イースターおめでとうございます。イースターはキリストの復活を祝う時である。イースターは人類に希望を与えてくれる。この暗い世相にあって私たちには希望が必要だが、それはイースターに見出すことができる。今朝は、キリストがいのちであり光であり、私たちに希望を与えてくださる方であることをお話したいと思う。そしてサブタイトルは「キリストと歎異抄」ということにさせていただきたいと思っている。聖書は無人島に持って行きたい本として良く選ばれるが、歎異抄を選ぶ方もおられる。「歎異抄」は浄土真宗の宗祖の親鸞が伝えたものと言われているが、歎異抄にも触れつつ、キリストというお方の存在を浮き彫りに、キリストが永遠のいのちをお与えくださることをお伝えしたいと願っている。
秋田では「曹洞宗」が多いとも聞いているので、最初に曹洞宗についても少し触れておきたいと思う。宗祖は道元(1200年生まれ)である。有名な教えに「只管打坐」(しかんたざ)がある。これは「ひたすらに座禅をすること」を意味する。何のために座禅をするのだろうか。禅によって功徳を得るためではない。禅とは悟りを得るための修行という理解はない。この行為が仏になるための手段ではない。「只管打坐」は仏が座っているという理解である。彼の世界観を表すことばに、「悉有(しつう)は仏性なり」がある。これは、「万物はことごとく仏性そのものだ」という意味である。人間も仏性そのものである。だから彼の禅は、万物のこの有り体に自らを一体化させている姿なのである。聖書はと言えば、万物と神を分ける。万物は神が造られたものだと教えている。創世記1章1節に「はじめに神が天と地を創造された」とある通りである。けれども日本では古来から、「草にも木にも山にも川にも神が宿っている。万物イコール神である」という世界観である。道元はこれを禅において体現しようとした人と言えよう。
さて、「只管打坐」とはただひたすらに座っていることなのだから、これは凡人には厳しい。畑仕事はできないし、商売もままならない。当時、大衆路線から外れるしかなかった。また煩悩がある限り救われないとも説いていたのでなおさらである。しかし、煩悩があっても救ってくれると教えた浄土真宗は大衆に広く受け入れられた。
浄土真宗の前身の浄土宗について触れておく必要もある。浄土宗を日本に定着させたのは源信である。彼の作、「往生要集」は有名である。日蓮は次のように浄土宗について語っている。源信によって日本の三分の一が浄土宗の信者になり、永観によってまた三分の一が浄土宗の信者になり、さらに法然によって残り三分の一も信者になり、結局、日本人すべてが浄土宗の信者になったと言っている。この浄土宗をさらに大衆に受け入れやすくしたのが親鸞である(1173生れ)。親鸞は法然の弟子であるが、教えの違いはこうである。法然は瞑想や難しい行をすることによって浄土に往こうとするのではなく、ひたすらに「南無阿弥陀仏」と、何度も口で念仏を誦えることによって浄土に往けると説いた。親鸞も「南無阿弥陀仏」と誦えることを教えたが、彼の場合、ただ一度誦えれば往生できると説いた。さらに言えば、念仏をしようとする心が起こった時に、すでに阿弥陀によって極楽往生が保証されるということなのである。親鸞は、念仏をある種の善行、わざとみなす思想はない。念仏をたくさん唱え、その功徳によって救いに与ろうとする思想はない。彼は、阿弥陀仏に対して、私を罪から救ってくださいと、信頼の心を寄せたその瞬間に救われるというのである。その信頼の心が念仏になったにすぎない。そのような意味で、念仏はただ一度で良いと言っている。当時、「南無阿弥陀仏」という念仏を、何か効力のあるまじないのようにして誦える者がいた。一回の念仏で80憶の罪が消え、十回の念仏で800憶の罪が消える。このような計算ずくの念仏を、親鸞は自力の念仏として否定した。彼は言っている。「念仏したいという気がわれらの心に芽生え始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしい無限の光の中におさめとり、しっかりわれらを離さないのであります。・・・それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには他の善行をなす必要は毛頭ありません」(1条現代訳)。ただ阿弥陀仏を信ずる信仰によって、そのお慈悲によって瞬間的に救われる。
お気づきになった方もおられると思うが、聖書の教えに似ている。聖書は、救いは行いにはよるのではなく、ただ救い主を信じる信仰による、恵みによると説いている。人間は罪深いので、どんなに良い行いに励んでも、神の基準である完全な正しさに到達することはできないし、どんなに良い行いに励んでも、罪が消えていくというものではない。私たち罪人は、ただ自分の罪深さを認めて、救い主に信じて、その罪を赦していただき、救っていただくほかはないというのが聖書の教えである。自分を自分の力で救えるという自力本願の教えを聖書は愚かとしている。このように聖書の教えと親鸞の教えは似ているのだが、実は、聖書の教えが親鸞の教えに似ているのではなく、親鸞の教えが聖書に似ているのである。聖書の救いの教えは親鸞が生まれる一千年前に説かれている。
