今日のタイトルは「キリストの苦しみにあずかる」だが、私たちは「キリストの苦しみにあずかる」ことを考える前に、キリストの苦しみに思いを浸したいと思う。キリストは誹謗中傷を浴び、捕縛され、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を運び、釘打たれ、犯罪人たちとともに十字架についた。カルバリの丘で体験した十字架刑の苦しみは言語に絶するものがあった。単に肉体の苦しみが凄惨極まるものであったというだけではない。人類の罪を背負い、神の御怒りの裁きを受けるその霊の苦しみは、計り知れないストレスと恐怖を伴うものであっただろう。その苦しみは私たちのためであった。私たちはこの事実に無関心を装うことはできない。そして、また、キリストはご自身のからだなる教会を通して、今も苦しんでおられる。キリストと私たちは一心同体の関係とされている。キリストは今も私たちと苦しみをともにしようとされている。それならば、ということである。
12節には「燃え盛る火の試練」ということばがある。これは一般的な意味での試練ではなく、キリストを信じているゆえの試練、苦しみのことである。ここで、この火の試練を、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と言われている。原文の語順は、「愛する者たち。驚き怪しむな」(新改訳2017「不審に思ってはならない」)。強調は「驚き怪しむな」である。ペテロの手紙は小アジアのクリスチャンたちに向けて執筆されたが、この地方には最近信仰をもった者たちも大勢いただろう。つまり、迫害の未経験者たちもけっこういたと思われる。ペテロはこうした人たちが、キリストのための苦しみを特別なものとして捉えないようにと願った。
では「苦しみ」ということをキーワードに五つのことを見ていこう。
第一に、キリストの苦しみにあずかれることを喜ぶ(13節前半)。キリストのための苦しみを当たり前と思うにとどまらず、喜ぶということである。新改訳2017は「キリストの苦しみにあずかれるのですから」を、「キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう」と訳している。新改訳第三版では、「苦しみにあずかれるのですから」と、苦しみを喜びの「理由」として訳しているが、新改訳2017のように、「苦しみにあずかればあずかるほど、いっそう」と、苦しみの程度も増せば喜びの程度も増すというように、「程度」を意識して訳したほうが良い。原文では、「程度に応じて」を意味する<カソ>ということばが使用されている。ふつうは、苦しみが増えたら悲しみが増す、だろう。けれどもペテロは、苦しみが増えたら喜びはいっそう増すと言っている。実際、そのように喜べと命令している。罪を犯しての苦しみであれば悲しむしかないが、キリストの苦しみにあずかることはキリストと一つであることの証であるゆえに喜べる。
キリストの苦しみにあずかることは、主の再臨の時に最大の喜びをもたらす(13節後半)。「キリストの栄光が現れる」はキリストの王としての再臨を指している。その時、「喜びおどる者となる」という言い回しは、原語で「喜びおどりながら喜ぶ」という表現。最大級の喜びである。飛び跳ねて喜ぶ。新改訳2017は「歓喜にあふれて喜ぶためです」と訳しているが、いずれ、最大級の喜びを表す表現となっていることを知っていただきたい。なぜそれほど喜ぶのかというのならば、キリストの再臨の時、キリスト者は苦しみを後にするというだけではなく、キリストの栄光を分け与えられるからである。信仰のレースの後の栄冠である。
第二に、キリストの名のために苦しむ者の上に栄光の御霊がとどまる(14節)。皆さんはシェキナーということばを聞いたことがあるだろうか。旧約時代、栄光の霊は幕屋の上にあった。それをユダヤ人はシェキナーと呼んだ。「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト40章34節、他)。それは神の豊かな臨在を意味していた。ペテロはシェキナーがののしられているキリスト者の上にとどまっていると言う。これは大きな励ましである。
第三に、悪を行って苦しみを招いてはならない(15節)。これはキリストの名のために苦しみを受けることとの対極になる。これは避けたい。最初の「人殺し、盗人、悪を行う者」は説明抜きでやっていけないとわかる。ちょっと考えてしまうのが「みだりに他人に干渉する者」である。この原語は新約聖書のどこにも出て来ず、ここだけで、しかも、他のギリシャ語文書の中にも出てこない。よってペテロが造り出した造語であると思われている。「他人に属する」という単語と「監督する」という単語の複合語である。「他人に属するものを監督する」ということで、他人の私事や、他人の家庭に余計な口ばしを突っ込んで、他人の事まで牛耳ろうとする行き過ぎたおせっかい焼きが戒められているのだろう。他人の私事に過度に首を突っ込んで、過干渉となり、よけいな批判や誤った仲裁をして、他人を傷つけ、怒らせてしまうことが考えられる。結果として恨みを買い、苦しみを招く。この過干渉は仲間の信者に対するものであると採る人と、反対に異教徒に対するものであると採る人がいるが、どちらにしろ、みだりに他人に干渉することがあってはならない。ペテロは実際に、そういったキリスト者を知っていた可能性もある。
