ねばりと言えば、まず納豆を思い出す。秋田県横手市は納豆発祥の地と言われている。横手市金沢公園には「納豆発祥の地」という石碑がある。私はほぼ毎朝、納豆を食べる。またねばりと言えば、餅を思い出す。正月には餅を食べるご家庭が多いだろう。そして納豆餅は最強コンビということになる。納豆餅を食べるかどうかは別として、聖書は、ねばり強い愛を奨励している。
前回のクリスマス礼拝では、愛の特性を4~5節から九つ見た。寛容、親切、ねたまない、自慢しない、高慢にならない、礼儀に反することをしない、自分の利益を求めない、人のした悪を思わない。今日は、後半の五つの特性を見よう。
第一は、愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶ(6節)。ある時に、ひとりのお母さんが、お子さんのことで、ある人に相談に見えた。中学になったばかりの娘が急に反抗的になったけれど、理由がよくわからないということだった。今度はその娘さんのほうに話を聞くと、事情が呑み込めた。
小学校を卒業して4月になってのことだった。お母さんの実家のおばあちゃんに会いに行こうと、お母さんと二人で電車に乗ることになった。そして切符を買う時にお母さんがこう言った。「あんたはまだ小さいから小学生料金で乗れるわよ」。本人はもう中学生だから、「今日から私は大人の料金」と思ったのだが、「あんたはまだ小さいから子ども料金にして、聞かれたら、小学生って言うのよ」と言って、子ども料金で乗せられたのである。その時、彼女はえらく傷ついた。「大人ってずるい」と思ったそうである。そしてお母さんに対する信頼を失ったというのである。お母さんは、たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのである。
愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶから教えられる一つのことには、動機が愛であればそれで良いということにはならない、ということも挙げられるだろう。今年話題になった身近な例では、子どものためを思って不正入学に動いたなどがある。それが本当に子どものためなのか。その他に、会社のためを思って、国のためを思ってと様々ある。それで会社の信用を失う結果になったり、愛国心の名のもとに他国に犠牲を強いたりと、今年も様々あった。本当の愛は真理や正義、真実、誠実と調和するものである。
第二は、愛はすべてをがまんする(7節/新改訳2017「すべてを耐え」)。これはどういうことだろうか。相手が無神経だと思いつつも、血管がぶち切れるまでがまんするということだろうか。けれども、ただそうしたがまんともちょっと違う気がする。ただのがまんではないようである。欄外註別訳は「おおい」となっている。愛はおおう、で考えてみよう。相手の欠点、失敗、問題点を前にして、どう対処するのか。それをやたら言いふらしたりしないで、愛のマントでおおってあげる。相手が故意にやっているわけではないだろうけれども、うまくできず、周囲の頭を悩ませることをしているという場合、手助けしながら、その人をカバーしてあげるということがあるだろう。また、相手に指摘しなければならない問題ありという場合、すぐには皆の面前に引きずり出したりはしない。まずその人が反省するように、悔い改めるように、個人的に諭すということをするだろう。本人が過ちを認めたならば赦す。ペテロがキリストに質問したことがある。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。「七度まで、などと私は言いません。七度を七十倍するまでと言います」(マタイ18章21,22節)。これなど、おおうという精神がなければできない。
愛は罪を罪とし、警告し、叱ることもするだろう。罪をうやむやにしない。その人を正そうとする。けれども、その人の罪のうわさをばらまいたり、言いふらしたりしない。ゴシップは言わないし、歩く週刊誌のようにはならない。もし、その人が悪意から故意にやったことでないなら、その人の失敗をカバーするような行動にも出るだろう。
