本日より、ヨハネの福音書の購解メッセージを始める。この福音書を講解する一番の目的は神の愛を知るということに置きたいと思っている。そして、できるだけ丁寧に解き明かしたいと願っている。この福音書の著者は十二使徒のヨハネというのが定説である。使徒ヨハネの弟子のポリュカルポスを覚えている二世紀の教父エイレナイオスは「主の弟子で、主の腕に寄りかかりさえしたヨハネも、アジアのエペソに滞在したとき、福音書を著した」(エイレナイオス「異端反駁」)と語っている。エイレナイオスは、ヨハネのエペソ滞在はトラヤヌス帝の時代とも語っているが、トラヤヌス帝は98年に皇帝の座に着いたので、執筆は98年以降と推察される。四福音書の中では執筆年代としては一番最後となる。ペテロの三代目の後継者と言われるローマのクレメンスは、「最後に、物理的ないろいろな事実はすでに諸福音書に記録されていることを知って、ヨハネは弟子たちに励まされ、御霊に強く動かされて、霊的な福音書を書いた」(エウセビオス「教会史」)と語っている。ヨハネはマタイ、マルコ、ルカの、一般的に共観福音書と言われる福音書には書かれていない事柄を意識し、またそれまでの福音書とは異なる視点で書くことに努めたと思われる。それは読めばわかる。そして焦点を、キリストが神であり救い主であることにおいていることがわかる。それは、この福音書の冒頭の記述を見てもわかる。そして全体的に、神の愛ということが伝わってくる。これも大きな特徴である。
ヨハネはキリストを「ことば」として紹介している。「ことば」というとき、現代人は話ことば、書きことば程度の認識しか持たない。けれども古代人は違った。古代人にとってことばは実体をもつものである。存在という重みをもつ。「ことば」と訳されていることばは<ロゴス>。ロゴスはユダヤ人にとってもギリシャ人にとっても創造の始まりに関して用いられていた重要なことばであった。ギリシャ哲学にとって、ロゴスは「世界の本質、世界創造の原理」とみなされていた。けれども、ロゴスに明確な人格を認めていたわけではないし、すべてのものに先立つ存在として捉えていたわけでもなかった。ユダヤ思想ではロゴスを「知恵」と結びつけていたようである。神の創造のみわざは、ことば・知恵によって行われるという思想があった。外典のソロモンの知恵にはこうある。「先祖たちの神、あわれみ深い主よ、あなたはことばによってすべてを造り、知恵によって人を形づくられました」(9章1,2節)。箴言8章では知恵が擬人化されていて、「わたしは神のかたわらで、これを組み立てるものであった」(8章30節)と、知恵が創造のみわざに携わったことが記されている。ロゴスは「人格を持つ知恵者」である。
ヨハネはさらにロゴスの明確な輪郭を与えている。まず、ロゴスについて三つのことを見てみよう。第一に、ロゴスの先在(万物よりも先に存在)。「初めに、ことばがあった」(1節a)。私は青年時代、宇宙が誕生する以前に何が存在していたのだろうと思いめぐらしていたことがある。聖書は、宇宙が誕生する以前の永遠の昔から、ことばがあったと証している。それは物質でも単にエネルギーでもない。それは知的な存在なのだということが「ことば」という表現に読み取れる。
第二に、ロゴスの神性(神である)。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1節b,c)。永遠の昔にことばなる神が存在しておられた。エイレナイオスは言う。「彼(神)は造られざるもの、初めもなく、終わりもないもの。欠けるところがなく、自己充足的で(他に頼る必要が全くない)、さらに、ほかのすべてのものに存在を与えている」(「異端反駁」)。「すべてのものの起源は神である」(「使徒たちの使信の説明」)。神が最初の存在なのである。
