今日は、キリストに非常な興味を抱いていた人物が登場する。求道者ニコデモである。「ニコデモ」がどのような人物であったのかということから入りたい。今日のお話は、前回の2章23~25節が背景としてある。23節で「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われた多くのしるしを見て、御名を信じた」とあるが、ニコデモはその一人であったと思われる。それは3章2節後半で、「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」とニコデモが述べているからである。前回お話したように、「御名を信じた」と言っても、それは不十分で不確かな信仰で、理解して本当の意味で信じたというのではなかった。そのうちの一人がニコデモであった。
1節前半に「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた」と紹介されているが、「人」という表現に注目してください。「人」ということばは2章24~25節で二回使われている。「イエスはすべての人を知っておられた」「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられた」とある。キリストはニコデモという人の心の中をすべてご存じで、ニコデモがご自身に関して理解不十分で、まだ混沌としていることを知っておられた。
彼は「パリサイ人」であったが、それはユダヤ教の一派であるパリサイ派に属していたということである。彼はまた1節後半を見ると「ユダヤ人の指導者」と言われているので、一応、聖書に精通している人だという印象を持つが、それなりに社会的地位も高い人でもあった。参考までに7章48~50節をご覧ください。48節に「議員」とある。ユダヤには二種類の立法府があった。70人で構成される機関と24人で構成される機関。ニコデモは立法府で議員の務めをしていたようである。大臣クラスの人物ということになる。
ニコデモは夜にキリストを訪ねた(2節)。ニコデモは人目を避けようとしたことはまちがいない。彼は言う。「先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」(2節前半)。彼は個人的な意見を述べているというのでもない。なぜなら「私たちは」と他のパリサイ人たちのことも意識しているからである。前回見たように、神殿でのキリストのふるまいはユダヤ人たちの反感を買うものであった。けれども、その後のしるしでキリストを評価する者たちも起こされた。神が遣わしたお方に相違ないと期待感が高まった。聖書を見ると明らかなようにパリサイ人は敵対勢力である。だが、キリストの公生涯の初期においては、キリストを好意的に見るパリサイ人もいたのだろう。ニコデモはその一人である。だが立法府というものはパリサイ人たちだけが構成メンバーなのではない。祭司たちもいる。彼は自分が背負っている議員という肩書を考えても、夜に訪ねることが無難であった。そして、ヨハネは「夜」をシンボル的に使った可能性がある。「夜」はヨハネ文書において「霊的な闇」のシンボルでもある。ニコデモ自身が夜だった。彼のたましいはまだ霊的闇の中にいた。彼は無意識のうちにも光を求めていた(19~21節)。ニコデモは後にキリストを信じる者になる。彼はアリマタヤのヨセフとともにキリストを埋葬する場面で登場している(19章38~42節)。ニコデモはキリストを埋葬するという勇気ある行動に出る。けれども、この時点では夜に人目を避けてやってくるのが精いっぱいだった。それでもニコデモは、この時点で、パリサイ人の中でも一番キリストに惹かれていた人物であったと言ってもいいだろう。
3節で「イエスは答えて言われた」とあるが、その内容は、一見、ニコデモが話したこととつながっていないように思える。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」。キリストは謎かけ問答で彼の心を試している。「神の国」をテーマにしている。キリストは神のもとから来られた教師であると考えていたニコデモだが、キリストは神の国の王である。パリサイ人たちは神の国は律法を遵守することで入ることができる世界だと考えていた。けれども、キリストはそんなことは言われない。「新しく生まれる」ことを神の国に入る条件して提示した。キリストは18章36節で「わたしの国はこの世のものではありません」と明言している。神の国は地球上のどこかの一つの国ではない。性格が異なる。この国に入る条件は新しく生まれることである。
ニコデモはこの答えにどう反応しただろうか。「人は老年になっていて、・・・・もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか」(4節)。ニコデモは高齢であったようである。彼は物理的な誕生しか思いつかなかった。実は3節の「新しく」と訳されていることば<アノーセン>は「再び」という意味をもつことばである。ニコデモは、「再び?もう一回生まれる?この年寄りの私が?時間を逆戻りして母の胎に入る?そんなことは不可能だ。何を言っているんだこのお方は」。<アノーセン>にはもう一つの意味があり、欄外註に「上から」とある。「上から生まれる」というのは霊的な誕生である。肉体年齢は関係はない。ニコデモは霊的な誕生ということを思いつくことができない。東洋人であれば、輪廻転生によって、もう一度、人としてこの地上に生を受けることだろうか、と考えるかもしれないが、キリストはそのようなことを言わんとしているのでもない。
キリストは霊的な誕生ということを5節以降、ニコデモに説明していく。ニコデモはイスラエルの教師なので、キリストの説明を本来なら理解できなければならいのだが、この一回目の面会では理解できずに終わる。ではキリストの説明を見ていこう。「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」(5節)。「水と御霊によって」と言われているが、実はすでに旧約聖書において、水と御霊は結びつけられて、霊的誕生について語られている。例えばエゼキエル36章25~27節では、きよい水が降りかけられ、神の霊が授けられるという預言がある。水と御霊はひとつであって別々のものではない。水はきよめ、いのちを与えるもので、御霊の性格を良く表している。水と御霊によって生まれるという教えのポイントは、御霊による霊的誕生ということにある。それは6節から明らかである。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」。「肉」は自然的誕生による私たちの状態を、「霊」は御霊による誕生の状態を表している。旧約聖書の専門家のはずのニコデモは、聖書で語られていた霊的誕生に気づけなかったので、キリストの話についていけない。