アブラハム・リンカーンのエピソードに次のようなものがある。大統領主催の晩さん会の席上の事。その日、リンカーンの幼なじみが田舎から訪ねて来ていた。リンカーンは幼なじみに、「今日はちょうどいい機会だから、君も一緒に夕食のテーブルについて」と、その晩さん会に招いた。いよいよ晩さん会が始まろうとしていた時に、テーブルマナーを知らない幼なじみは、指を洗うフィンガーボールの水をごくごく飲み始めた。周囲の人はびっくりしたが、大統領の友人だから下手なことは言えないし、お腹をかかえて笑うわけにもいかないし、ということで大統領の顔を見たら、リンカーンは何事もなかったかのようにフィンガーボールの水を飲み始めた。大統領が飲んだものだから、他の人たちはそれで指を洗うわけにもいかず、その晩は、皆がそのフィンガーボールの水を飲んだそうである。リンカーンはその友人に恥をかかせたくないと思ったわけである。
これもおおう愛だと思った事例を読んだ。渡辺美佐子さんという方が、子どもの頃の思い出としてこんなことを書いている。その日も一日、外で遊んでいた。夕方になって暗くなったので、お母さんは家から、「美佐子ちゃん、夕ご飯ができたから、帰ってらっしゃい」と呼んだそうである。彼女は「はいっ」と返事して、下駄をカタカタいわせながら玄関に向かった。そして家の敷居をまたいだ時に、下駄の鼻緒がプツンと切れてしまった。それでつまずいて、土間の七輪の上に乗せてあったカレー鍋にぶつかって、鍋をひっくり返してしまった。せっかく作ったカレーが台無しである。そうしたらお母さんが駆け寄ってきてこう言った。「大丈夫?美佐子ちゃん。やけどしなかった?けがはない?」。「このドジ、どうしてくれるのこのカレー」ではなかった。そして彼女はこう書いている。「あの時の母の顔を忘れることはできない」。きっと、打算なしの、愛そのものの心が顔に表われたのだと思う。それは美佐子さんにとってはおおう愛となった。
第三は、愛はすべてを信じる(7節)。すべてを信じると言っても、詐欺にだまされやすい人になるということではない。あそこに電話すれば、あそこに訪問すれば、すべて信じてもらえる!ということで詐欺商法のお得意さんになっても困る。では、聖書が語る信じる愛とはどういうものであろうか。
ひとりの青年が、自分の荒れ果てていた高校時代を振り返ってこう言った。「俺も高校時代はずいぶん不良したけれど、最後の最後の線は越えられなかった」。どうしたかと言うと、ある晩のことである。その夜も遅くに友だちから電話の呼び出しがあって、街に遊びに行こうと家を出ようとしたら、たまたま玄関で夜遅く帰宅したお父さんとすれちがったそうである。父親が、「また遊びに行くのか」と言ったそうである。「そうだよ」と答えると、「何をしてもいい、でも俺はお前を信じているからな」と一言。それだけ言ったそうである。そのことばが彼の心にとどまったのである。「麻薬に手を出そう」とか、何か最後に一線を超えそうなときに、「お前を信じているからな」というお父さんの声が歯止めになって、どうしても最後の一線は越えられなかったそうである。信じられているとわかっている人は投げやりにならない。だが、いつもさばかれていると、やる気を失う。どうせ信じられていないと。
第四は、愛はすべてを期待する。人の可能性を信じて期待することである。先の愛とつながっている。信じていたはずなのに期待を裏切られたというようなことが続く。良い方向に向いてくれない。それどころか、ますます悪くなっていくように思われる。しかし、ここで見限らない。なおも期待し続ける。まだまだあきらめない。
第五は、愛はすべてを耐え忍ぶ(7節)。これも「愛はすべてをがまんする」と同様、ただ、じっとがまんする程度の意味ではない。もっと積極的な意味がある。新改訳2017の欄外註の別訳では「どんなことにも踏みとどまります」とある。どういうことだろうか。「耐え忍びます」(新改訳2017「忍びます」)と訳されていることばは、軍隊用語としても用いられ、「どんな犠牲を払っても重要な戦略地点を死守する」という意味のことば。何があっても引き下がらない、命がけでここを守るという固い意志を表すことばである。つまり愛は愛するという戦略地点から絶対に離れない。相手が良い方向に向いてくれないどころか、無視されることが続いたり、うるさがられたり、逆恨みされたりすることもあるだろう。攻撃の矢が飛んでくる。弾が飛んでくる。それでも引き下がらない。なお愛することをやめない。前進しようとする。そういう前向きな姿勢である。
