聖書は、おごり、高ぶり、傲慢の罪を強く戒めている。私たちが神さまに対して傲慢になると、神さまへのおののきが無くなり、神さまを恐れなくなる。平気で罪を犯すようになる。神さまを必要としなくなる。また、人を見下し、人を事あるごとに裁くようになる。
今日の箇所では、謙遜という徳が人との関係でも言われていることがわかる。私たちは、自分の知識や経験で高ぶってしまうことがある。大学で数学を専攻した若者がある山荘でひとりの老紳士と出会った。二人で話がはずんでいく中で、老紳士はその若者にこんな質問をした。「あなたは何を勉強していますか」。「数学の過程を一応終えました」。若者が逆に質問した。「あなたは何をなさっていますか」。老紳士は答えた。「私は今、数学の勉強を始めたばかりです」。この時、その若者は、この老紳士がただ者でないことに気づいた。それで名前を尋ねると、有名な数学者であり科学者である人物だった。そのような人物が「数学の勉強を始めたばかりです」と自然に、本心として答えたのである。
また私たちは高ぶると、自分の考え、自分の行動こそが正しいと思い込む。誰でも自分は正しいと思いやすい。そして自分のことは棚に上げて、相手をわからせてやらなければとなってしまう。先ずはかたくなな自分の心から始めなければならないことを見失ってしまう。あるところに、ひざまずいて墓石を仕上げている石工がいた。彼は汗を流しながら石を削り、整え、最後に銘文を刻んだ。その様子を見ていたひとりの政治家がこう言った。「私も石のような固い人たちの心を、あなたのように柔らかく整える技術があればいいのだが。そして人々の心に、また歴史に、私の名前が刻まれればいいのだが」。すると、その石工はさらりとこう答えた。「あなたも私のようにひざまずいて仕事をすればできるでしょう」。
今日の箇所でペテロは教会の長老たちと若い人たちに命じているようである。5節で「みな互いに謙遜を身につけなさい」とあることから、両者に謙遜を求めていることがわかる。そして、結局は、キリスト者全員に謙遜を求めている文章であることがわかる。それは次回学ぶ、6節の「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」からも明白である。
では、これから、「長老たち」、「若い人たち」と順番に見て行き、最後は、まとめとして、謙遜について考えよう。
「長老たち」は1~4節までである。さて「長老たち」とは誰のことを指すのだろうか。一般には、教会のリーダーのことだろうと言われる。使徒の働きを見ると、パウロらは教会ごとに長老を任命していることがわかる。確かに長老は教会のリーダーであるということはまちがっていない。ただ5節において若い人たちと長老が対比されて描写されているのを見れば、やはり、年齢も無視できないことがわかる。「長老」は原語では「年老いた人」「年配者」と訳せることばである。
この「長老」という呼び名は、実は旧約聖書から引き継いでいる。イスラエルが12部族に分かれ、部族制度をとっていた時、家族の長、氏族の長、部族の長がいた。この「長」は一般に年齢の高い人が務めていたので、「長老」という呼び名はいつしか、リーダー格の人物を指す用語となったというわけである。イスラエルが王政を敷いても、長老たちがいて、王の顧問などを務めていた。そして新約聖書の時代になると、使徒たちによって任命された人々が長老として教会に仕えるようになった。長老たちは牧会の働きをしていたが、財務、総務といった責任も担っていた。ペテロは今日の箇所で長老と言われる人たちの役職のことを意識しているだけでなく、彼らの年齢も意識しているようである。この二つは切り離せないと思う。長老たちは若い人たちに比べ、経験も知識も積んでいる。そこから高ぶりということも生まれよう。
ペテロは長老たちに勧めるにあたり、自分を三つの呼び名で紹介しているが、そのうちのひとつが「同じく長老のひとり」である(1節)。ペテロはご存じのように長老ではなく、長老を任命する立場にある使徒という最高権威者。けれども、ペテロは彼らのところに降りて行って、励まそうとしていることがわかる。
長老たちの働きは2節前半にあるように、「神の羊の群れを牧する」ことであった。ここで分かるように、教会という群れのトップのリーダーは神ご自身である。キリストご自身とも言える。なぜならば、キリストは4節において「大牧者」と言われているからである。では、長老たちはと言うと「小牧者」となるわけである。小牧者は神と教会に仕える立場である。その仕える精神が、2節後半、3節で言われている。3節では、群れの暴君になるのではなく、ゆだねられている人々の模範となるように言われておる。これは謙遜のなせるわざである。先に救われた人は後から救われてくる人たちの模範とならなければならないというのも真実である。
「神の羊の群れを、牧しなさい」(2節)の「牧する」ということばは、「監督者として仕える」ということばである。監督に関して、こんな逸話がある。アメリカの初代大統領ワシントンに関する逸話である。ワシントンがある場所を視察中、男たちが材木を運ぶことができず四苦八苦していた。そばにいた現監督はただ見ているだけであった。大統領は上着を脱いで手を貸した。そして現場監督に聞いた。「あなたはなぜ手助けをしないのですか」。目の前にいるのは大統領であろうとは夢にも思わない監督は言った。「私は監督が仕事ですよ」。そのことばを聞いたワシントンは名刺を差し出してこう言った。「そうですか。それでは次にまたこんなことがあった場合は私を呼んでください」。名刺を見た現場監督は返すことばがなかったそうである。長老級の人たちは、仕えるしもべとしてのリーダーシップを発揮しなければならない。
