この詩編の表題は「都上りの歌」となっている。都とはエルサレムのことである。エルサレムに向かって巡礼の旅をしたわけである。エルサレムは神の都であり、天の御国の型でもあるわけだが、私たちは天の御国に向かって歩む旅人である。この人生は旅ということになる。そして私たちには旅の歌が必要である。かつてヘブル人たちは、巡礼の旅に出かける時に、信頼の表明としてこれらの歌を口ずさんだと言われているが、私たちは人生の旅人として、新年を始めるにあたり、今日の詩編を心の中で口ずさみ、味わいたいと思う。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」(1節)。詩編の作者はどの山に向かって目を上げたのだろうか。聖書には様々な山が登場する。ノアの箱舟がとどまったアララテ山。モーセが十戒を授かったシナイ山。バアルを信仰する預言者たちとエリヤとの対決があったカルメル山。では、詩編の作者はどの山に向かって目を上げたのだろうか。旅の終わりに見えるシオンの山(丘)を見ていたのではないかという人がいるが、正解は記されていないので分らない。
「山」は原文では複数形、「山々」である。「山々」「山並み」は日本人にとっては日常的な風景である。人はリフレッシュすることを求めて、山の風景を見ることを好む。また山に登ることを好む。皆さんも山にまつわるなつかしい思い出があるだろう。私は、会津で育ったが、家の近くから見える飯豊連峰を見ることを好んだ。秋田の人は鳥海山に親しみを覚えるだろう。同じ山でも季節によって見せる顔が違って、目を楽しませてくれる。山には威厳があり、落ち着きのある佇まいを見せてくれる。山を仰ぎ、また山に登り、大自然が織りなす芸術に感動し、またそこでの新鮮な空気を吸い、心も体も精神もさわやかにされる。
けれども、この詩編をよく見ると、作者は山そのものに何かを期待しているのではないということがわかる。山も視界に入っているが、山を造られた天地の主に心を向けている。作者は自分の信仰を確認するかのように1節後半で問いかけている。「私の助けは、どこから来るだろうか」。私たちは人生の途上で、この質問を何度も自分に問いかけてみる必要がある。足取りが重くなってきた。ぬかるみの中を歩いているような気がする。先々不安で前に進むのが怖い。だが、「私の助けはどこから来るだろうか」と、この問いを何度も心に反響させるのである。自分の力には限界がある。しかし目の前には自分の力の限界を超えた課題が立ちはかっている。自分の前は霧が立ち込めているようで良く見えない。厳しい現実が待っているような気がする。「私の助けはどこから来るのだろうか」。あの人から、この人から、お役所から?人を介しての助けということはあるだろうが、作者は確信をもって答えるに至っている。「私の助けは天地を造られた主から来る」(2節)。神は天と地を造られた私たちの助け主である。またキリストはご自身を助け主としてされた上で、聖霊をもうひとりの助け主と呼ばれた。私たちの助けは三位一体なる神から来る。私たちは、今日明日起こることを自分の力でコントールできない。私たちは伸びてゆく夕影のようにはかなく、ちりに等しい存在にしかすぎない。力強い神の御手で、助け、守り、導いていただくしかない。パウロは語っている。「神の全能の力の働きによって、私たちを信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ1章19節)。私たちもこの神の力を体験していこう。
神さまが私たちにしてくださることに関して、この詩編で言及されている特徴的なことばは「守り」である。計6回使われている(3節後半、4節前半、5節前半、7節前半、7節後半、8節後半)。「守る」は「見守る」とも訳せることばで、実際に他の聖書で、そのように訳されることも多い。私たちはそれぞれが巡礼の旅をしている。それには危険や試みがつきものである。私たちは旅の間、ずっと神の守り、主の見守りを必要としている。
この時代の旅はもちろん徒歩の旅で、新幹線や飛行機はない。歩く距離は長かった。だから足は疲れ、よろけ、すべりと、足取りは不確かになる危険は高かった。私たちの信仰の足取りはどうだろうか?3節前半に「主はあなたの足をよろけさせず」とある。
この時代、エルサレムの旅は危険も大きかった。ホテルに寝泊まりするわけではない。荒野や荒涼とした場所にキャンプした。夜は見張り番がキャンプ地を見回った。キャンプ地は盗賊の一団にとって、格好の餌場であった。この見張り番が眠ってしまうということが一番恐かった。私たちには私たちのたましいを見張る見張り番がおられる。3節後半には、「あなたを守る方はまどろむこともない」とある。私たちのたましいの敵がいる。悪魔である。その敵から守るために主は寝ずの番をされ、私たちから目を離されることはない。4節では信仰者に対する敵からの守りが繰り返し強調されている。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」。主なる神は、まどろむこともなく、眠ることもない。
作者はこの時、異教の神々が眠る神々であることを意識して書いた可能性もある。カルメル山で、神の預言者エリヤがバアルの預言者たちに向かって、こう言う場面がある。「真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。『もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているだろう。もしかすると寝ているかもしれないから、起こしたらよかろう』」(第一列王記18章27節)。バアルの神は昼間から寝ることがよくあって、起こすのが預言者たちの役目であったと言われている。