歎異抄の有名なことばに次の一節がある。「善人なおもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。善人が極楽浄土に行くことができるというのなら、悪人が極楽浄土に行くことができるというのは当たり前だというもの。これは安心して悪を行いなさいという勧めではなくて、救いにふさわしいのは誰かということを告げている。ここで言われている善人とは、善人ぶる人、善行をたくさん行ってきたから成仏できると信じている人のことである。それよりも自分は罪深い悪人だと思い悩んでいる人のほうが救いに近いと言っている。聖書も、善人ぶる高慢な人は救いに遠く、自分の心の罪深さを悟り、へりくだっている人こそが、天の御国に救い入れられると教えている。キリストは自分を義人だと自認し、他の人々を見下している人にこう言われた。「わたしは正しい人を招くために来たのではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9章13節)。また山上の説教で言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5章3節)。「心の貧しい者」とは、自分の罪深さを神の前に自覚している者のことである。
親鸞もへりくだった自己理解を求め、自らの善を誇る者は阿弥陀仏に救いを求める心がないと次のように語っている。「みずから善を励み、自分のつくった善によって極楽往生しようとする人は、おのれの善を誇って、阿弥陀さまにひたすらおすがりしようとする心が欠けていますので、そういう自力の心がある間は・・・阿弥陀さまの救いの本来の対象ではないのです」(3条現代訳)。親鸞にはご利益宗教の匂いは感じられない。徹底したへりくだった自己理解を持ち、罪からの救いを、阿弥陀仏という救い主に帰している。
私は、救いを真剣に求めた求道者の一人として親鸞を尊敬する。彼の誠実な人間理解もすばらしい。私は、親鸞が聖書の教えに出会ってくれていたらなと思っていたら、出会っていたことを後で知った。京都、西本願寺には、親鸞が学んだキリスト教の教典「世尊布施論」が宝物として保管されている。「世尊」とはキリストのことである。この書物には、先に少し触れたキリストの山上の説教や、創造と堕落、キリストの誕生、生涯、教え、そして救いの教理が記されている。親鸞はこれを読んだ。親鸞は当たり前ながら仏教用語を使って教えを説いているが、思想はキリスト教に近いというのはこうしたことからも納得できる。親鸞はキリスト教と同じく偶像崇拝も禁止している。彼は、阿弥陀は色も形もない真理であり、光明なのだから、その像を造ったり、その像を納める寺院を造ったりしてはならないと信者たちを戒めている。
では、信仰の対象について考えてみよう。親鸞の信仰の対象は阿弥陀仏である。阿弥陀仏は二つのサンスクリッド語からなっている。一つは「アミターユース」。「命に限りがない、永遠の命」という意味である。もう一つは「アミターバー」。「光に限りがない、永遠の光」という意味である。聖書を読んでいる人は、いのちに限りがない、光に限りがない、と聞いて、やはり、イエス・キリストを思い起こすだろう。ヨハネの福音書では、キリストは繰り返し、いのち、永遠のいのち、光、と呼ばれている。今日の個所では、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(4節)と言われている。
信仰の対象ということにおいて、私たちは、二つの点を確認しなければならない。一つは、信仰の対象の歴史性ということである。阿弥陀仏は実在したのかどうかということ。浄土信仰の説明によれば、阿弥陀仏はもともと、法蔵菩薩というこの世界に住んでいた人間で、難行苦行の結果、阿弥陀仏になられたのだという。「無量寿経」という経典では、阿弥陀仏は648億年前に一人の人間であったという。彼は一人の国王だったが仏の候補生となり、そして輪廻転生をしながら215億年間の修行を積み、仏になったということである。阿弥陀仏が歴史に実在した証拠が確実でなければ現代人を納得させることはできないとして、その証拠を真剣に探究した方々はいらっしゃるわけだが、証拠がみつかったという話はいまだにない。
