前回は、バプテスマのヨハネから、キリストを証する姿勢について学んだ。今日の個所は、前回に続き、バプテスマのヨハネに関する記述で始まっている。教会史を書き記したことで有名な四世紀の教父エウセビオスは、使徒ヨハネは他の福音書記者たちが余り記さなかったバプテスマのヨハネの投獄以前に起こったすべてのことを福音書に記録するように懇願されたと言われている。確かに、ヨハネの福音書は、バプテスマのヨハネの活動初期の記録が他の福音書よりも長いことに気づく。
今日は弟子たちがキリストに召される場面であるが、他の福音書では、キリストがイニシアチブをとって直接召していくような印象が強い。例えば、アンデレとシモン・ペテロの召しでは、マルコではこうなっている。「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、すぐに、彼らは網を捨ておいて従った」(マルコ1章16~18節)。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの召しはこうである。「また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに残して、イエスについて行った」(マルコ1章19~20節)。キリストが目を留め、弟子として召すというパターン。けれども、今日の場面で直接的な召しは43節のピリポだけである。この福音書では、バプテスマのヨハネに紹介されて、声がかかるまでキリストの後ろからついて行って、弟子にしてもらって、今度はついて行った人がまた別の人を紹介して、というパターン。キリストのイニシアチブというよりも、人の側のイニシアチブという印象を与えるような書き方もしている。人の側の求め、キリストを紹介する人の動き、といったことを伝えている。そして、今日の個所から明らかにわかることは、キリストの弟子の召しというものは、バプテスマのヨハネの証言から出発しているということである。「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」(1章6節)というバプテスマのヨハネの役目は、今日の個所でも具体的に描かれている。
バプテスマのヨハネは二人の弟子に「見よ、神の子羊」とキリストを指し示したことがわかる(35~36節)。普段からバプテスマのヨハネは「神の子羊」という呼称で来るべきメシヤのことを呼び、弟子たちに教えていたのだろう。この二人のバプテスマのヨハネの弟子が、キリストの弟子となる。バプテスマのヨハネは良き証者であり、十二使徒を生み出す第一動因となったと言っても良い。ヨハネの弟子の二人はヨハネのことばによって、キリストのあとからついて行ったようである(37節)。キリストは沈黙を守りながら、しばらく彼らの前を進んで行く。途中、振り向いて、沈黙を破り、様子をうかがう質問をする。「あなたがたは何を求めているのですか」(38節前半)。彼らは、この質問に具体的に答えず、「先生。今、どこにお泊りですか」と問い返す(38節後半)。彼らが求めていたのは、キリストとの関係性である。それも、ちょっとサインをもらって帰るというようなことではない。それは「どこにお泊りですか」という質問からわかる。キリストは住所を教えない。ただ、「来なさい。そうすればわかります」と短く答えただけである(39節前半)。関係性への招きである。余計な説明はいらない。どんな雰囲気のところで、部屋の広さは何畳でとか、そんなことは関係ない。「わたしのところへ来なさい」「わたしの人格に来なさい」である。キリストがすべてである。「そして、その日彼らはイエスといっしょにいた」(39節後半)ということが、彼らがキリストの弟子となる決定的な要因となる。彼らはキリストとの数時間におよぶ交わりの中で、このお方こそメシヤであるという確信が与えられ、またその確信が深まったことであろう。キリストの最初の弟子となったのは、シモン・ペテロの兄弟アンデレと名前が伏されている弟子である(40節)。伝統的に、この名前がわからない弟子は、この福音書の著者であると言われている。
アンデレは今度、自分の兄弟シモンにキリストを紹介し、キリストのもとに連れて来る(41,42節)。キリストは神のご計画のうちに、ペテロのリーダーシップの資質を見抜いて、アラム語で「ケパ」(新改訳2017「ケファ」)、すなわち岩という意味のあだ名をつける。アンデレはこのペテロの下に隠れてしまうことが多いが、アンデレは兄弟伝道の元祖である。
証、紹介といったことによって弟子の数は増えていくが、直接の召しもあった(43節)。41節ではアンデレが自分の兄弟を見つけてキリストを紹介したことが書いてあるが、43節では、キリストが直接ピリポを見つけている。まれに、このようにしてキリストのもとに行く人がいる。人を介することなく、自分から教会に行ってみようと思い立ち、生まれて初めて教会に行ったその日に、福音書からのメッセージを聞いて、そこでキリストと出会い、救われたという女性に出会ったことがある。ピリポはアンデレやペテロと同じ町の出身だった(44節)。来るべき救い主を求めていた人であることにはまちがいない。会ってみたいという強い思いがあっただろう。いわゆる求道心があった。それがなければ、キリストに「わたしに従って来なさい」という声をかけられることはない。