キリストはさらに自然界のたとえを使って霊的誕生について説明を加える(7,8節)。キリストは御霊を風にたとえている。風の特徴として、吹いていることはわかっても目に見えない。それにまた風というのは人間がコントロールできない。その風の通り道は神秘的で人間にはわからない。御霊もまた見えない。いつ、どこで、どのように働くのかもわからない。御霊の働きは神のイニシアチブによる。人間ができることと言えば、「雨乞い」とともに「風乞い」である。聖霊の雨が天から降り、聖霊の風が天から吹き、いのちが与えられ、救いの実が実ることを願うことである。
合理的思考のニコデモにとって、キリストの話は神秘的すぎて理解できない(9節)。ニコデモは理解できないどころか、キリストの話をまだ素直に受け入れることができない。「・・・あなたがたは、わたしたちの証を受け入れません」(11節)。「わたしたち」とは、父なる神と御子キリストを意味している。ニコデモはキリストが行ったしるしを見て、キリストが神のもとから来たことを信じたけれども、キリストの教えを神からのものとしてきちんと受け入れることができなかった。キリストが話すことばは神のことばである。「受け入れない」というのは「信じない」ということである。それが続く12節で言われている。「あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう」。「地上のこと」とは、今キリストが話された、この地上での生まれ変わりのことである。それさえ信じないのならば、天上のことはなおさら信じないだろうということである。キリストはかなり辛口にニコデモを責めているようにも思う。それはニコデモが聖書を熟知しているはずの立場の、しかも年齢的にいっても悟っていいはずのベテランの信仰者だからである。
キリストは続いて、神のもとである天上から下った者として、これから行わんとする救いのみわざに言及する(13~15節)。実は、この永遠のいのちを与えるという特別な救いのみわざが「天上のこと」なのである。このこともニコデモは当然のことながら理解できなかっただろうが、彼はキリストの十字架と復活後、これを理解する者となったと想像がつく。
キリストはご自身を「人の子」という呼び名で呼んでいく。「人の子」とは以前も学んだように、旧約にも登場する神なるメシヤの別称だが、新約での用法を見ると、神なるメシヤがまことの人となり、十字架の受難を通して救いのみわざを全うされる面が強調されている。まさにそのことが14節で言われている。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」(民数記21章4~9節参照)。モーセを指導者としてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野の旅の後半、神さまに対してそれまでと同じように不平を言い、つぶやきだした。神さまは裁きとして燃える蛇を送った。それは噛まれると火傷のように熱く痛む毒蛇であると思われる。神さまは救いの手段として青銅の蛇を竿の上にかかげるように命じられた。その青銅の蛇を仰ぎ見る者は、噛まれても生きた。けれども蛇を仰ぐと死なないなんてばかばかしいと言って仰がなかった者は死んだだろう。この竿に上げられた蛇は、キリストによる救いの型であった。キリストは十字架に上げられた。そして蛇のようにされた。木にかけられる者はすべてのろわれた者である」と律法で言われているからである(ガラテヤ3章13節)。キリストは私たち人間の罪を負い、のろわれた者となってくださった。罪の報いは死の刑罰である。律法を守れない者には死が要求される。律法が求める死の要求はキリストによって満たされた。パリサイ人たちは律法を遵守する者は神の国に入る資格があると考えていた。しかし、真剣に律法と向き合った場合、律法を遵守できる者などいるだろうか。律法を守れない自分を見い出すのが普通だろう。律法は律法を守れず罪を犯す者に対して死を要求する。そうしたら誰が救われるだろうか。ところが、キリストは律法の要求を受け止め、私たちの代わりに死んでくださった。そして、よみがえり、天に上げられた。キリストが私の罪のために死んでくださったと信じる者は、キリストに結び合わされ、永遠のいのちをもつ。15節の「永遠のいのちをもつ」とは、3節の「神の国を見る」の言い換えである。また5節の「神の国に入る」の言い換えである。
ニコデモは、イエスという人物は神のもとから来られた方で、神がともにいる特別な人物で、私たちの未来を拓いてくださるお方ではないかと期待を寄せて、夜にお忍びで訪ねた。どういうお方なのか、対話をしてもっと知りたいと。しかし、考えてもみないことをいきなり言われてしまう。あなたは新しく生まれ変わらなければいけませんよと。ええっ?私個人のことを振り返ってみると、聖書を読んだ動機、教会に通い始めた動機は、自分の罪からの救いや霊的誕生を求めてということではなかった。ただ真理の教えを知りたい、キリストとは誰なのかを知りたいという漠然としたものであったと思う。ニコデモはキリストに会いに出かけ、霊的に生まれ変わらなければいけませんよと言われ、面食らってしまった。全く思ってもみなかったことなので。そして、モーセが荒野で蛇を上げた話はよく知っていたが、キリストから、その蛇のようにわたしも上げられなければならないのだなどという話を聞かされ、混乱に陥っただろう。私たちもまた、十字架に上げられた男が救い主なのだ、などと言われた時は、すぐには首を振れなかったはず。けれども、神の忍耐とあわれみにより、自分が生まれ変わらなければならないことに気づき、十字架にかけられたキリストが救い主であること、そしてキリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることを信じ、新生の恵みをいただいた。よどんだこの世の空気を吸っていた私たちに聖霊の風が吹き、救いのみわざに与った。新しい誕生を得ることができた。私たちはキリストにある、聖霊による救いの恵みに感謝し、生まれ変わりの恵みあずかる方が起こされることを祈っていきたい。