前回、「初めに、ことばがあった」で始まる、ヨハネの福音書の書き出しをご一緒に見た。「ことば」と訳されている<ロゴス>は当時の世界にあって、世界の始まりに関連して用いられていたことばで、ギリシャ人にとっては世界の本質、創造の原理という理解があり、ユダヤ人にとってはロゴスと知恵が結び付けられ、知恵ある人格者が世界の創造に携わったのだと教えていた。ヨハネはそれを一歩進めて、ロゴスは世界創造以前の、永遠の昔から存在していた神であり、このお方が世界を創造したのだ、そしてこのお方とはキリストなのだと教えた(1~3節)。また、このお方がいのちをもつのだと教えた(4節)。ヨハネは、福音書で「いのち」ということばを良く使うが、彼が言ういのちとは、永遠のいのちそのものである神がもっているいのちを意味するわけである。神との交わりが断たれていれば、それは死なのである。ヨハネは、このいのちをもっておられるお方を「光」とも表現している(4,5節)。
今日は、その続きとなる。6~8節において、バプテスマのヨハネが光について証するために出現したことが書いてある。ふつう闇夜に光が輝いていれば、誰でもそれは光と気づくはずである。蛍光灯が点いているな、街灯が灯っているな、と誰でもわかる。けれども、キリストといういのちの光に罪人はなかなか気づけない。それは霊的な光なので、教えてくれる人がいなければ、それが光なのだと認識できない。そして、光とやみの識別ができないまま、やみの中を歩むことになる。そこで父なる神は、キリストの公生涯が始まる前に、バプテスマのヨハネを遣わした。バプテスマのヨハネは、旧約時代と新約時代の架け橋となる預言者である。19節以降で、彼の行動を具体的に見ていくことになるが、彼は来るべきキリストを証した。また直接、キリストとも会って、彼こそ待ち望んでいた救い主であることを伝えた。
バプテスマのヨハネが伝えたキリストは、9節において「すべての人を照らすまことの光」と呼ばれている。「まことの」ということばは、「正真正銘の」という意味になるだろうか。「ほんものの」と訳してもいい。では、人々はキリストをどう評価したのだろうか。いつも二等米を食べていた人が一等米を食べて、しかもお米の品評会で金賞を取ったお米を食べて、これぞほんものだ、と納得するような結果になったのだろうか。バプテスマのヨハネの働きによって、イスラエルじゅうの人々が、キリストこそほんものの救いの光、いのちの光だと信じただろうか。そうではなかったことが10,11節からわかる。まず10節は、キリストの受肉以前、いわゆる人となられる以前の描写と思われる。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」。世はキリストを知らずじまいだった。初めにあったことば、ロゴスなるキリストを知ることはなかった。しかし時が満ちた。旧約聖書を見ればわかるように、神はご自身を啓示するためにイスラエルの民を選ばれていた。そしてイスラエルに預言者を遣わし、救い主があなたがたに与えられると約束されていた。バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者として、イスラエルの民に、イエスこそキリスト、すなわち待ち望んでいた救い主であることを伝えた。しかし、結果は、11節にあるように、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民はそれを受け入れなかった」である。理解してもらえない、そして落選である。一民族としてはキリストを受け入れなかった。拒絶である。けれども、個人的に受け入れる者たちはいたわけである。
著者ヨハネは言う。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(12節)。私は信徒時代、このみことばを通してイエスさまを信じたという男性と出会った。神の子どもとなれるというのが嬉しかったと証してくださった。まことに謙遜な方であると思う。日本人は生まれながらにして仏の子、神の子と教えられることが多い。それを信じている人たちもいるだろう。けれども、人生の空しさや自分の罪に悩んでいる人にとっては、これぞ福音なのである。自分のようなちりにも等しい罪人が神の子としていただける!神の子どもになるというのは人間の努力によるものではない。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(13節)。神の子どもに人間の知恵、力ではなれない。どの民族の血が流れているかとか、血筋がいいとか悪いとか、そういうこともいっさい関係ない。それはただ、神のなせるわざであり、恵みなのである。それがわかると、神の子どもとされた人は、何という特権に与ったのだと、感謝でいっぱいになるはずである。まことの神さまを父と呼べる、神さまと親子関係になる、これはすばらしい恵みである。
ヨハネは続いて、キリストの受肉に焦点を当てて語っていく。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(14節a)。この世界を創造されたことばなる神が、被造物の一人となられたという謙卑。これは驚天動地の出来事だった。「人」と訳されていることばの直訳は「肉」である。神が肉となられた。これは、神が人間のような姿をとって出現されたとか、人間のように見えただけだとか、そういうことではなく、文字通りの人間になられたということ。ヨハネはこの事実を伝えたい。肉は人間のもろさ、頼りなさ、弱さを暗示しているが、キリストは特別仕様の体で来られたのではなく、私たちと同じ肉の姿で来てくださった。そして私たちの間に住まわれた。家畜小屋で生まれられ、ナザレのイエスとして、ガリラヤ地方の寒村で庶民と全く変わらない生活され、約30歳になられた時、公生涯に入る。それも寝るところも枕するところもないような生涯だった。
