なのに・・・」と驚いているが(9節)、キリストには、相手がユダヤ人だとかサマリヤ人だとか偏見はない。先ほどヨハネ3章16節を読んだように、神の愛はすべての人に向けられている。そこに差別はない。民族、人種、どんな人生を歩んできたかなど関係ない。サマリヤの女もキリストにとっては大切な存在なのである。
キリストは井戸水を求めたタイミングで、神の賜物である「生ける水」について語る(10節)。「生ける水」とは、溜水に対して流水のこと、また湧き水のことである(欄外註「わき出る水」)。新鮮で美味しそうというイメージをもつ。もちろん、キリストは霊的な意味で言っているのだが、彼女は気づいていない(11節)。「この井戸は深いのです」と言われているが、ヤコブの井戸は30メートルの深さがあったものと思われている。この井戸水はサマリヤ人にとっては「ヤコブの井戸」であるから、聖水のようなイメージがあっただろう。「でも、目の前にいるユダヤ人男性は、このヤコブの井戸水よりも、もっといい水を与えてくれるの?」ということで、サマリヤの女は12節で、「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか」と問いかける。彼女はこうして、会話の中で、キリストをヤコブよりも偉い方として認識するようになり、最終的には、キリストをメシヤ、救い主として信じるようになる。
キリストはご自分が与える生ける水の性質をはっきり告げる。それは永遠のいのちの水である。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(13,14節)。彼女はキリストが話しておられる水の意味の深さを理解してない。まだ物質的水のことを考えている。けれども彼女は無意識のうちにも、真の湧き水を、ほとばしる永遠のいのちの水を求めていたのである。キリストは「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われているが、キリストは彼女の渇きを知っておられた。彼女は渇きに渇いていた。だからこそ18節で見るように、次から次へと男を替えていた。しかし心の渇きはいやされず、それは続いていた。彼女の渇きはキリストによってしかいやされない。それは私たちも同じである。依存する対象が何であっても、この世にどんな素晴らしいものがあっても、それらは一時的に渇きをいやしてくれるだけで、また渇くことになる。
キリストは、この渇きの問題に迫るため、またご自分がヤコブよりも偉大な者であることに気づかせるため、彼女の私生活に迫っていく(16~18節)。彼女の過去の人生、今の生活、すべてキリストにバレていた。5人の男性と結婚し、今は6人目の男性とは同棲中。次のみことばを思い出す。「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」(エレミヤ2章13節)。彼女は、いわば、渇きをいやそうとして、次から次へとこわれた水ためを掘っていた。彼女はこの方は私の愚かさのすべてをお見通しと気づいた。それだけではなく、畏怖をいだいた彼女は、キリストを「預言者」として認識することになる(19節)。ユダヤとサマリヤ人の場合、預言者の受け止め方が異なる。預言者と聞くと、旧約聖書の預言書に登場するイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者を思い起こすだろう。けれどもサマリヤ人は、そうした人たちを預言者とは認めない。なぜならば、サマリヤ人たちの聖書は、旧約聖書の初めの五巻、モーセ五書だけだからである。モーセ五書の申命記18章18節において、神はモーセに対して、「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」と語っておられる。これはキリスト預言の一つであるわけだが、このモーセのような偉大な預言者をサマリヤ人たちは待ち望んでいた。
彼女はこの後、礼拝について話しを切り替える。「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」(20節)。多くの人が彼女の礼拝の発言を、聞いて欲しくない私生活の痛いところを突かれたので、話を逸らしたと受け取る。けれどもそういう見方だけでよいのだろうか。彼女は、キリストを神のことばを預かって語る預言者だと認めて、一求道者として、神を求める者として、信仰の本質的な問題である礼拝について知ろうとしたと受け取ってもよい。一求道者として彼女はジレンマを覚えている。ユダヤ人もサマリヤ人もヤコブを信仰の父祖と認め、同じ神を礼拝し、同じくメシヤの到来を待ち望んでいた。にもかかわらず、礼拝の場所は別々で、エルサレム、かたやゲリジム山と、ユダヤ人とサマリヤ人は分裂していた。今、彼女が預言者だと認めた目の前にいる人物は、サマリヤ人ではなくユダヤ人である。ちゃんと信仰しようと思えば、やっぱりエルサレムで礼拝をしないとだめですか?という疑問をぶつけたくなる。信仰スタイルはどうしたらいいのですか?ということになってくる。わかるような質問である。
キリストは、スタイルではなく本質の話をされる。エルサレムとか、ゲリジム山とか、そういった聖地にこだわる意識を拭い去る。礼拝の形式ではなく本質に心を向けさせる。神が求めておられる礼拝者はこれだ、と全人類を真の礼拝に招くことばを語られる(22~24節)。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(24節)の「霊とまことによって」(24節)を新改訳2017は「御霊と真理によって」と訳し、「霊とまことによって」の訳を欄外註の別訳の方に移した。「霊とまことによって礼拝する」とは、ただ真剣に礼拝すればよいということでないことを「御霊と真理によって」という訳は気づかせてくれる。