反対に、キリストの歴史性を疑う人はいない。しかも、今日の個所からわかるように、もともと人間であったとされていない。もともと、もとから神であったとされている。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。「はじめに」とは「永遠のはじめに」である。キリストは永遠のはじめにことばなる神であった。「ことば」と訳されているのは、意味が豊かで、創造の原理であり、知恵、理性をもつもの、といった意味合いをもつ。参考までに14節を見ていただくと、「ことばは人となって」とあるように、永遠のはじめからおられたことばなる神が人となられた存在、それがイエス・キリストだというのである。キリストは今から約二千年前に歴史上の人物として実在し、架空の伝説上の存在ではない。西暦○○○年という数え方も、キリストの生誕を基点に数えるという年代法である。キリストは3節においては、万物を造られた創造主であることが言われている。4節では、キリストはいのちであり光であると教えられている。ここで言われているいのちも光も、永遠の性質をもつものであることが、聖書全体が証しており、クリスチャンたちは、キリストは永遠のいのち(アミターユース)であり、永遠の光(アミターバー)であると知っている。
ある仏教学者は阿弥陀仏がキリストに似ているものだから、クリスチャンに教えを受けたナガラジュナという人が、このヨハネの福音書から教えを借りたのではないかと言っているほどである。もともとの原始仏教には阿弥陀仏のような救い主の存在は全くない。無神論である。それが釈迦を信仰する有神論となり、阿弥陀仏への信仰へと発展していく。
信仰の対象ということにおいて二つ目に確認しておきたいことは、その対象が救いのみわざをどのようにしてくださったということである。阿弥陀仏は何かをしたというよりも浄土に導く教師のような役割をする存在とされている。導師というイメージである。そして、その浄土というのも、多くの方々が勘違いしているように永遠不滅の世界ではなく、六道輪廻の一つの世界で、そこも修行の場なのである。その六道輪廻から解脱した世界が永遠不滅の世界である。聖書で啓示されている天の御国は永遠不滅の世界である。そして、キリストはそこに罪人を招くために、救いのみわざとして、この歴史上でまことの人となり、十字架刑に服して私たちの罪の身代わりにさばきを受けてくださったということ、そこに大きな違いがある。そしてキリストはよみがえり、ご自身が永遠のいのちをもつ方であることを証明し、信じる者に永遠のいのちを与える資格があることを証明された。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」「(3章16節)。聖書で、永遠のいのちをもつことと、天の御国に入ることとは同義である。
以前にもお話したが、犬養毅首相の孫娘、犬養道子さんが、大好きだったおじいちゃんが暗殺された後に、日本でも有名な大僧正のところに質問に行った。「わたしが大好きだったあのおじいちゃんを殺した人はどうなるんですか?」その大僧正はしばらくの沈黙の後に、かっと目を見開いて、一言、「安心立命」と言った。平易に表現すれば、あの世で安らいでいますよ、ということ。それを聞いた道子さんの頬にはくやし涙が伝い、「そんなバカな」と言わずにはおれなかったとのことである。もし真実なる仏、神がおられるならば、そのお方は正義のお方のはずである。罪は裁かれる、これが道理である。罪も悪徳も裁かない神はほんものではない。しかし、神が私たちの罪を裁くというのなら、救われる人は誰もいなくなってしまう。なぜなら、罪を犯さない人は、この世界に一人もいないから。けれども、ほんものの神は正義であると同時に愛である。私たちを罪から救いたいと願っておられる。そこで、神は私たちを罪から救うために、ひとり子なる神をこの地上に遣わした。キリストは貧しき人となってくださり、全身全霊で私たちの罪を受けとめ、罪の裁きを受けてくださった。あの十字架の上で、私たちの罪の裁きは執行された。そして死で終わらず、三日目によみがえり、永遠のいのち、永遠の光として、信じる者に朽ちることない希望を与えてくださった。また、この地上では、自分の罪深さに嘆くだけの人生を送らせることもない。罪に対する勝利を与え、喜びと平安の人生を歩ませてくださる。悲しみの世であっても喜びは無くならない。
親鸞は90才でその生涯を閉じることになるが、彼の88才の作に「愚禿悲嘆」(ぐとくひたん)がある。「悪い性質を除くことはちっともできない。心は毒蛇やさそりのように恐ろしく、善を修める場合も、結局煩悩の毒が混じることになるから、いつわりの修行と称するのだ」(第三首現代訳)。彼の謙遜な自己理解はすばらしいと思う。ただ、彼に救いの喜び、救いの勝利というものがあったのだろうか。アミターユース(永遠のいのち)、アミターバー(永遠の光)は働いたのだろうか。
イースターは闇に打ち勝つ光、死に打ち勝ついのち、永遠の光、永遠のいのちである、今も生きておられるキリストに心を向け、永遠に朽ちない希望を確認し喜ぶ時である。ことばなる神は人となられ、私たちの罪のために十字架につき、よみがえり、救いのみわざを全うしてくださった。人生の勝利も、永遠の勝利も、この方のうちにある。イエス・キリストを私の救い主として、闇に打ち勝つ光として、死に打ち勝ついのちとして受け入れる方は幸いである。