「万物の終わりが近づきました」(7節前半)。ペテロ第二の手紙でもそうだが、ペテロは万物の終わりということを読者たちに意識させようとしている。この意識がなかったら緊張感がうせてしまうのである。
ペテロが何をもって「万物の終わりが近づきました」と語っているのかと言うと、キリストがペテロたちに、世の終わりのしるしについて教えられたからである(マタイ24章、マルコ13章、他)。そこを見ると、キリストの名のゆえに苦しめられ、憎まれること、迫害されること、多くの人たちの愛が冷たくなること、道徳的に退廃すること、偽教師たちが現れることが記されている。ペテロが手紙を執筆した時代はまさしくそう時代に入っていた。それから二千年経った今は、ますます万物の終わりが近づいた時代となっている。キリストは、先ほど述べた世の終わりのしるし以外に、戦争や天変地異について語っておられるが、まさしく私たちの時代はそういう時代である。戦争やテロは頻繁に起こっているし、地球の環境や天文学や人体の研究を専門にしている科学者たちの発表は、地球は、また人類は、あとどれだけ持つかわからないといった不安なものばかりである。そうした科学者でなくても、ふつうの人々でも地球の異変に気がつき始めている。昨年も観測史上初の記録ずくめであった。不必要に人の不安をあおるのは良くないが、危機感をもたせないで、大丈夫、大丈夫と現実から目を逸らせるのも良くない。「万物の終わりが近づきました」ということばは、真摯に受け止めるべきである。とりわけ21世紀に生きる私たちは。22世紀を迎えられるという保証はない。
ペテロはこの万物の終わりが近づいた私たち生活、すなわち終末時代にあってどういう姿勢で生きるべきかを、今日の箇所で教えている。それは三つに分けて見ることができるだろう。
第一に、「祈りのために心を整え、身を慎む生活」(7節後半)。万物の終わりが近づいたということは、キリストの再臨も近いということである。それをわきまえると、私たちの心は自然と祈りに向かう。心の襟を正して祈らなくてはとなる。そして祈る。御国が来ますようにと。私たちの信仰をふさわしいものとしてくださいますようにと。まだ救われていない人に、あなたの御救いがありますようにと。「心を整え」と訳されていることばは、「正気であること」「正しい感覚を保っていること」を意味することばである。「身を慎む」は1章14節で解説したように、「酔っていない」という意味を持つ。正気であって酔っていないことは、当然のことながら、祈る姿勢として当たり前のこと。そして、酔っていなければいいのだと言うのではなく、ここでは心の目をはっきりと覚ましていることが求められていることがわかる。酒に酔っていなくとも、この世に酔っていたら仕方がない。「祈りのために」の「祈り」は原文では複数形となっている。つまり、「もろもろの祈り」である。個人での祈りだけでなく、教会での祈り、小グループでの祈りといったことも意識されていると思われる。ペテロは万物の終わりが近づいているのだから、祈りに専心するように教えている。飲めや、騒げやの、享楽の世界に浸って、祈りを怠っているならば、大洪水で滅びる前の人類、また火の裁きで滅びる前のソドムとゴモラの住民たちと変わらなくなってしまう。
第二に、「互いに愛し合う生活」(8,9節)。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」(8節前半)は、初代教会が最も強調してきた戒めである。ペテロと肩を並べた弟子ヨハネも、この戒めをくり返しくり返し伝え、どうしてそこまで言うのですか、と質問があったという伝説があるほどである。「熱心に」ということばは「十分に伸ばす」という意味を持つ。ゴムを伸ばしたり、風船を膨らませることを想像してみるといい。もうこれくらいでいいかな?いやいや、もっと伸ばせる、もっと膨らませることができる。ペテロはこれを愛に求めている。このような愛の限度への挑戦は、「愛は多くの罪をおおうからです」という結果をもたらすという。このみことばは箴言にもある。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」(箴言10章12節)。これはどういうことだろうか。相手の非を認めないとか、罪を罪としないで罪をうやむやにしてしまうということではない。同じの罪の問題に対処するにしても、愛のある人、愛のない人では対処が違ってくるだろう。愛のない人は憎しみをもって相対するだろう。怒って罵倒したり、こき下ろしたり、その罪を言いふらしたり、その人をだめにするまで追いつめる。その人の罪を赦すということはない。その人が立ち直ることは考えない。倒すまで責め続ける。和解というものも生まれない。それに対して、愛の人はどうなのか。愛の人はまず、自分の大きな罪がキリストの十字架という大きな大きな犠牲によっに赦されたことをしっかりと受けとめている。そこが違う。その人は、相手の罪が神に赦されることを願うし、自らも赦す。罪を指摘する場合も、自制心と穏やかさをもって語りかけ、相手が立ち戻って行くことを願う。相手との和解ということもしっかり視野に入れる。