キリストは救い主であると信じたピリポは、同じく求道心のあるナタナエルにキリストを紹介する(45節)。ナタナエルは共観福音書の弟子のリストの比較からバルトロマイのことではないかと言われているが確証はない。彼の特徴は、最初、懐疑的であったということである。「ナザレから何の良いものが出るだろう」(46節前半)。ナザレは旧約聖書の時代の文書にも、この時代の文書にも記録がないという、村の中でもCクラスかDクラスかわからないような村であった。彼の偏見を打ち破るには、そのままにしておかないで、「来て、そして、見なさい」(46節後半)と積極的に招くことであった。キリストはナタナエルがご自分のところに来るのを見るとともに、彼の人柄、人格を見ていた(47節)。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」というのは、彼に罪はないということではない。彼もまた「世の罪を取り除く神の子羊」を必要としていたわけだから。神に対する誠実さにおいて、アブラハム、ノア、ヨブといった聖徒に匹敵する心の態度があったのだろう。ナタナエルは前から自分を知っていたかのようなキリストの発言に驚く。そしてキリストは彼の懐疑心、偏見といったものを完全に打ち砕くことになる救い主の片鱗の特質を彼に示す。キリストは、ナタナエルがどこで何をしていたのか、完全にお見通しだったのである(48節後半)。ナタナエルはピリポに誘われて来たわけだが、そこには神のご計画の選びというものがすでにあり、キリストはナタナエルを前から知っておられた。召そうとして霊の目で見ておられた。結局は救い、召しというものは、神のご計画、キリストのイニシアチブというものが優先している。人の誘い、紹介、証、自分の意志で求める、それはなくてはならないものであるが、それらに先行する神のご計画、招きというものがあるのは事実である。それは恵みである。
ナタナエルはいちじくの木の下にいたわけだけれども、いちじくの木の下は、祈りや瞑想の場であったとも言われている。ナタナエルがそこで何をしていたのかはわからないが、キリストはすべてをご存じであられ、ナタナエルは、キリストが人間を越えた能力で自分を知り尽くしていることに感嘆し、キリストを信じるに至る。
今日の弟子の召しの物語では、キリストを紹介するというバトンリレーといったことが印象付けられる。私たちも、誰かにキリストを紹介されて、キリストを信じるに至った。そのような働きは大切である。
最後に解釈の難しいと言われる51節を見る前に、今日の個所で紹介されているキリストの呼び名を整理して見てみよう。今日の個所では、キリストの呼び名が五つある。
第一は「神の子羊」(36節)。著者ヨハネはこの「子羊」という呼び名を好んで使う。ヨハネの黙示録では10か所で「子羊」の呼び名が使われている。最初に登場するのは黙示録5章6節。「ほふられたと見える子羊が立っていた」。子羊という呼び名には、私たちの罪のためにいけにえとなり犠牲となるという贖いのみわざが込められている。
第二は「メシヤ」(41節)。「メシヤ」(新改訳2017「メシア」)は欄外註にあるように「油を注がれた者」の意味だが、これには説明がいる。旧約時代、王、祭司、預言者の任職式に油を注ぐことをした。後にメシヤは救い主を意味する称号として用いられることになる。メシヤには当然、王としての概念がある。人々は旧約聖書の預言より、ダビデ王の家系から王なるメシヤが出現すると知っていた。「キリスト」はメシヤのギリシャ語読みで、「救い主」を意味する称号である。
第三は「神の子」(49節前半)。キリストを信じる者も「神の子」と呼ばれる個所はある。しかし、その場合、すべて複数形である。ここは単数形である。単数形は新約で45回登場しているが、一回はアダムを指し(ルカ3章38節)、残りはすべてキリストを指している。だから、この単数形の「神の子」は、キリストの特別な呼び名である。そして、これはダビデに与えられたメシヤ預言と関係がある。第二サムエル7章12~16節をご覧ください。14節で、神さまのことばとして、「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」とある。やがて出現する王なるメシヤは神の子なのである。それがイエス・キリストなのである。
第四は「イスラエルの王」(49節前半)。先ほども述べたように、メシヤには王の概念がある。イスラエルの王はメシヤの別称である。ただ、当時のイスラエル人たちは、メシヤが君臨する王国の性質を勘違いしていた。それは血なまぐさいと言おうか、人間臭いと言おうか、政治的な王国だった。キリストは裁判の席上でローマ総督ポンテオ・ピラトにこう宣言したことがある。「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18章36節)。キリストの国は神的性質を帯びた平和の国なのである。神の国なのである。その国は滅びることのない永遠の御国なのである。
