ヨハネ1章19~34節「あなたはだれですか」

今日はバプテスマのヨハネへの質問、「あなたはどなたですか」「あなたはだれですか」から、最終的には、この質問を自分たちに振り向けてみたいと思う。
今日の個所は、「ヨハネの証言は、こうである」から始まっている(19節前半)。ヨハネについては6節をご覧ください。彼は「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」と言われている。彼の役割はあくまでも、まことの光であるキリストを証することにある。そして、その証が具体的に19節以降で見ることができる。私が大学生の時に教会に通い始めた頃、クリスチャンの方々が、「証をしなければなりません」とか「証を持っている」とか話されるのを聞いて、証って何?と意味がわからなかった。証とはキリストを証することなのである。実は6節で「あかし」と訳されていた原語は、19節で「証言」と訳されている原語<マルトゥリア>と同じである。つまり、「ヨハネのあかしは、こうである」と、彼のキリストについての証が記されていくわけである。
バプテスマのヨハネは、らくだの毛衣を着用し、いなごと野蜜を食べて、荒野で民衆に神の教えを説いていた。このうわさがユダヤ議会サンヘドリンの耳に入ったのだろう。民衆を惑わす彼はいったい何者なのだ?サンヘドリンは祭司、サドカイ人、パリサイ人といった人々で構成されるイスラエルの立法府であり、ユダヤ教を司る中枢の人々だった。正当なユダヤ教とは神殿や会堂で礼拝をささげるものであったわけである。ところが、荒野で奇妙奇天烈な外見で、彼らと関係ももたずに、民衆を惹きつけ、メシヤではないのかとうわさされるまでに至っていたわけである。調査チームを派遣しないわけにはいかない。そして彼らはバプテスマのヨハネにインタビューを試みた。「あなたはどなたですか」(19節後半)。同じような質問は22節でも見られる。「あなたはだれですか」。原文を見ると、どちらも「あなたはだれですか」という質問である。違いは19節では「あなたは」が強調されているという点である。「いったい、あ-な-た-は-だれなんだい?」という質問である。それに対するヨハネの答えを注意深く見てみたい。20節に、「彼は告白して否まず、『私はキリストではありません』と言明した」とある。「キリスト」とは欄外註にあるように、「すなわち『メシヤ』」。キリストとはメシヤ、すなわち救い主の別称である。原文では、「私はキリストではありません」の「私は」が強調されている。「あなたはどなたですか」の「あなたは」が強調されていたわけだが、ヨハネは返答において「私は」と強調して、「救い主ではありません」と答えている。彼の心を込めた否定の強調は、「告白して否まず」と「言明した」という動詞によってサポートされている。ヨハネには人のうわさで浮かれる気持ちはない。わたしはキリストではないと、きっぱりと否定した。
この否定の返答を聞いたユダヤ人たちは、その他にうわさされている人物を口にしてみる(21節)。「あなたはエリヤですか」。ユダヤ人たちは終末の時代に、預言者エリヤが再び遣わされると信じていた。それは旧約聖書最後の書である、マラキ書4章5節にこうあるからである。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」。ヨハネはエリヤ自身ではない。それで、これも否定するわけだが、ただ、キリストが、マタイ11章14節で、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」と言われたことを心に留めておきたい。
続いてユダヤ人たちは、「あなたはあの預言者なのですか」と問う。これはおそらく申命記18章15節でモーセが言及した預言者であると思われる。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」。ヨハネはこれも否定する。実は、申命記18章15節の預言者はキリストのことを指している。
ユダヤ人たちはジレンマに陥る。「あなたはだれですか」という質問を繰り返すことになる。ヨハネの返答は23節。「私は、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」。彼が神殿ではなくアウトロー的に荒野で活動している理由はここにあった。このみことばイザヤ書40章2節である。彼は自分の活動の根拠を聖書から説いている。「主の道をまっすぐにせよ」について、簡単に説明しておくが、古代、王が地方に来訪することに備え、道路整備をすることがあった。曲がりくねったでこぼこ道では困る。まっすぐで平坦な道にしなければならない。王なるキリストを心にお迎えするということで考えた場合、悔い改めて、道を平坦に、真っすぐにするということ。岩や障害物は取り除かなければならない。つまり、罪は取り除かれなければならない。だからヨハネはさばきのメッセージ、悔い改めのメッセージを説いた。「荒野で叫んでいる者の声」として。