さて、注目していただきたいことは、「ことばは神とともにあった」「ことばは神であった」と、最初で言われている神と、次に言われている神が区別されているということである。「ことばは神であった」と言われる神は14節の「ことばは人となって・・・」という記述から、このことばなる神はイエス・キリストのことであると、誰でも分かるわけである。けれども、エホバの証人は、イエス・キリストが神であることを認めない。なぜなのか。神は唯一で、絶対者で、二人存在するわけはないだろうという理論が一つある。確かに聖書は神は唯一であると教えている。しかしまた聖書では、神は三位一体であると教えている。これを認めないのが異端の一つの特徴である。神は一人であるが、父、御子、御霊という三つに区別される存在がある。三つだが一つ、一つだが三つ。三位一体を認めない彼らは、文法的な誤りを犯す。「ことばは神とともにあった」の「神」には原文では冠詞(The)がついている。続く「ことばは神であった」の「神」には冠詞(The)がついていない。ここから、冠詞がついていないことばなるキリストは、「ことばは神の性質を備えていた」、「一つの神であった」、「神のように強力な者であった」と、神そのものであることを否定してしまうのである。冠詞のあるなしで神であることを否定することは愚かなことで、例えば、ヨハネ文書全体を見れば、父なる神に冠詞が付せられていない個所が23カ所もある。ヨハネ1章1節の原文で伝えたいことは、父なる神と子なる神に区別を与え、しかもことばなる神である御子イエス・キリストの、神としての性質を強調することにある。「ことばは神とともにあった。ことばはこの神と等しい神性をもつ神であった」(内田和彦師 詳訳)。
私は大学一年の時、信仰をもった当初、イエス・キリストが絶対者である、神である、という確信が揺らいでいた時期があった。ほんとうにキリストは神そのものなのだろうか。この不安を払拭したのが、このヨハネ1章1節であった。「初めに、ことばがあった」。「宇宙が存在する以前から、永遠の昔からキリストは存在していたのだ。キリストは初めの初めにおられた神なのだ。このお方こそ、まことの神なのだ!」私はヨハネ1章1節の真理に目が開かれた時、アパートで飛び上がって喜んだことを覚えている。
第三に、ロゴスの創造。「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(2,3節)。創世記では神のことばによってすべてのものが創造されていく様を描いている。被造物の一つひとつが創造されていく場面を描いている。「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」(創世記1章1節)。このようにして、「神は仰せられた・・・仰せられた」と繰り返され、世界は創造されていく。ヨハネは、キリストはことばご自身であると語っている。ことばなるキリストがこの世界を創造された。はじめにあったのは、物質でもない、エネルギーでもない。エネルギーが物質となり、コンピューターのような情報処理システムをもつ生命が偶然に誕生し、その生命が奇跡的な偶然の連続で、見たり、聞いたり、歩いたり、泳いだり、飛んだりと高度化し、そして、偶然の自然選択が続いた結果、高度な完成体である人間が偶然にできたとは聖書は言わない。驚く知性をもつデザイナー、驚く力をもつ技術者がはじめにおられたからこそ、この世界は存在し、私たちが存在するのだと主張している。はじめに存在しておられたのはことばなるキリスト、全知全能の神である。ケーキの材料を買ってきたからといって、偶然にケーキはできないだろう。自動車の部品が全部そろっているからといって、偶然に自動車はできないだろう。考える人、作る人がいなければできない。その材料、部品さえも偶然にできないだろう。生命は水を除けば大部分はタンパク質でできており、生命の主な材料・部品はタンパク質と言えるわけだが、そのタンパク質さえ作るのは困難。生命には最低300種類のタンパク質が必要とされているが、そのタンパク質一個さえ、原子地球を想定した実験では作れていない。フレッド・ホイルは、生命が偶然に誕生する確率は、ガラクタ置き場に竜巻が来て、ジャンボジェット機がこつぜんと姿を現す確率と同じだと言ったが、実際はそれより低いらしい。はじめにあったのは神というのが非科学的な宗教というのなら、はじめにあったのは物質で、あとは偶然を謳うしかない唯物論は、世界の成り立ちをうまく説明できない非合理的な宗教だと言える。
ヨハネは、キリストは万物よりも先に存在しておられたこと、はじめからおられた神であること、全知全能の創造主であることを伝えた。ヨハネは実にインパクトのある表現で、キリストを福音書にデビューさせている。そして、その先がある。