第五は「人の子」である(51節)。「人の子」もメシヤの別称である。ダニエル書7章には、世の終わりに出現するメシヤについて、次のような有名な預言がある。「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国とが与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎることなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7章13,14節)。これは終末時代のメシヤの出現、特にキリストの再臨を暗示しているわけである。終末の時代に出現するメシヤは「人の子」と呼ばれている。この人の子という用語が新約聖書でどのように用いられているかを見ると、神なるメシヤが「まことの人」として民を救うという側面が強く意識されているようである。キリストはまことの人として十字架の苦しみを味わうことによって救いを達成しようとされた。
このように、「来て、そして、見なさい」と、私たちが目を注ぐべき救い主は、様々な呼称で呼ばれるお方であり、それぞれの呼び名によって救い主の性格が浮き彫りにされている。
では51節を見て終わろう。「そして言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます』」。まことに不可思議な描写であるが、しかし、イスラエル人であれば、この描写にヤコブの見た幻を思い起こすはずである。創世記28章10~12節を開いてみよう。これはヤコブがベテルで見た有名な幻の描写である。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」(12節)。この幻の大切なポイントは天と地を結ぶはしごが立てられているということ。しかも、天から地に向かって立てられているということである。キリストも同じような光景を描写したが、キリストの描写にははしごはなかった。なぜなら、キリストが天と地を結ぶはしごであり、天から地に向けて来られたはしごだからである。キリストはまことの神でありながらまことの人として天から下られ、「人の子」となられた。キリストは天と地を結ぶ救い主である。そして、天と地を結ぶはしごの夢を見たのが「ヤコブ」とされていることにポイントがある。ヤコブはイスラエルの父祖で、イスラエルと改名されることになる人物である。キリストはイスラエルの王、新しいヤコブ⁄新しいイスラエルである。真のイスラエルなのである。後に学ぶヨハネ4章12節で、サマリヤの女が「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか」と質問しているが、キリストこそ真のヤコブ、真のイスラエルなのである。創世記28章17節も読んでみよう。「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ』」。「神の家」と言われているが、キリストはご自身のことを神の宮と呼んでいる(ヨハネ2章19節)。そして「天の門だ」とあるが、キリストは「わたしは門です」(ヨハネ10章7節)と宣言されている。ヤコブの夢はキリストにおいて完成を見るのである。キリストは真のヤコブであり、地に向けて立てられたはしごであり、神の家であり、天の門であり、真のメシヤなのである。キリストは、注意深く聞く者にはわかるようにと、ご自身こそ真のメシヤであることを、ヤコブの見た幻を使って教えたのである。
ある人たちはヨハネ1章51節で、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたがいまに見ます」と言われているにもかかわらず、キリストの上を神の御使いたちが上り下りする場面が聖書のどこにもないことから、いったいいつのことを指しているのかと、そこに関心がいってしまうのだが、御使いとはキリストに仕える存在であり、御使いはキリストの生涯の各場面で、降誕、ゲッセマネの園、復活、昇天の場面などで登場しており、ここではそうした御使いの存在が一まとめで描かれているのだろう。肝心なことは、キリストが天と地を結ぶはしごとなられたということである。キリストが天と地を結ぶ道となられたと言ってもよい。天と地を結ぶ存在として、まことの神が天から下り、まことの人となられた。そして十字架の上で私たち人間の罪を負ってくださった。そして、私たちの先駆けとしてよみがえり、天に昇ってくださった。私たち罪人はただキリストを通してだけ天に救い入れられる。
今日は、「来て、そして、見なさい」というタイトルで学んだ。私たちもバプテスマのヨハネや弟子たちにならって、良き証人になろう。キリストとの出会いを果たした人々は、このお方こそ、私たちが求めていた救い主だと、一様に解決をみたわけである。同じように、多くの人がキリストとの出会いを果たし、このお方を知ることができて良かったとなってほしい。だからこそ、私たちもキリストを証していきたい。キリスト以外に救い主はいないのである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4章12節)。