前回は、3章16節を中心に、神の愛と御子を信じるということを学んだ。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。「信じる」ということがたましいの根源的態勢である。人は信じるという心を失ったならおしまいである。人は誰かを信じ、何かを信じて生きる存在である。聖書はその信じる心を御子イエス・キリストに向けるように訴えかける。御子を信じる者には永遠のいのちが与えられると約束されている。同じような約束は今日の36節にもある。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」。御子を信じる者が永遠のいのちを持つということは、言い換えると、御子を信じる者には神の怒りがとどまらない、ということである。私たちは生まれながらにして神の怒りを受けるべき者たちである。著者ヨハネはここで初めて「神の怒り」に言及している。神は愛なのに、どうして怒るのかという反応がある。神の怒りとは、人間の怒りにあるような、気まぐれな、勝手気ままな、自制のきかない癇癪、感情的爆発のことを意味していない。それは罪に対する正義の反応であり、神の完全性を証しするものである。神は正義を行う審判者である。神の怒りというものは、人間の良心の中にも啓示されている。良心は善悪を判断するために神が与えた機能である。罪や悪に対して私たちの良心は反応するわけである。ズキッ!ズキン!それは神の怒りを証している。神の怒りは正義の審判である。神は、この正義の審判から私たちを救おうとされ、御子キリストを遣わされた。ここに愛がある。
この36節は前回学んだ18節と比較できる。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(18節)。キリストは人類をさばき(審判)から救う特効薬のようなものである。しかし、それを拒むならば、その責任はその人にある。その責任は特効薬にも、特効薬を提供した方にもない。神の私たちへの願いはひとりでも多くの人が、キリストを信じていのちを得てくれることである。キリストを信じるか否かは私たちの自由意志に託されている。
では、今日の記事を見ていこう。今日の記事は、バプテスマのヨハネとその弟子たちに焦点が当てられている。
ヨハネの福音書の特徴の一つとして、バプテスマのヨハネが投獄されるまでの記録が四福音書中、一番詳しいということがある(24節参照)。前に述べたように、福音書の中でヨハネの福音書の執筆年代が一番遅い。当然、先の福音書記者たちが記していないことを書こうということになる。四世紀に教会史を記したエウセビオスはこう述べている。「使徒ヨハネは、先の福音書記者たちが黙って通り過ごした期間、およびその期間中に救い主のなさった事柄の記事を、つまり、バプテスマのヨハネ投獄以前に起こったすべての事を、福音書に記録するように懇願された」。今日の個所は、バプテスマのヨハネが投獄される前の、バプテスマのヨハネがキリストを証する最後の記述である。それはこの福音書独特の記事である。
バプテスマのヨハネの使命は何だっただろうか。ヨハネ1章6~8節を読んで確認しよう。キリストについて証しするということが彼の使命である。それはクリスチャンの使命でもあり、それが今日の教えのポイントとなる。
キリストと弟子たちは、エルサレムで過越しの祭りに参加された後のこと、ユダヤの地でバプテスマを授けていた(22節)。キリストは後に昇天前に大宣教命令を与えて「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と命じられる(マタイ28章19~20節)。この時点のバプテスマは、その先駆けとなるようなバプテスマであったと思われる。この時、平行してバプテスマのヨハネもバプテスマを授けていた(23節)。
このように並行してバプテスマを授けていた時のこと、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて議論をした(25節)。このユダヤ人はどういう立場の人で、また、きよめについての議論とは何であったのかは具体的にわからない。ただ流れから言うと、バプテスマに関して議論があったと思われる。「きよめ」ということだが、ユダヤ人の一般の理解として、水がきよめの手段となるということ、また水がきよめのシンボルとなるという理解があったので、バプテスマに関する議論であったことはほぼまちがいないはずである。おそらく、キリストのバプテスマのほうがバプテスマのヨハネのバプテスマより効力があるのでは、といったことだったかもしれない。その流れで、26節のヨハネの弟子たちの発言が生まれたものと思われる。