第四に、キリスト者としての苦しみを恥とせず、むしろ神をあがめる(16節)。「キリスト者」の原語は<クリスティアノス>というが、それを「キリスト者」または「クリスチャン」と訳しているわけである。<クリスティアノス>の意味は「キリストにつく者」といった意味である。これは自分たちでつけた呼び名ではなく、この世の人たちから付けられたあだ名である。当初は、決して良い意味で付けられたのではない。馬鹿にして付けられたあだ名である。けれどもキリストを恥とはせず、である。キリストは恥に関してこう言われた。「もし、だれでも、わたしとわたしのことばを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るようなときには、そのような人のことを恥とします」(ルカ9章26節)。結局は、キリストとキリストのことばを恥と思うか、いや、いつもキリストと神をあがめる精神でいるか、そういうことが問われるのだと思う。「御名があがめられますように」という精神は、心の支柱である。心の習性はいつも神をあがめること、キリストをあがめることでありたい。職場でも、誰の家に行っても、冠婚葬祭の場でも、そしてキリスト者として苦しむことがあっても。神をあがめる精神、神を敬う精神がいかに大切かは、17~18節で語られている。
17節は「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ている」で始まっている。「神の家」とは神殿であり、それは私たち「教会」のことである。では、ここでの「さばき」とは何だろうか。ここでは文脈上、12節の「火の試練」であると思われる。試練は私たちの信仰を練り清め、純化し、成長させる役目を果たすが、キリストの御名を恥じたりすることにもなりかねない。この時、迫害が本格化しようとしていたが、この迫りくる火の試練を意識して、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです」と言われている。火の試練は信仰のテストになる。キリスト者でさえ、このような厳しいところを通らせられ、そして、かろうじて救われるというのなら、神を敬わない人たちの結末は、どれほど大きな苦しみが待っているのか、とペテロは言う。ペテロが18節で「義人がかろうじて救われるとしたら」(新改訳2017「正しい人」)と言った時、洪水から救われたノアや、ソドムとゴモラの火のさばきから救い出されたロトのことが念頭にあったのかもしれない。実際ペテロは、第二の手紙2章で、ノアとロトに言及し、「義人」という表現を使っている。「義人」と対照的な「罪人」ということばにも触れておこう。このことばは原語で「的外れの人」という意味で、神と神のことばを人生の的にしていない人のことである。生きる目標として、その先に神はない人のことを言う。彼らの行き着く先は永遠の苦しみとなる。ペテロは、こうした人たちにならうことなく神をあがめ、神を恐れて生きるのだよ、というメッセージを込めている。
第五に、苦しんでいる人は、善を行うにあたって、自分のたましいを神にゆだねる(19節)。15節で悪を行ってはならないことが言われていたが、キリスト者は当然、善を行う。けれども覚えておかなければならないことは、善を行っていても苦しみには会うということ。「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は」と言われている。その苦しみは、神のご支配、目的の外側で起きていることではない。だから、すべきことは、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」である。「任せる」ということばは「ゆだねる」とも訳されていて、キリストの十字架上のことばにも登場する。どこだろうか?十字架上の最後のことば、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)である。クリスチャンもよく「ゆだねる」ということばを使う。原語<パラティセーミー>は「傍らに」という単語と「置く」という単語の複合語である。「傍らに置く」ということから、このことばは「預ける」「委託する」といった意味のことばとして使われてきた。一例として、このことばは信頼のおける友人にお金を預けるという場合に用いられた。