亀は敵がやってくると甲羅の中に全部引っ込めて、それが過ぎるのを待つが、それとはちょっと違う。敵がやってきても、手足を引っ込めないで、それに向かって敢然と立ち向かうような姿である。奥さんの機関銃のような口の攻撃を、新聞紙で遮断して、攻撃が過行くのをじっと耐えて待つ、とはニュアンスが異なる。
今日のタイトルは「ねばり強い愛」であるが、7節全体を意識しているが、特に、この「すべてを耐え忍ぶ愛」が意識されている。愛は愛することをやめない。ねばり腰でやめない。引き下がらない。矢が降り注いでも、鉄砲の弾が飛んできても、撤退しない。愛は敗走しない。
今述べたような愛は、生まれながらの人間のうちにはないが、イエス・キリストは持っておられた。
キリストは不正を喜ばずに真理を喜ばれた。「真理」とは単なる真実を指すのではなく、神の真理を指す。その真理はみことばによって啓示されたわけだが、キリストご自身が真理である。キリストは真理に敵対する世の悪を指摘し、戦う姿勢をもっていた。そうすることが人類への愛であることを知っておられたからである。
キリストはがまんし、おおわれた。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女の物語が挿入されている。彼女が引き出され、民衆の前にさらしものとされたとき、キリストは愛のマントで彼女をおおうことを選択した。彼女に悔い改めの意志があることを見て、キリストはこう言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」(11節 新改訳2017訳)。
キリストは信じ、期待された。ペテロをはじめ弟子たちはキリストを裏切った。弟子の筆頭のペテロは、「こんな男は知らない」と、三度もキリストを否んだ。けれどもキリストはペテロたちの罪を赦し、おおい、信じ、期待することをやめなかった。弟子たちはその愛で立ち直ることになる。
キリストは耐え忍ばれた。愛することをやめず、死守された。キリストは憎まれ、あざけられ、ののしられ、罵声を浴びせかけられ、鞭打たれ、釘打たれ、罪人の負のエネルギーを一身に浴びて、十字架につけられた。けれども愛することをやめなかった。十字架につけられてもなお、愛することをやめなかった。撤退しなかった。敵たち対しても、ペテロたちに対しても。このキリストの愛ゆえに、今日の私たちもある。
繰り返し7節の「すべてを耐え忍びます」の意味をお伝えする。「耐え忍びます」と訳されていることばは、「どんな犠牲を払っても重要な戦略地点を死守する」という意味のことばである。何があっても引き下がらない、命がけでここを守るという固い意志を表すことばである。つまり、愛は愛するという戦略地点から絶対に離れない。キリストは皆さんを愛することをやめなかった。これまで、どんなひどい過ちを犯してきても、同じ失敗を繰り返してきても、愛することをやめなかった。皆さんの不平、不満、つぶやきを聞いても、皆さんの信頼が薄くなることがあっても、愛することをやめず、後退せず、愛することを死守してくださった。今年一年振り返ってみて、どうだっただろうか。私はキリストのこの耐え忍ぶ愛がなかったなら、もう終わっていたと思う。キリストの忍耐、ねばり強い愛、愛することをあきらめない愛、撤退しないで愛し続けてくださったその愛があったからこそ、見捨てられず、今年もここまで来ることができたのである。本来、愛される価値のない私たちがここまで来れたのは、また見捨てられず、健康も、必要も備えられたのは、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ主の愛によるものであった。この愛に対して感謝しかない。
私たちは、キリストの愛に感謝するだけでなく、この愛を模範としていかなければならないと思う。私たちは、へりくだってこの愛を主に願い求めよう。特に、愛することが難しいと感じる人が身近におられるならばなおさら、この愛をへりくだって求めよう。いつまでたっても期待に応えてくれないという人のために、この愛を求めよう。迎える新年、キリストの愛にならうことに心を砕いて、教会に、家族に、隣人に仕えていこう。