「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」(26節)。老舗で繁盛していた店だったのに、ライバルの大型店舗が同じ市内にできて、みなそっちのほうに行ってしまい、客足が遠のいたと嘆いている店員のようである。当初は、バプテスマのヨハネのところに人々は押し寄せた。「ユダヤ全国の人々とエルサレム全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」(マルコ1章5節)。形成はキリストの出現によって逆転する。キリストのもとへ人々は殺到するようになる。お思い出していただきたいのは、キリストの最初の弟子たちは、もともとはバプテスマのヨハネの弟子たちであったということ(1章35~37節)。そのうちのひとりはアンデレであったが(40節)、バプテスマのヨハネの弟子たちは抜け駆けしたアンデレたちのことをどう思っていたのだろうか。バプテスマのヨハネは自分の弟子たちのうちの何人かがキリストについて行ってしまっても、非難もしなければ、ねたみなど起こさなかっただろう。キリストを証しすることが自分の使命であると自覚していたわけだから。けれども、残された弟子たちはやきもきしている。嫉妬、焼きもちで、イライラもしていただろう。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネからキリストについて聞かされてきたが、キリストを受け止めるということにおいて切り替えがうまくできていないし、肉的なライバル意識が根強く残っていた。バプテスマのヨハネも彼らのこうした弱さを理解した上で、彼らを納得させるために、自分とキリストを比較し、そしてキリストの偉大さを伝えていく。
では、バプテスマのヨハネのことばを見ていこう。27節以降、キリストの偉大さとバプテスマのヨハネの謙虚さに焦点を置いて、弟子としてのあり方について考えていきたい。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」(27節)。キリストとヨハネは天と地ほどの差がある。ヨハネはそれを認めている。彼はこのことばでキリストの神的権威を弟子たちに伝え、自分はキリストと肩を並べるような存在ではないことを弟子たちに教えようとしている。バプテスマのヨハネはこの後、自分の立場を「花婿の友人」にたとえる。29節で「花婿の友人のたとえ」を使っている。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びに満たされています」。「花婿」はキリスト、「花嫁」はキリストを信じる者たち、「花婿の友人」はバプテスマのヨハネである。「花婿の友人」は「ベストマン」という呼び方がされることがある。けれども、現代の結婚式のベストマンを想像しないでいただきたい。この時代の花婿の友人は、花婿と花嫁が添い遂げるためには労苦を惜しまなかった。現代のように、結婚式の30分の間だけ役を演じるというようなことでなかった。打算抜きで二人のために尽くした。時間も労力も費やした。そして喜びがその人の報酬。この時代のベストマンはまさしくそういう存在であった。「花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます」とあるが、古代ユダヤでは、花婿と花嫁が寝室で一心同体になった時、花婿は「聞け、イスラエル・・・」と宣言し、花婿の友人はその声を聞いて大いに喜ぶという慣習があったらしい。
ヨハネにとって、人々がキリストのもとに行ってくれることが喜び、キリストを信じてくれることが喜びだった。自分に注目を集め続ける意思はない。あくまでも彼の活動の最終目的は、人々が花婿なるキリストと添い遂げてくれること。そのために彼は仕えていた。人々がキリストを信じてくれたならば喜んだ。
花婿の友人は花婿と花嫁が添い遂げる役回りをもっているのに、花婿の友人が花嫁を奪ってしまったらおかしいだろう。キリストではなく私につきなさい!キリストではなく私だ!それでは略奪結婚である。また、花婿と花嫁の結婚を祝福できない花婿の友人なんておかしいだろう。キリストのもとに行ったなんてああ残念、ああ悲しい。焼きもち焼くわ。こういうのは全くおかしいが、バプテスマのヨハネの弟子たちはこういう状況だったわけである。
私たちは何を目的にして生活をしているだろうか。自分の名誉のためではないはずである。一人でも多くの人にキリストを信じてもらいたいということだろう。いつしか、キリストでなく私をという気持ちが起こりそうになったなら、十字架の影に自分を隠したい。そして、私ではなくキリスト、である。自分の喜びの中にキリストがなく、キリストが信じられ、あがめられるということがないのならば、キリストの花婿の友人としての信仰を失っているということになろう。キリストを喜びとする、キリストの喜びを我が喜びとする、そのようなキリストとの心の近しさを持ちたいものである。