「愛は多くの罪をおおうからです」を消極的な表現で言い換えると、パウロが愛の章と言われる第一コリント13章で語っている「人のした悪を思わない」(5節)である。「思う」ということばは「数える、記入する」といった意味を持つことばであるが、愛は人のした悪をいつまでも数え上げ、心の記録簿に記入したままにしておかない。クリソストムスは「愛は悪いことを記すよりも消す」と言ったが、そういう精神である。この精神は、結局、神の赦しがわからなければ生まれないと思う。旧約聖書にも赦しのみことばが数ある。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43章25節)。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103編12節)。「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」(ミカ7章19節)。これらのみことばは、キリストの十字架によって、明確に実現したのである。そして、この十字架の赦しに与った。ならば、十字架を仰いで、「人のした悪を思わず」は実践しなければならない。もしできなければ、私たちの罪のために十字架についてくださった主に申し訳ない。そして、人のした悪を思わない人は、単に赦す、その罪を心に記しておかないにとどまらず、なおその人との関係をこれまでと同様に保つだろう。それが愛は多くの罪をおおうというあり方である。
「互いに愛し合う生活」のもう一つが、つぶやかないで、互いに親切にもてなし合うことである(9節)。ローマ帝国内には多くの旅人がいた。キリスト者の旅人もいた。キリスト者、また巡回伝道者にとって、キリスト者の家庭以外に宿泊するということはやめたいことであった。その当時にあって宿屋数は少なく、あっても宿泊費が高く、不衛生で不潔で、また不品行の場となっていた。キリスト者の家庭のもてなしなくば、初代教会の伝道活動は停滞しただろうとも言われている。もてなしを必要としたのは旅人ばかりではない。初代教会は、初めの二百年間は教会の建物らしきものはなかったので、集まりごとをするときに、大きな部屋をどこかに確保するか、もしくはキリスト者の家庭を開放してもらうほかはなかった。1世紀はまちがいなく家の教会が多かった。自分の教会を快く開放してくれる家がなければ、初代教会は礼拝も祈り会もできなかった。
このもてなしの時に起きやすいのが、つぶやきである。「つぶやかないで」は新改訳2017では「不平を言わないで」と訳されている。掃除、片付けがたいへんだ。寝具の用意、食事とお茶の準備、送り迎え、と目が回る。こうなると出できやすいのは・・・ということである。それは気をつけようということである。
第三に、「賜物を用いて、互いに仕え合う生活」(10,11節)。キリスト者には誰にでも、この賜物が与えられている。ペテロは語る系の賜物と、奉仕系の賜物に分けて言及している。奉仕といっても様々で、また様々な賜物に分かれる。相当数の数になると思う。「賜物」は原語で<カリスマ>。それは恵みを意味する<カリス>から派生している。つまり、賜物はその人本人に由来している能力ではなく、天から与えられた恵みであるということである。だから、10節で「神のさまざまな恵み<カリス>の管理者として」と言われている。賜物は神の恵みであり、それを管理する責任がある。それを埋もれさせていたり、自分の好き勝手で気ままに使うようであってはいけないわけである。賜物は神からの預かりもので、神のみこころに従って適正に管理していくということである。賜物を用いる目的は「互いに仕え合いなさい」とあるように互いに仕え合うためである。賜物は教会の共有財産で、自分で単独に楽しむために与えられているわけではなく、教会という共同体のために与えられたものである。その賜物をもって互いに仕え合うわけである。そのことによって教会が建て上げられ、宣教が進む。
賜物を用いて互いに仕え合う最終目標は11節に記されている。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです」。賜物をいただいている一人ひとりが、これを自覚するわけである。そうすると、自分がしなければならないことが見えて来るし、自分の威信や名誉のためにするわけではないのだから、人の評価に過剰な感心を寄せることもない。賜物を用いて何かを成し遂げても、私は為すべきことをしただけです、という姿勢になるだろう。
今日は、終末時代の生活ということで、ペテロが教える三つの生活について学んだ。第一に、「祈りのために心を整え、身を慎む生活」。万物の終わりが近づいたと、自暴自棄に羽目を外して生きるのではない。また浮き足立って騒ぎまわるのでもない。祈りのために心を整え、身を慎み、主の再臨を、御国の完成を待ち望む。第二に、互いに愛し合う生活。愛が冷えていく終末時代にあって、その逆のことをしていくように命じられている。キリストは先に命じておられた。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13章34,35節)。互いに愛し合うことが神がおられるしるし、キリストがおられるしるしとなる。だから、この戒めを心に留めたい。第三に、賜物を用いて互いに仕え合う生活。神のみこころは、この終わりの時代、教会を通してご自身の栄光を現すことである。皆さんも、恵みの良い管理者として、ご自分に与えられている賜物を用いてください。
万物の終わりは、この手紙が執筆された時以上に近づいている。キリストの再臨の日が近づいている。地球は壊れかかっており、人類は退廃に向かっている。そして未来に希望を見い出せない人が増えている。私たちの役目は小さくはない。