ヨハネはキリストと三年間寝食をともにするわけだが、「私たちはこの方の栄光を見た」(14節b)と言っている。これはどういうことだろうか。「栄光」は輝き、まぶしさをイメージする。実際、旧約聖書を見ると、そういう場面が多い。神が民の前に超自然的なかたちで顕現し、民が恐れるという場面を思い起こすだろう。モーセがシナイ山に登った場面ではこうある。「主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた」(出エジプト24章16~17節)。けれども、神なるキリストは地上で肉そのものの姿だった。その肉において栄光を現したというのである。肉と栄光はつながらないイメージである。肉と腐敗はつながる。これはどういうことだろうか。ある人々は、変貌の山でキリストの御姿が光輝いたという出来事を意味しているのだと言う。その記述は、マタイ、マルコ、ルカの三福音書にあるが、ヨハネの福音書にはない。それが特別に意識されていることはないようである。ヨハネの福音書を読んで気づくことは、キリストが公生涯を通して継続的に行った神のわざが、神の栄光を現したということである。「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(17章3節)。栄光とは、「栄誉、光栄、尊厳」といった意味をもつことばである。キリストは肉において、神のすばらしさを現すことに努められた。それが神の栄光を現したということであろう。
この栄光は「父のもとから来られたひとり子としての栄光である」(14節c)と、父なる神との関係で記述されていることを心に留めなければならない。ユダヤにおいては、息子自身が父親を敬い、父親に倣うことにより、父親が立派で尊敬に価することを周囲に示し、自らも尊敬されるものになるという関係性があった。息子は父親の栄光を現す存在ということである。息子ということであっても、特に長男の父親に対する責任は大きかった。そして、それがひとり息子であるならばなおさら。しかし、ここで「ひとり子」と訳されていることばは、単に数において一人ということでなく、独特の特別な存在というニュアンスのことばなのである。「ひとり子」と訳されていることば<モノゲネース>は、兄弟がいないという意味でのひとりの子というだけでなく、比類のない卓越したひとりの子という意味がある。それをヨハネは18節において、「父のふところにおられるひとり子の神」という表現をとっている。このお方が、一見すると冴えない肉の姿となって御父の栄光を現そうとされた。それが「ひとり子としての栄光」であった。
この栄光は恵みとまことに結びつけられている。「この方は恵みとまことに満ちておられた」(14節d)。栄光と言うと、超自然的奇跡や力だけで現すものだと受け止められやすいが、神の栄光は本質的に、恵み、あわれみ、いつくしみ、真実さ、そういったものに基づいて現されるものなのである。
では「恵みとまこと」とは、どういう性質のものなのかを16,17節から学ぼう。「恵み」はギリシャ語で<カリス>だが、ヘブル語の<ヘセド>に由来するものである。「いつくしみ」と訳されることばででもある。J.I.パッカーは恵みについてこう説明している。「きびしさのみがふさわしく、きびしさ以外の何ものも受けるべき理由のない人に対して、神がいつくしみを示されることです」。私たちは聖なる神の前に罪人であるので、本来、厳しさ以外、何も望めない者たちである。けれども、そんな私たちに注がれるいつくしみが恵みなのである。「まこと」のヘブル語は「エメス」である。信頼性、忠実さ、真実さを意味することばである。
恵みとまことはセットであり、二つは一つなのであることを説明しておきたい。実は、恵みもまことも、神との契約に関係する用語である。恵みは契約の愛と言われることがある。神の契約に表された恵みである。まことは、神は契約に忠実であることを示し、その恵みが信頼できるものであることを保証する。恵みとまことは表裏一体である。まことは恵みの分身と言ってもよいだろう。
「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(17節)。ヨハネは何を言いたいのだろうか。「律法はモーセによって与えられ」とあるが、モーセがシナイ山で律法、すなわち契約のことばを受ける時、神はご自身のことを「恵みとまことに富み」と宣言されている(出エジプト34章6節)。旧約の時代より、神の恵みとまことはあったわけだが、この恵みとまことは新約の時代に入り、キリストを介して完全なかたちで啓示され、それが現実のものとなった。救われるに価しない罪人が、ただ恵みにより、キリストを信じる信仰により、価ないし義とされ、救われる。神の子とされる。16節にある通り、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のである。あふれるばかりの恵みである。この恵みは神のご真実によって、すなわち、まことによって保証されている。
「まこと」に関して、少し説明を加えよう。ギリシャ語では<アレーセイア>ということばが使われているが、このことばをヨハネは多用しており、他の個所では「真理」とも訳されている。有名な個所では、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)の「真理」と訳されていることばがそうである。キリストはまがいもなく真理、真実、そのものであり、全く信頼に値する存在なのである。
こうしてヨハネは、恵みとまことということばによって、キリストの人格のすばらしさを伝えようとしている。
最後に18節を見よう。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」。ことばは人となって、目に見える神となって、しかし御使いのような姿ではなく、私たちと同じ肉となって、目に見えない神を説き明かされた。このお方はまことの光であったが、光輝く姿ではなく、あくまでも肉の姿で神を説き明かされた。ちりやほこりにまみれ、傷つき、血を流し、飢え渇き、疲れ、イザヤに「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」(53章2節)と預言されていたような姿で、神を説き明かされた。そして、あの十字架につき、人の罪を、その肉において負ってくださり、三日目によみがえってくださった。
私たちは、ことばなる神が謙遜にも私たちと同じ肉となってくださり、神を啓示し、神の栄光を現し、救いのみわざを成し遂げてくださったことに感謝したい。厳しさ以外何も受ける理由のない私たちは、このキリストを信じることにより、罪を赦され、永遠のいのちをもち、神の子どもとされる。キリストは実に、恵みとまことに富んでおられるすばらしい救い主、初めにあったことば<ロゴス>である。