まず「霊によって」ということを考えよう。参考になるのは、先に学んだキリストとニコデモとの対話である。「肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(3章6節)。これは、以前説明したように、「肉」は自然的誕生による私たちの状態を、「霊」は御霊による誕生の状態を表している。神は霊なので肉のままでは本当の意味で礼拝はできない。神は霊なので、御霊によって生まれ変わらなければ、神との霊的交流はできない。神は霊なので、新しく生まれ変わって御霊を通して礼拝することが本当の礼拝ということになる。
続く、「まことによって」とは、真心込めて以上の意味がある。他宗教の人々も、真心込めて礼拝行為をしていると言うだろう。「まこと」は「真理」という意味がある。またそのように訳すことばである。キリストはヨハネ14章6節において、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われた。真理であるキリストを排斥しておきながら、私は一生懸命、神を礼拝しています、と主張しても空しい。キリストの福音を受け入れて、キリストを神の救い主、私の罪からの救い主として信じて礼拝する者の礼拝が受け入れられる。ユダヤ人たちは神は唯一と信じていた。けれども、真理であるキリストを、またキリストについての真理を受け入れなかった。キリストを神の救い主と信じなかった。そのようなままでの礼拝を神は望んではおられない。礼拝というのは人間本来の永遠の務めである。「御霊と真理による礼拝」でなければならない。
サマリヤの女はついに「メシヤ」(救い主)ということばを口にする(25節)。サマリヤの女は「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか」から始まり、「預言者」ということばを口にし、ここで「メシヤ」を口にする。彼女の理解はだんだん深まってきていることに気づく。私たちも、イエスとは誰か?と求める過程で、浅い理解から深い理解へと進むことになる。サマリヤ人は、メシヤのことを彼らのことばで「ターヘーブ」と呼んでいた。彼らはモーセ五書しか信じないので、ユダヤ人のように、メシヤはダビデの子孫であるという理解はない。ターヘーブには、律法付与者、教師、回復者、啓示者といった意味を込めていた。いずれ、彼らもメシヤの到来を待ち望んでいたわけである。キリストは、それはわたしだと明言される。「あなたと話しているわたしがそれです」(26節)。
この後、彼女がキリストに向かって応答したことばはない。彼女はイエスをキリストとして、すなわち、やがて来られるメシヤとして信じたのだろうか?信じたのだということは、次回見る27~42節のみことばでわかる。彼女は目の前にいるキリストに物質的な水を求めたが、次回の個所の28節で「女は、自分の水がめを置いて町へ行き」とあるように、もはや関心は、ウォーターにはない。彼女は永遠に渇きをいやす生ける水を下さるイエス・キリストにすべての関心を向けた。その後、他のサマリヤ人たちと一緒にキリストからみことばを聞くことになったようである。彼女は、「私の目の前に現れてくださったお方は世の救い主、わたしの救い主なのだ」という確信は揺るがぬものになっただろう。彼女の喜びはどれほどのものであったのだろうか。彼女はキリストと出会っていなかったら、ぼろぼろの生涯で終わって滅んでいたはずである。 だが、彼女はいのちの水、永遠のいのちを受けたのである。彼女の心から湧き水が湧き出た。それはほとばしる永遠のいのちの水だった。その泉は枯れることのない、こんこんといつまでも湧き出る泉である。
ピアノの魔術師と言われたフランツ・リストをご存じだろう。彼は数々の女性遍歴を重ねたプレイボーイでスーパースターだったが、人生の後半、転げ落ちるようにして絶望の淵へと落ちていく。二人の子供の死、非難中傷の嵐、宮廷楽長の地位のはく奪、ある女性との結婚式の前日、外からの圧力で結婚はご破算になってしまう。人生は灰色に。彼は聖職者になる道を選び、最晩年にエステ荘で死について思い巡らしていた時、「エステ荘の噴水」というピアノソナタを作曲する。その楽譜にラテン語でヨハネ4章14節のみことばが記されている。彼は死を思い巡らしながらも、目に映る噴水とキリストが与える水を重ね合わせていた。真の慰めはこの水にあると。
私たちはキリストが救われたサマリヤの女を、愚かな弱い人だと見下すことは簡単である。人間失格と見下すことは簡単である。不道徳で同じ過ちを繰り返してきたことは確かであるから。彼女は良心のとがめを感じながらも自分を律することができない女であった。他のサマリヤの女性と比較しても、評価は下のほうであっただろう。しかし、神の前ではどんぐりの背比べに過ぎない。私たちは彼女と同じ性格をもって生まれ、同じような成育史、同じような環境であったら、どうなっていたかわからない。とにもかくにも、私たちも自分は罪人で、私たちにも心の渇きがあることを素直に認めるべきである。彼女は次々と男を求める背景の中で、神への渇きをもっていた。そうでなければ、キリストとあのような会話はできない。私たちも、自らをサマリヤの女と同化し、キリストの前に自らを投げ出し、キリストが与える生ける水を尊ぶ者たちでありたい。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。