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)。ヨハネは、自分が世の人から忘れ去られていく、過去の人にされていく、使われるだけ使われて捨てられていく、そのようなことを誰よりも受け入れる覚悟があった。キリストの御名があがめられることが最大の関心事であった。「盛んになる」「衰える」と訳されていることばは、天体の光に関しても用いられることばであった。月の光は薄らいで行き、やがてそれは太陽のまぶしい光に取って代わることが自然の摂理であるように、義の太陽の輝きをビジョンとしてもって生きることである。キリストが輝き、あがめられますように、である。私たちは朝明けの月の光のように消えていい。
次に31~36節を見てみよう。「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出るものは地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる」(31節)。キリストはすべてのものの上におられた「上から来る方」、すなわち天から来られたお方で、元々、目に見えるもの、目に見えないもの、すべてのものの上におられた至高の存在である。そして34節からわかるように万物の支配者である。そのお方が地に降られた。それに対してバプテスマのヨハネは、31節で言われていたように、「地から出る者は地に属し、地のことばを話す」という存在。天と地ほどの差がある。バプテスマのヨハネは天から下った神ではない。バプテスマのヨハネは彼に啓示があった神のことがらについて話す。しかし、それらは、地上的な次元に限られた内容である。けれども、キリストの場合、直接、天において見聞きしたかのような内容について語る。地上に住む人間はそれについていけないことがしばしばである(32節)。
しかしながら、キリストのことばを少数ながらも信じる者たちがいる。ではキリストのことばを信じるとはどういう意味があるのだろうか。「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである」(33節)。キリストのことばを信じるとは、神は真実であると認めて、確認の印を押すことと同じであるというのである。何かを購入したり契約する時、説明を聞いて最後に、確認の印を求められる時があっただろう。それは、説明があったことを全部信じて受けとめます、信じて従いますという印である。キリストのあかし、説明により、キリストのことばを信じて、神は真実であると認めた人は幸いである。
では、キリストのことばは信頼できるのだろうか。信頼できるのである。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(34節)。キリストが話される天的なことばは神のことばそのもの。キリストのことばは100パーセント神のことばであるということ。なぜなら、御霊が無限に与えられているからだという。キリストのことばは信頼するに値する。
ではキリストのことばを信じて与えられる恵みは何だろうか。それは永遠のいのちを持つということである。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその人にとどまる」(36節)。キリストという存在は、人類を罪の報酬である聖なる神の御怒りから救う存在であると知る。キリストが十字架にかかられた時、暗雲が立ち込め、辺り一面暗やみとなり、人々は恐怖におののいた。キリストは十字架の上で、神の御怒りから来るさばきを受けられた。これが私のためだったと信じることができる人は幸いである。キリストが私たちに与えようとしているのは、暗黒ではなく、光であり、いのちであり、平安である。まことにキリストは「信じる」に値する存在である。
バプテスマのヨハネはこのお方と肩を並べて競い合うなどという馬鹿なことは考えていない。キリストは父・御子・御霊の三位一体の神、永遠の初めからおられた神のことば、創造主、万物の支配者、この世の光、永遠のいのちそのもののお方である。バプテスマのヨハネは、このキリストを証しするために生涯を捧げた。
人に認められたいと思うのが私たちである。それは自然なことかもしれない。だが私たちは、自己栄光、霊的傲慢などによって、キリストがどう思われているかよりも、自分がどう思われているか、そういったことで関心が占められて一喜一憂しているだけなら空しい。キリストの証し人と言いながら、私は、私が、私を、私に、と私が皆の関心を浴び、私が人生の主人公でなければならないような態度に陥ったりすることがある。私たちはキリストの心近くあり、キリストの喜びを我が喜びする者でありたい。そうでないのならば、花婿の友人の精神に立ち返ることを学ばなければならない。キリストの御名が信じられ、キリストのことばが高められ、キリストの御名があがめられること、そのことを心から願っていきたい。私ではなくキリストである。キリストが私たちの喜び、私たちのすべてである。