ヨハネの返答を聞いて、このユダヤ教の指導者たちは、聖書に精通しているはずなのに、ピンと来ていない。「ああ、そうなのか」とはならない。イザヤの預言に心閉ざされていたわけである。そこで彼らは、別の質問を振り向ける。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」(25節)(28節参照)。当時、改宗者のバプテスマというものがあって、異邦人がユダヤ教に改宗する場合、水のバプテスマを授けた。しかし、ヨハネが授けていたのは、同国人のユダヤ人たちに対してである。例外である。けれども、それ自体を一番の問題としているふしもない。実は水できよめるというのは、ユダヤ人の感覚としては普通のことであった。モーセ五書を見ると、水できよめるという儀式の言及がある。またイザヤ書にもこうある。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で悪事を取り除け。悪事を働くのをやめよ」(イザヤ1章16節)。ヨハネが授けていた水のバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であった。マルコはこう描写している。「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」(マルコ1章4,5節)。この悔い改めのバプテスマが、「ユダヤ全国の人々とエルサレム全住民」と言われていたように、一大ムーブメントと化していたのである。ユダヤ教の指導者たちが言わんとしたいことは、「あなたは特に権威者でもなさそうなのに、国中の人々を巻き込んで、どういうわけでこんなことをやっているんですか」ということである。
ヨハネは、キリストとのつながりで、これを説明しようとする(26節)。ヨハネの福音書の文脈では、水でバプテスマを授けていた目的の説明は、29節に「その翌日」とあるように、二日間にまたがっている。特に、キリストを目撃する二日目に水でバプテスマを授けていた目的をはっきりさせている。水のバプテスマの第一の目的は、キリストを明らかにするためである(31節)。悔い改める思いがなければ、イエスはキリストだと分からないし、受け入れる気持ちにもならない。キリストとは罪からの救い主としておいでくださるわけだから。だからまず、罪の悔い改めを説き、悔い改めのしるしである水のバプテスマに人々を招いた。水でバプテスマを授けていた第二の目的は、聖霊のバプテスマに招くためであった(33節)。私たちはキリストを信じ受け入れる時、聖霊の働きに与り、生まれ変わり、神の子とされる(1章12節参照)。この霊的生まれ変わり、霊的誕生に至らせるのが聖霊の働きである。まずそのためにも悔い改めてもらうということが先決だった。以上のようなことから、バプテスマのヨハネの働きがなぜ必要であったのかをご理解いただけただろうか。彼は人々に、キリストを受け入れさせる道備えをした。
さて、これから、「あなたはだれですか」ということを本腰を入れて考えていきたい。「私はキリストではありません」と言明したヨハネは、27節では何と言っているだろうか。「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」。ここで「くつ」と言われているのは現代のスニーカーとは全く違って、わらじのようなサンダルである。裸足でこのサンダルをはき、砂ぼこり舞う道を歩く。当然、足もサンダルも汚くなる。当時の師弟関係にあって、弟子は先生に奉公するが、先生のくつのひもを解くことはしなくて良いと言われたりもした。くつのひもを解くのは奴隷の仕事だった。しかしヨハネは、私はキリストに対してその値打ちもないと言っている。ヨハネはイスラエル全土から人々が会いに来るヒーローになっていた。注目の的だった。でも、彼が注目してほしかったのは、あくまでもキリストである。彼は、わかりやすい表現で、自分をキリストよりも格段落とす。自分はキリストの奴隷の値打ちもないと。彼は自分が注目を浴びるためにではなく、キリストを指し示し、証するために来た。
彼は翌日、さっそくそれを実践している。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(29節)。「子羊」で思い起こす聖書場面は幾つかある。信仰の父祖アブラハムはモリヤの地で、ひとり子イサクを献げた場面で、雄羊を代わりに献げている(創世記22章)。あの場面はキリストの十字架の型となっている。御父が御子を私たちの罪の身代わりとして献げてくださることを予め表している。またエジプトで奴隷であったイスラエルの民は、脱出の前に、神の命令によって、過越の子羊を献げた。あれも、キリストの十字架の型であった。キリストは過越の子羊を献げたことを記念する過越の祭りの期間に十字架でいのちを献げられることになる。罪を取り除くということではイザヤ53章も思い起こす。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊にように、彼は口を開かない。」(6,7節)。キリストは私たちの身代わりとして、ほふり場に引かれていく子羊のようになり、十字架の祭壇で、その尊いいのちを献げてくださった。バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、私たちの視線をキリストに注がせる。救いはここにしかないからである。どこを見るだろうか。脇見はやめて、キリストをまっすぐに見よう。