この福音書の執筆のねらいは、ただ単に、キリストが永遠の昔からおられたロゴス、創造主なる神であることを教えるためだけにあるのではない。その先がある。それは、この福音書を読んだ人々がキリストを信じていのちを得るためにある。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じていのちを得るためである」(ヨハネ20章30節)。この「いのち」が意識され、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(4節)と続く。以前、「神との交わりはいのちであり・・・神からの分離が死です」というエイレナイオスのことばを紹介させていただいた。神はいのちそのもの。このいのちは永遠のいのちである。罪によって神との交わりが絶たれている人類は、切り花のような存在にすぎない。生きているようで、ほんとうに生きているのではない。ほんとうのいのちが必要である。ヨハネは、キリストがそのいのちなのだと言う。またヨハネは、このいのちを「人の光」として表現している。電線が切れれば、電球の光は消えるように、神との交わりが絶たれていれば、いのちの光は灯らない。そうであるなら、闇に支配されるだけである。
預言書イザヤ書9章6節には有名なメシヤ預言がある。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」。そのメシヤをイザヤ9章2節は「光」と描写している。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」。このイザヤ9章の手前の8章は、次の一文で終わっている。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者」(22節)。これらのやみと暗黒は、神に背く罪に起因するものとして描写されている。罪に起因する無知、悪、混乱、苦悩、死、災いといった、やみに属する一切のものが地上の人々に襲いかかり、覆い尽くしている。だから、「人の光」が待たれていた。
しかし、現実に、この「人の光」を切に待ち望む人はいつの時代でも少ない。キリストの時代であっても、人々が切に望んでいたのは、パンであり、水であり、政治的自由であり、金であった。現代はそれに加え、人工の光が夜昼関係なく、ところ狭しと灯っているので、勘違いして、やみでおおわれているという認識が鈍ってしまっている。だが人工の光は現実にある霊的やみを消すことはできない。霊的やみを消す光はキリストだけである。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)。これはいつの時のことを指すのだろうか。様々な説があるが、少なくとも、キリストが地上に出現した以降の時代が入ることは確かだと思う。次のように説明する人もいる。「この方こそメシヤだと紹介されてイエス・キリストが登場いたしましても、この方もまた十字架の上に抹殺されてしまいました。その時、日は暗くなり三時に及ぶほどの暗黒が全地を覆いましたが、しかしその闇の中から、イエスは三日目に甦えり給うて、今『輝いている』」(榊原康夫師)。このように「輝いている」をキリストの復活と強く結びつける説明もあるが、「光はやみの中に輝いている」という事実は、復活以前にも当てはまることであると思う。キリストはユダヤ教当局に捕縛される前に、「わたしは、世の光です」と明言された(8章12節)。その時、すでに光はやみの中に輝いていた。キリストという存在は光そのもの。そしてこのキリストの光は今も輝き続けている。
光の特徴はやみに打ち勝つということにある。「やみはこれに打ち勝たなかった」。光とやみを拮抗する力関係にあるとする宗教があるがそれは正しくない。また、光と闇の性質の違いをあいまいにし、闇も必要だという教えも正しくない。日本人になじみのあるものに「陰陽道」がある。陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いの存在によって己が成り立つという思想。陽が善であって、陰が悪であるとは捉えない。両方が必要だとする思想。これは光とやみという相容れない関係をぼかし、やみを許容する思想。しかし真理は、光とやみは全く違う性質であり、やみを許容することはできないということ。そしてやみは光によって征服されなければならない。キリストはそのために来られた。そしてキリストを信じる者はやみの中を歩むことがないのである。