高ぶりと思い煩い、これら二つは、なかなか取れなくてしつこい。目指すは謙遜と信頼ということになる。
では、先ず、高ぶりから見ていこう。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます」。6節は「ですから」で始まっているが、5節の「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからである」という、へりくだりの教えとつながっているわけである。6節前半でもへりくだりについて教えているが、6節の特徴は「神の力強い御手の下に」という言及である。「力強い御手」という表現は旧約聖書で14回登場し、ほとんどが出エジプトを回想する場面で、指導者モーセがイスラエルの民に対して口にしている。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が<力強い御手>と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない」(申命記5章15節)。この力強い御手の働きについて聖書を読むと、ただ救いの御手ということではなく、訓練の御手、または懲らしめの御手、へりくだりを与える御手であることがわかる。この手紙は苦難の中にあるキリスト者たちを励ますために執筆されたものであるが、1章7節では「信仰の試練」と言われ、4章12節では「燃えさかる火の試練」と言われている。試練は、神による鍛錬、精錬、訓練の時である。
試練は私たちをへりくだらせることになる。それを意識して、「神の力強い御手の下にへりくだらせなさい」と諭しているのだろう。試練には、信仰を持つゆえに非難、中傷を浴びるということがあるだろう。そうした時にイラッとするが、また自分の弱さや愚かさ、罪に気づかせられる機会となる。詩編の作者のダビデはまさしくそうした所を通らせられたことがわかる。攻撃されることの苦しみを神に吐露すると同時に、苦しみの中で自らの罪を告白している。神の力強い御手の下にへりくだったのである。
試練にはまた病がある。ジョージ・ミューラーは、病はへりくだらせられる機会となると言っている。私も信仰をもって二年後あたりの20代の闘病生活の時に、気持ちはどん底に落ち、砕かれ、自分の弱さと徹底的に向き合わされ、そして「私の恵みはあなたに十分です。私の力は弱のうちに完全に現れるからです」というみことば等をいただき、立ち直ることになる。
ある人にとっては日常に起きてくるトラブルが試練となって砕かれることが起きる。思いがけないこと、望まないことが身の回りに起きる。それによって、自らがちりにも等しいことに気づかされ、また心の底に沈殿していた罪に気づかされ、きよめられ、また神の愛の偉大さを再発見する機会となる。そして、神への信頼ということを学ばせられる。へりくだる者には神の恵みが豊かに注がれる。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになる」(5節)。
だが、神の前に高ぶったままでいたらどうなるだろうか。5節で言われているように、神は高ぶる者に敵対する。神がその人の敵となる。その実例はエジプトを出で荒野を旅し約束の地に向かったイスラエルの民たちである。イザヤ63章9~10節にはこうある。「彼らが苦しむ時は、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。」と、そこまではいいが、「彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、<主は彼らの敵となり>、自ら彼らと戦われた」とある。イスラエルの歴史においても、「神は高ぶる者に敵対し」は現実だったのである。しかし、イザヤ66章2節にはこうある。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」。神はへりくだる者に御目を留めて恵みをくださる。
へりくだる者に対する恵みは第一ペテロ5章6節後半において、「神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます」と表現されている。「高くしてくださいます」とはどういうことだろうか。このみことばを理解するには、キリストの生涯を振り返ってみればよい。キリストはこれ以上の低さはないという十字架の低さにまで下りてこられた。神のあり方を捨てることはできないと考えないで、地上に降り、人の姿を取り、罪人の友となり、ののしり、あざけりを耐え忍び、極悪人とみなされ、十字架刑というその卑しさに甘んじてくださった。キリストの謙卑である。この謙卑への報いとして、ピリピ2章9節ではこう言われている。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」。キリストに最高の栄誉を与えたということでる。キリストはへりくだりの最高の模範である。そして高くされるという最高の事例である。
次に、7節より、思い煩いについて見よう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。ペテロは手紙の受取人たちが、この世の逆風を受けて、人間関係のことやら、経済のことやら、将来のことやら、とにかく思い煩いやすい環境にあることを知っていた。私たちは、思い煩ってはならないとわかっていても、思い煩いやすい。この世ではその処方箋として、自分を信じるのだと鼓舞することがある。しかし、目の前に立ちはだかっている問題の種類によっては、そんなことも言っていられない。自分ひとりでは手に負えない問題というものがある。そしてだいたい思い煩いというものは、まだ未体験の未来に属する事柄が多い。その不確実性のゆえに思い煩う。
