前回は6,7節より、神さまに対する態度を学んだ。へりくだること、思い煩いをゆだねること。そして今日最初に見る8,9節は、悪魔への態度が言われている。悪魔に対しては、へりくだることもゆだねることも言われていないし、従うことや信頼することも言われていない。
私たちはなぜ悪魔を意識しなければならないのだろうか。この点において、私たちは,古代・中世の一般的な世界観で悪魔について考えてはならない。昔の人はなんでも霊と結びつける世界観をもっていた。自然界の災いも霊のせいにした。病気も霊のせいにした。中世は魔女をたくさん作り上げ、自分の家の不幸は隣の家の女性が実は魔女で、彼女が災いをもたらしたのだとか、疑いをかけたりした。天災人災のすべてを悪魔、悪霊と結びつけるようなことを聖書はしているのではない。そんな世界観に立ってしまったら、それこそ悪魔の思う壺である。
また、現代は、振り子が逆に振れてしまっているところがあり、悪魔なんかいない、神がいるだけだ、霊的なものはすべて神から来ていると、すべてに神の性質を見る傾向にあり、そこに悪魔は身を隠してしまっている。そして悪魔は、神のひとり、神々のひとりとしてふるまい、人間を欺いている。霊的見分けが必要である。
ペテロは今日ここで意識している悪魔の働きとは、私たちの信仰を打ち倒そうとする働きである。悪魔はひとりでも多くの人に神さまを信じてほしくないし、信じているという人の信仰もあわよくば無くしてしまいたいし、無くせなくとも、少しでもダメージを与えたい。そのためには、例えると、甘い砂糖のようなもので誘惑し、眠りにつかせるような手段も取れば、唐辛子のような辛いもので、ぶっ倒そうともする。悪魔の策略の数はコンビニにある商品の種類ほど豊富にある。
ペテロは8節の後半で、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と、過激とも思える表現を採っている。「あなたがたの敵である悪魔が、草陰にひそむ蛇のように、獲物を狙っています」ではない。「ほえたける獅子」と、どう猛さを前面に出している。この表現の背景には迫害があることは明らかである。それは9節後半の「苦しみ」という表現からも明白である。ペテロの手紙第一が執筆されたのはネロ皇帝の治世の時だと言われている(62~66年)。ネロによる迫害は64年のローマの大火に続いて起こった。ローマに大火が起こった時、こんな噂が出回った。「ネロ帝が新しく都を立て直し、それに自らの名前をつけようとして、ローマを焼いたのだ」。ネロ皇帝が大火の首謀者だというもの。その真偽はわからないが、このように噂されるくらい、ネロは評判の悪い皇帝だった。ネロは放火の噂をもみ消すために、キリスト教徒たちを放火犯にでっち上げた。この頃、キリスト教徒たちは厳しい禁止政策にもかかわらず、その人数は勢いよく増えるばかりだったので、ネロはこの火災を口実に徹底的にキリスト教徒を弾圧しようと目論んだ。ペテロもパウロもネロ皇帝の治世下で殉教することになるが、ネロがローマ皇帝の中でナンバーワンの残虐皇帝とされたのは、ネロが想像を絶する残酷さでキリスト教徒たちを死に追いやったからである。闘技場で野獣の餌とされた者たちもいれば、体にタールを塗られ、人間松明にされた者たちもいた。やがてネロの暴君ぶりに誰もついていけなくなり、クーデターが起こって、享年たった30歳で世を去ることになるが、このネロの時代が、キリスト教徒にとっては大きな試みの時代であった。背後には悪魔の働きがあった。そして野獣のようにキリスト教徒たちを襲った。
では次に、悪魔に対する態度を二つに分けて見ていこう。第一は、身を慎み、目を覚ましていること(8節前半)。「身を慎む」に関しては1章13節で学んだ。「身を慎む」は「酔っぱらってはならぬ」という意味がもともとあることをお伝えした。もっと積極的表現をとると「しらふでいる」ということになろう。正常な判断が下せないスキだらけの心の状態でいないために、セルフコントロールを効かせるわけである。それは次の「目を覚ましている」ことにつながる。これは「寝ずの番をする」「警戒する」といった意味がある。兵士たちの役割を考えていただければいい。兵士たちは寝ずの番をして見張りをすることがあった。敵を警戒して。私たちは悪魔という敵に対して、このような警戒心が求められているということである。ぼーっとして油断していたら、神さまに叱られることになる。原語で「目を覚ます」は<グレーゴレオー>。このことばから「グレゴリオス」ということばが生まれ、また人の名前で、ラテン名で「グレゴリオ」、英語で「グレゴリー」という名前が生まれた。「目を覚ます」という意味があったのである。疲れている時はぼーっとすることも必要であるし、寝ることも大切だが、攻撃が激しい時、敵に対してぼーっとしていることは厳禁である。ペテロはこの過ちをかつて犯した。ゲッセマネの園でキリストはペテロたちに対して、「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい」と命じられた(マタイ26章41節)。けれども、ご存じのように、そうしていることができず、彼らは眠ってしまい、悪魔の誘惑に陥り、特にペテロなどは、私はイエスなんていう男の弟子じゃないよと三度も否む失態を犯す。彼は悪魔のふるいにかけられて、みごと敗北してしまった。彼は自分と同じ失敗を犯してほしくないのである。
第二は、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうこと(9節前半)。「堅く信仰に立つ」ことが、今日のメッセージのタイトルでもある。これを、「よっしゃ、がんばるぞ~!」の信仰と思ったら、ペテロのようにこけることになる。ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26章33節)と気炎を吐いた。ところがその数時間後、イエスを知らないと三度否定することに。信仰とは神への信頼であるが、彼は自己信頼の過ちを犯していた。