古代には銀行はない。よって土を掘って埋めて保管するか、誰かに預けるしかない。所要で旅に出かけなければならない場合、安全に保管してくれる友人にお金を預けたのである。こうした預けるという信頼は人生の中で最も崇高なもののひとつとして考えられていたし、預けられた友人は名誉にかけて、お金をもとのまま返すのが絶対的な義務であった。預けるという行為は、信頼関係の中で成り立つものである。神は信頼できないお方だろうか。信頼できるお方であるからこそ、「真実」と言われているのである。だからこそ、ゆだねることができるのである。その途中でハプニングがあるかもしれない。苦しみが消えるという簡単なことにはならない。ストレスがかかることが起きる。でも、何があっても信頼するのをやめたとはならず、神にゆだねる姿勢を保ち、善を行い続けるのである。私たちは、いったいなぜこんなことが起きているんだろう、これからどうなるんだろうと、状況判断できないことがある。しかし、とにかく真実な神にゆだねることをやめないことなのである。
今日のテーマは「キリストの苦しみにあずかる」であるが、最後に、クレネ人シモンの記事を通して、このことについて今一度考えたいと思う。ルカ23章26節をご覧ください。「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた」。十字架につく囚人は、自分がかけられる材木を背負って刑場まで行くことになっていた。キリストは最初、それを担いでいた。けれども刑場まで運ぶ体力は無くなっていた。ゲッセマネの園で血の雫のような汗を流しながらの渾身の祈りをささげられた後、夜に捕縛、そして一晩寝せられることなく、あちらの審問、こちらの審問と計5回引きずり回され、十字架刑確定の後は、これで死んでしまう者もいたという鞭打ちの刑。時は過越しの祭りというユダヤ教最大の祭りの期間。全世界から巡礼者たちが集まってきていた。
シモンは北アフリカ地中海沿岸にあるクレネから来ていた。実はクレネは以前からユダヤ人の植民地であった。そこには大勢のユダヤ人が住んでいたと思われる。シモンはクレネに住むユダヤ人を通して、天地を造られた創造主を聞いて信仰を持つに至ったのだろう。シモンがイスラエルに向かうと、祭りの中心地エルサレムは人でごった返し。賑やかなのだが、祭りにしては雰囲気が物々しいことに気づいた。有名な人物が死刑になるらしい。シモンも十字架を担ぐ死刑囚を見るために街道沿いに足を運び、群衆に混じってその死刑囚を目の前で見た。頭には茨の冠をかぶり、全身血だらけで、膝を折って、十字架担ぐ力は弱々しい。するとローマ兵が近づいてきて、声を掛けられ、無理やり十字架を背負わされた。彼は十字架を担ぐために、わざわざクレネから出て来たわけではない。完全なとばっちりである。しかし、これも神のご計画であった。彼はこの時、強制的に十字架を背負わされたのだが、後に自発的に自分の十字架を負ってキリストについていく者と変えられたのではないかと思う。彼の二人の息子もキリスト者となった(マルコ15章21節)。シモンは最初、なんて俺は運が悪いんだと思っただろう。けれども、キリストの傷だらけの後ろ姿、十字架刑の光景、流れる血潮は彼の心に焼きついた。彼は釘打たれるキリストの絶叫も聞いただろうし、キリストと視線をかわしかもしれない。後に彼はキリストの恥と苦しみは、自分の罪のためであったと知る。そして、とばっちりと思った体験は、貴重な恵みの体験として彼の財産になっただろう。
26節の「うしろから運ばせた」の「うしろ」ということばだが、ルカ14章27節でも使われているのでご覧ください。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子となることはできません」。ここで「ついて」と訳されていることばが、23章36節で「うしろ」と訳されていたことばである。「うしろ」という表現で訳すと、「自分の十字架を負ってわたしのうしろから来ない者は、わたしの弟子となることはできません」。ここで負うものは「自分の十字架」と言われているが、それは自発的なキリストのための自己犠牲であり、もし、その覚悟がないのならば、その人はキリストのうしろにはおらず、沿道という外野にいるだけである。
自分の十字架を負うことは「キリストの苦しみにあずかる」ことを招く。「あずかる」ということばは、原語で「交わる」とか「苦楽をともにする」といった意味があることばである。誰でも苦しみたくはない。苦しみそれ自体は嬉しくはない。けれども、キリストと苦楽をともにしたいと思わないだろうか。それを喜びたいと思わないだろうか。キリストと一心同体とされている真理を表して生きていきたいと思わないだろうか。ならば、よいしょと多少重く感じても、自分の十字架を負って、キリストのうしろからついて行くことを選択しよう。