「思い煩い」ということばは、「分ける」を意味する動詞に由来している。心がバラバラになっている様が想像できる。「どうしよう、どうなるんだろう」と、心があちらこちらに分散し、疲れてしまう。何も考えないで寝なさいよ、という処方箋もあるかもしれないが、確かにそれでいい場合もある。しかし、問題の当事者であったり、責任ある立場にある場合は、最善策は一応、考えなければならない。どうしたらいいのかと。その過程で思い煩いということが起きる。考えてみると、子ども時代より大人になった時のほうが思い煩いの種は増えるような気がする。子どもの時は、明日の発表会うまくできるかなとか、誰々ちゃんはいじわるだからどうつきあったらいいかなとか、そういったところ。子どもは、来月の生活費大丈夫かなとか、家のローンは支払えるかなとか、この職場で自分の責任は果たせるのだろうかとか、老後の生活設計はどうしようかなとか、親戚付き合いのこととか、そんなことは思い煩うどころか、ふつう考えもしない。大人になると責任は増えるし、つきあいの幅も広がる。経済や健康の不安も大きくなる。プラス信仰者としての戦いの要素が生まれる。
しかし、気づいておきたいことは、キリスト者とは幸せで、思い煩いをひとりで抱え込んでいる必要はないということ。ペテロは最高の処方箋を提示する。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」。私たちは祈りの格闘のうちに、洗いざらい神に告げ、思い煩いを神にゆだねようとするだろう。「ゆだねる」ということばの同義語については4章19節で学んだ。「お任せしなさい」。原意は「傍らに置く」ということで、これは信頼のおける友人にお金を預けるときなどに使うことばだった。5章7節の「ゆだねる」ということばは、少しニュアンスが違う。<エピリプトー>ということばだが、その意味は「投げる、投げ込む」。5章7節を直訳的に、しかも文体の意を酌んで訳すと、「あなたがたの思い煩いを、すべて、きっぱりと神のもとへ投げ込みなさい」。ここは決断的態度を求めている命令文である。いつまでも自分の手に握って離さないでいるのではなくて、ぐずぐずしていないで、迷っていないで、その握っているものを、エィ!と神の御手に投げ込んでしまうことなのである。「言うは易く行うは難し」と思われるかもしれないが、祈り、またみことばを読んで祈り、祈りの格闘のうちに、これを実践するわけである。そして余計な不安は払拭することである。実践してみよう。
7節後半では、ゆだねるときに、「神があなたがたのことを心配してくださるのです」と言われている。大変だね~と、一緒に心配してくれるだけでありがたいわけだが、ここでの「心配」とは、そういうことではない。むろん、一緒に思い煩うということでもない。「心配」と訳されていることばは、「心にかける」ということばに由来している。もっと積極的に訳すと「面倒を見る」ということである。「神があなたがたの面倒を見てくださいます」ということである。面倒を見てくださるという神さまは、どういうお方だろうか。ローマ8章32節にはこうある。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょに、すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8章32節)。神さまは、御子といっしょに、すべてのものを恵んでくださると約束している。それにまた、脱出の道を備えるという約束もある。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(第一コリント10章13節)。
私たちは、一つひとつの思い煩いを神にゆだねるということを学んでいこう。神はその勉強を私たちにさせる。その際、セットとしてしなければならないことは、へりくだるということである。なぜなら5節で学んだように、高ぶりは神の敵対を招き、恵みを遠ざけてしまうからである。へりくだりのうちに、思い煩いをゆだねるわけである。へりくだりは大切である。
最後に、このへりくだり、謙遜について、自らもハンセン病を患いながらヒマラヤ山麓のふもとでハンセン病患者に奉仕した婦人宣教師ジェニー・リードのことばを紹介して終わろう。彼女は自らのハンセン病の痛みと戦いながら、しかもふつうの人であったら逃げ出したくなるような、ヒマラヤ山麓のふもとという環境の中で、いくつもの施設を建設しながら、運営の責任を担うというハードな仕事に携わった。仕事は多岐に及び、運営管理の他に、教育、宣教、看護、相談、こうしたマルチタスクをこなしていった。想像を絶する困難に立ち向かった。苦しみは大きかった。けれども、彼女は祈りによって、神への信頼を表明し、神の恵みを体験し、不安の波に飲み込まれてしまうことから守られた。彼女は、自伝の中で、こう述べている。「どこにでも幸福を見い出すためには謙遜な心を持つことです」。名言である。これは彼女自身の実践から出たことばである。「どこにでも幸福を見い出すためには謙遜な心を持つことです」。私たちもそうありたいと思う。