この神の子羊は「神の子」であった(34節)。「神の子」とは、18節で見たように「父のふところにおられるひとり子の神」のことであり、三位一体の第二位格のことである。キリストは、ご自分を神と等しいとしたかどで、ユダヤ教の指導者たちによって、死罪に定められるのだが、キリストは文字通り、神であられたのである。
では、最後に、「あなたはだれですか」という質問を私たちに適用してみよう。皆さんは、この質問にどう答えるだろうか。「日本人です」。でもそれは人種にすぎない。「男です」「女です」。それは性別にすぎない。「秋田次郎です」。でもそれは名前である。ユダヤ人たちも、ヨハネという名前は分かっていて聞きに来た。名前を聞きに来たのではない。「私は横手市に住んでいます」。それは住所に過ぎない。「私はお米作りをしています」。それは仕事に過ぎない。ユダヤ人たちはヨハネが何をしていたかは知っていた。「私の父親は太郎です」。それで?ユダヤ人たちはヨハネのお父さんの名前はザカリヤだと知っていただろう。お父さんは祭司だったので調べればすぐわかる。そんなことを聞きにきたのではない。「私は焼きそばをよく食べます」。それは食べ物の話である。ユダヤ人たちは、ヨハネがいなごと野蜜を常食にしていたことを知っていただろう。彼らは、ヨハネが神さまとどういう関係にある人物かを知りたかったわけである。
私たちの場合、「あなたはだれですか」の質問に対して、「神によって造られたものです」という本質的な答えはもっていたい。「私の先祖はサルです。進化の産物です」では困る。また、「神に救われた罪人です」という答えはもっていたい。羊のようにさまよい、神から離れ、そむきの罪を犯して生きてきたけれども、聖書のみことばを通して、神に立ち返り、キリストの十字架を仰いで、罪赦された者たちである。また「神に愛されている神の子どもです」という答えはもっていたい(1章12節参照)。そして、「キリストのしもべです。キリストを証する者です」という答えをもっていなければならない。「クリスチャン」という呼び名が、まさにそのことを意味している。キリストのしもべとして私たちがすることは、ヨハネと同じくキリストを証することである。ヨハネは自分のことを「荒野で叫んでいる者の声」と呼んだ。ヨハネから教えられることは、人々の目を徹底的にキリストに向けさせたことである。どういうことかと言うと、私たちはキリストを証するけれども、少し注目を浴びてほめられたいという中途半端な心になってしまうことがある。イエスさまのことを証したいが、自分もほめられたい、といった感覚である。多くのクリスチャンが陥るわなである。そして高ぶりの罪を犯す。ヨハネは「私はキリストではありません」と言明したが、まれに自分を第二のキリストにする方がいる。またヨハネは「私は、その方のくつのひもを解く値打ちもありません」と、心貧しくし、キリストにすべての栄光を帰す態度を示したが、そうでもない人たちもいる。キリストと同等に扱われたいかのように。私たちはただひたすらに、人々の目を、関心を、キリストに向けさせよう。その働きの中で、物理的には注目を浴びることになる。世の光であるわけだから、それは当然である。その光を隠すようなことは愚かである。ただ、私たちの精神として、人々に対して、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と、ひたすらにキリストを指し示すことに努めたいのである。私ではなくキリストである。
キリシタン用語で有名なものに「マルチル」がある。意味は殉教者である。また「マルチリヨ」がある。意味は殉教である。キリシタンは17世紀、子どもを含めたら100万人いただろうと言われている。当時は殉教を覚悟しなければならない時代であった。キリシタンの親は子どもにも殉教教育を施したと言われる。「マルチリヨ(殉教)の心得」なるものまである。「マルチル」「マルチリヨ」ということばは、最初にお話しした「証」を意味する<マルトゥリア>に由来している。キリストに忠節な証人(あかしびと)は、殉教をいとわないというわけである。殉教は証の最高の形態とみなされた。世の人も、「キリシタンとは、殉教することと見つけたり」と確言するほどであった。
私たちは現在のところ、殉教の時代に生きているわけではない。ただ精神は同じであるべきである。私たちは、キリストの御名とキリストのみことばがひたすらにあがめられることを願って、キリストのしもべとして歩み、荒野の時代の声となっていこう。