5節以降、主のまどろむことなく、眠ることのない守りの完全さが強調されている。5節をご覧ください。「右の手」とあるが、右の手は普通の人にとって利き手である(私は左手が利き手であるが)。この利き手が使えないということは、旅においても戦いにおいても痛手となる。利き手を負傷した経験のある方はそのことが良くわかるだろう。この右の手でその人自身を代表させているということもできる。主はその人を「おおう陰」となる。「陰」で守ること、保護を意味させている。詩編では「御翼の陰」という表現も使われている(詩編17編8節、57編1節)。これらの詩編は敵からの守りを願う詩編である。
6節では、日中と夜間の守りが言われている。「昼も、日が、あなたを打つことがなく」。ご存じのように、荒野の太陽の光は強く、人を容易に日射病にしてしまう。ここで太陽光は、日中、人を痛めつける代表として取り上げられている。雪国に住む私たちは、太陽の光が隠れている雪空に困惑されることのほうが多いかもしれない。また、「夜も、月が、あなたを打つことがない」とあるが、当時の人は夜の月を、ある疫病の原因として捉えていた。そうしたことが背景としてある。作者がこの節で言わんとしたいことは、主なる神は、昼も夜も我らを守られるということである。
この主の守りの内容を洞察しよう。7節をご覧ください。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」。この詩編は、私たちが困難や危険から守られるということを約束しているのだろうか。確かに一面において、そのように言うことができる。私自身、様々な危険から守られてきた。けれども、ここは、それ以上の意味を読み取ることができる。
「わざわい」と訳されているヘブル語<ラー>は、通常は「悪」と訳されている(詩編51編4節等)。旧約聖書で「悪」と訳されていることばの多くが<ラー>である。神さまは私たちに対して、怪我に絶対に会わないことを約束されているのではない。悪から守られ、たましいが守られることを約束されている。「あなたのいのちを守られる」の「いのち」と訳されているヘブル語は、「いのち」の他に「たましい」(聖書協会共同訳)、「その人自身」と訳されることばである。だから、この「いのち」を、単に、心臓が動いているかいないかの肉体のいのちと軽く採らないことが必要である。危険な目に会っても、たましいは悪から守られ、永遠のいのちは損なわれることはないと受け取ることもできよう。
これを理解するために、イエスさまの十字架を思い浮かべていただきたい。イエスさまは十字架刑に会わないように守られただろうか。守られなかった。十字架刑は鞭打ちから始まるが、イエスさまは鞭打たれ、十字架に釘付けにされ、その木は垂直に立てられ、人類史上最大の苦しみを味わわれた。人々はそんなイエスさまを侮辱した。「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら救っていただくがよい」。だが、何も起きなかった。十字架から降りるための助けの手は天から差し伸べられなかった。イエスさまは人類史上最大級のわざわいに会われた。何の罪もないお方なのに。果たして、イエスさまは守られなかったのだろうか。イエスさまは守られなかったけれども守られた。これが真実である。
イエスさまは十字架刑の前にゲッセマネの園で祈られた。「わたしが苦しみに会うことがないようにしてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られ、十字架を避けよとの悪魔の誘惑から守られた。みこころから外れないで十字架刑に服するように守られた。そのことによって贖いの御業を全うできた。悪魔は十字架刑によってイエスさまの身もたましいも粉砕しようとしたが、イエスさまはどうなっただろうか。イエスさまは十字架の上で、「わたしのたましいを御手にゆだねます」と祈られ、息をひきとられた。そしてイエスさまは、このことにおいても守られた。つまり、たましいは守られ、復活を遂げられ、天に昇り、諸々の権威の上に座し、天の王座に座し、罪と死と悪魔に打ち勝った勝利者となられた。イエスさまは、最終的には何も損なわれなかった。守られた。守られないようで守られた。
私たちは守りというときに、自分の願いがかないますように守ってくださいとか、日本人がお守りを買って、旅の安全、無事を願う程度と同じことを考えていてはならないだろう。悪からの守り、たましいの守り、信仰の守り、みこころに従うことができるようにとの守り、そのような種類の守りを、しっかり心に留めていたい。もちろん主は、私たちをご自分の子どもとして扱ってくださるお方なので、あなたの地上での人生これまでという期間、生活を守り、必要を与え、様々の危険からも守ってくださるだろう。そして天の御国(天の都)という旅のゴールに到着する時、すべて守られたという実感に到達するはずである。
作者は最後に、美しい約束をもって閉じる。「主は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」(8節)。「行くにも帰るにも」というのは、旅の始まりも終わりもというだけでなく、全生活が守られる、ということである。別の言い方をすれば、主なる神の完全で永遠の守りが約束されているということである。
ユダヤ教徒は、家の出入りに際し、この8節を唱えるという習慣があるらしい。私たちはユダヤ教徒のようにこの節を唱えるかどうかは別として、主に従う者として、主に助けと守りに信頼し、自らをゆだねて祈っていきたい。私たちも都上りの途上にある。巡礼の旅はまだ続く。殺風景な地を歩まなければならないかもしれない。欲望の街を通過しなければならないかもしれない。起伏の多い道を歩かなければならないかもしれない。藪の中を進まなければならないかもしれない。あちらこちらにたましいの盗賊が潜んでいるかもしれない。幾つもの分かれ道があって迷うかもしれない。目を上げて、天と地を造られた主に、全能の神に祈って行こう。みこころの人生を歩むことができるために。御国で神に賛美と感謝をささげることができるために。