「堅く信仰に立つ」の「堅く」とは、建物を建てるときの基礎の堅さを表す形容詞である。基礎が軟弱でぐらぐらしていたら、その建物もダメである。同じく信仰がぐらぐらしていたらまずい。ここで「堅く信仰に立つ」とは、神さまを信頼し切るということである。私たちは弱いし、無力であるし、そのことを素直に認めるならば、ペテロのように自己過信に陥らず、神にしっかりと信頼しようと思うだろう。へブル人への手紙の著者は、同じく試練にある手紙の受取人たちに対して、12章2節で「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいないさい」と、彼流の表現で、信仰に堅く立つことを求めていた。詩編の作者は、神はわが力、わが巌と、何度もそういった表明をして、信仰に堅く立とうとした。神へのゆるぎない信頼、また主イエスへのゆるぎない信頼、それが信仰に堅く立つということである。
ペテロは堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうように勧めている。攻撃の武器がなければ立ち向かえないと思うわけだが、使徒パウロは、エペソ6章で、その武器とは「みことばと祈り」であることを告げている。「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(6章17節)。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(同18節)。私たちは誘惑が強くて欲望に負けそうな時や、また人から強いパッシングを受けてヨロヨロしてしまっている時はなおさら、みことばと祈りに、意識的に向かいたいと思う。神は私たちに平安と力を与え、勝利を与えてくれるだろう。
ペテロは10節では、彼らの信仰の戦いの厳しさを思いつつ、慰めのことばを述べている。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」。慰めを感じることは二点見出せる。一つは苦しみはつかの間のことであり、受ける栄光は永遠ということである。「永遠の栄光」と「しばらくの苦しみ」が対比されている。苦しみはつらくても、その苦しみはやがての喜びを大きくすることになる。永遠の栄光が待っている。
もう一つは、苦しみは成長に役立つということである。「・・・完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」。何か、燃える炉の中に入れた金属が高熱で純化され、強度を持つのと似ている。注目したいことばは「完全にする」(新改訳2017「回復させ」)である。この原語は以前に紹介した<カタルティゾー>である。本来の姿に回復するといった意味のことばである。マルコ1章19節でその意味を説明した。そこでは「網を繕う」の「繕う」と訳されている。破れているところ、切れているところを繕って本来の姿に回復するわけである。その姿が完全である。私たちは欠けだらけの信仰者である。まだ完成途上である。神さまはその完成に向けて苦しみを用いる。私たちは、信仰、愛、忍耐、聖さなど、まだまだ足りない。欠けている。まだ神の子として本来あるべき姿に到達していない。特に、「完全にし」に続く表現を見ると、もろい私たちに、ねばり強さ、耐久力といったものが与えられ、信仰者として不動の者となるといった印象をもつ。私たちは苦難の炉に入れられることによって、もろいハガネのような私たちは強くされ、弾力をもつに至る。苦しみ、悲しみを経験する中で、追い詰められ、信仰の根底をさぐられ、きちんと信仰に立っているかどうかが試される。挫折しそうな体験の中で、本当に自分は立っているものに立っているのかと重大な真理を再発見させられることになる。そして信仰を発揮するとはどういうことなのかを学ばせられる。
苦しみそのものが何かをしてくれるということではない。神はそれらを用いて、私たちをふさわしく形づくってくださる。運動選手がコーチから訓練を受けて、筋力、持久力、完成したホーム、勝利の秘訣などを身に着けるのと同じである。だれしもが苦しみは願わない。楽な人生を送りたい。山あり谷ありはなるべく少なくしたい。でもそう望み通りにはいかない。私の周囲からあの人を除いて欲しいと願うこともあるだろう。しかしながら、不思議なことに、ダビデの人生などを見ても、神はダビデのそばに、ダビデを快く思わない者たちを「あえて」という表現を使うしかない感じで、居るのを許していることがわかる。結果、ダビデは窮地に追い詰められるようなことが起きる。ダビデはこれらのことを通して、謙遜にされ、神に信頼するということを学び、その信仰は鍛え上げられることになる。そして、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」(詩編119編67節)という告白や、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(同71節)という告白が生まれるのである。そして、すべては神への賛美につながる。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように」(11節)。
私たちは日々、生活を通しての訓練というものがある。信仰を働かせなければならない一瞬一瞬というものがある。悪しき霊的存在の働きがある。妨害が起きる。難問が立ちはだかる。私たちはそれらに堅く信仰に立って主とともに立ち向かう。どうぞ皆様お一人おひとりの信仰が絵に書いた餅とならず、信仰の勇者として、今日のみことばを日々実践されますように。