続いて5節前半の「若い人たち」を見よう。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい」。若い人たちは長老たちにつっかかりやすかったのだろう。若い人たちは口が達者で年上の人たちに対して生意気になってしまいやすい弱さは昔から変わっていない。彼らは年上の人たちに対して、尊敬の念を込めた服従の態度に欠けやすい。
ところで、「若い人たち」と「長老たち」の境は何歳くらいだろうか。つまり「ヤング」と「オールド」の境である。その中間があるのではと思われるかもしれないが、古代は年齢層を区分するのに、このように大雑把に二つに区分することが多かった。実は「若い人たち」と呼ばれるのは40歳くらいの人までと言われる。そして当時、教会のリーダーシップは、だいたい40歳以上の人たちにゆだねられていた。もちろん、神の召しによって例外もある。現代は長寿の時代になってきているので、若い人たちを50ないし60歳までとしてもいいかもしれない。
いずれ世代間にギャップは必ずある。物の見方、考え方、好みなど。10歳違えばかなり違うし、5歳違うだけでも、ギャップが生まれる。時代のスピード感がある現代はなおさらである。お互いに、お年寄り文化から若者文化まで幅広く理解しようという努力は必要だと思う。若い人たちは、明治、大正、昭和の時代のことを学ぶとか、若くない人たちは、若者文化に触れる努力をするとかしたらいいと思う。それでも、オールドは古いものは良い、ヤングは新しいものが良い、とかみ合わなくなることは避けられない。それぞれの基準でぶつかってしまう。そうした時に互いに知恵と忍耐が必要なのだが、ペテロは何はさておき一番大事な事と思われる謙遜という徳を挙げる。
教会は形成されていく中で、年齢の幅は当然広がっていく。若い人たちは能力はあっても御しにくい荒馬のようなところがある。それが長所であり欠点でもある。反抗的になって秩序を乱すことも考えられる。若い人たちは冷静になって謙遜を身に着けなければならない。目上の人を敬うということを心がけなければならない。そのことで神を敬うということがテストされている。
最後に、5節後半より、謙遜はすべてのキリスト者に求められていることを覚えよう。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからである」は箴言3章24節の引用である。旧約時代、へりくだりを表す行為があった。それは「ちり」の中に座るという行為である。詩編には、「私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています」(詩篇44章25節)というみことばもある。「ちり」とは、無価値で卑しいものを表すのに用いられた。「ちり」で思い出させられるのが、「神である主は、土地のちりで人を形造り」という創世記2章7節のみことばである。人間が土地のちりで造られたという事実そのものが、私たちに謙遜を呼びかけているように思える。私たちはちりに等しい者たちである。それに対して、神はこの大宇宙を造られた偉大なお方である。にもかかわらず、神はちりに等しく、そして罪深い私たちを救うために、御子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださった。御子イエスは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れでありながら、奴隷や極悪人を処刑する十字架につくことをよしとしてくださった。この地上で生きられた人物の中で、キリスト以上に謙遜な人物はいないだろう。キリストの謙卑である。実は、十字架刑前にも、キリストの謙遜さは弟子たちの前で表わされていた。そのことを話す前に、「みな互いに、謙遜さを身につけなさい」の「身に着ける」ということばを説明しておこう。「身に着ける」の語源となることばは、結び目のある衣服のことで、衣の端を引き伸ばし、奴隷の前掛けとして使われるものもそうであった。キリストがこのような前掛けのようなものを身に着ける時があった。最後の晩餐の時、キリストは手ぬぐいを取って腰にまとわれた。そして水を取って弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13章4,5節)。この姿勢は奴隷が取る姿勢だった。「謙遜」ということば自体、「奴隷的な心の態度で」を意味することばとして使用されていた。これは最高に自分を低くして仕える姿勢をもつことである。キリストがこの姿勢をもたれた。そして先ほど見たように、キリストは奴隷を死刑に処する十字架刑に服することをよしとされた。私たち滅ぶべき罪人の身代わりとして。このキリストが謙遜の最高の模範である。罪人に仕えられたキリスト。そして罪人のために命を投げ出されたキリスト。私たちはキリストを模範として、互いに謙遜を身に着け、互いに仕え合おう。