クリスマス礼拝の前の週ということで、今日はメシヤ預言を一か所選ばせていただいた。先週、ペテロの手紙第一3章を通して、キリストの勝利について学んだが、そのこととも関係する箇所である。今日の個所は2世紀以来、使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスを知っているエイレナイオス以来、「原福音」と呼ばれてきた。すなわち、福音が語られるはじめ、福音のおこり、そんなところである。
この預言の前に、私たち人類の先祖であるアダムとエバの罪の記録が記されている。二人は神の命令にそむいた。神は罪を犯した二人をとがめるために、園で彼らを呼ぶ(8~10節)。「園を歩き回られる神である主」をエイレナイオスは、受肉前のキリストと解している。神である主の声を聴いた二人は、恐れて木の間に身を隠す。世界最初のかくれんぼである。罪を犯したたましいは、無意識のうちにも神のさばきを恐れる。たとい誰かが神の存在を否定したとしても、理屈を並べて自分の善悪の基準を信じ、罪を否定したとしても、やがて神のさばきの座に立たせられる時、アダムとエバの恐れを持つことになるだろう。
神はさばきの文脈で、原福音と言われる恵みを語る。また、それは、アダムとエバを誘惑し、罪へと引き込んだ蛇に対する勝利の宣言であった。
まず14節で蛇に対する呪いが宣告されている。この蛇とは誰のことなのだろうか。エイレナオスは語る。「人(アダム)はこの命令を守らないで、神に背いた。天使に道を誤らせられたのである。この天使は人を妬むようになり、神が人に与えた多くの好意のゆえに羨望をもって人を見るようになり、神の命令に背くようにと人を説き(創世記3:1~6)、こうして自らを破滅させ、また人を罪人にしたのであった。このようにして、その天使はその嘘によって(ヨハネ8:44)、罪の頭また源泉となり、神を怒らせて自ら攻撃を受けたものとなり、人が楽園から追放される原因となった。この天使は、その本性にかきたてられて敵対し、神から堕ち去ってしまった。それで、この天使はヘブライ語でサタン、すなわち敵対する者と呼ばれる。またこの天使は中傷する者とも呼ばれている(「悪魔」の意味)。そこで、神はその中傷する者となった蛇を非難した(創世記3:14)。そしてその呪いは動物そのものと、その中に隠れ潜んでいるあの天使、サタンの上に及んだ」。
ここでの蛇の実体はサタンであることにまちがいない。黙示録12章9節では、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と言われている。エイレナイオスはサタンを堕落天使と位置付けているがこれは妥当だろうか。サタンは天使であったとする根拠は何もないという主張をたまにみかける。だが次のようなみことばがある。「神は罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました」(第二ペテロ2章4節)。「主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなるさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました」(ユダ6)。この暗やみの下にまだ閉じ込められず暗躍しているのが、サタンとその手下の御使いたちと推論できる。
「腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない」から、色々な意味を読み込もうとする向きがあるが、はっきりしていることは、神の祝福を失ったということである。
蛇に関して付け足すと、世界では蛇信仰がなぜか盛んであるということである。事例を見ていくと、中国では蛇をヒントに竜を造り、動物の神々の中で最も尊敬と畏怖を集めた。インド、東南アジアではナーガ信仰が盛んである。ナーガとはサンスクリット語では水の神としての蛇を指す。ギリシア神話にも蛇が登場する。エジプトでも神として崇められる。古代文明のインカ文明、アステカ文明でも蛇神信仰が盛んだった。日本では縄文時代から蛇は神とされていたことがわかっている。日本神社の総社である伊勢神宮の神官に言い伝えられてきたことによると、祭神(さいじん)の本体は蛇神であるという。島根の出雲大社のご神体も蛇。奈良の大神(おおみわ)神社の祭神「オオモノヌシ」は蛇の姿をした神。奈良の諏訪大社の祭神も本来は蛇。前にもお伝えしたが、私の実家の裏山にあったのは伊勢神社。家の裏には蛇の祠があって、家人が供え物をしていた。家から50メートル先にあるお寺は通称、蛇寺と言って、蛇の掛け軸が掛けられている。また子どもの時に良く遊びに登った近くの和尚山は大蛇伝説がある山である。蛇は良くも悪くも、日本人の生活にも密着している。
では15節を観察しよう。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」。双方、痛手を負うが蛇は致命的という内容になっている。これは主なる神ご自身の預言である。
神は「おまえ」であるサタンと「女」であるエバの間に敵意を置くことを言われている。この「敵意」とは、サタンの女に対する敵意ではなく、「サタンに対する神に源を発する敵意」のことである。この敵意が置かれる理由は、だまされたエバを守るためである。これ以上、蛇によって彼女が害されたらたいへんである。また、この敵意が置かれた理由は、彼女の子孫である私たちを救うためである。それは次の行で見ることができる。
「また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く」。この「女の子孫」とは、旧約、新約問わず、全時代を通じての信者、神の民と言えるだろう。「女の子孫」は単数形であるが集合名詞と解することができる。よって、女の子孫たちの集団である神の民として解することができる。私たちは弱い羊たちにすぎない。もし神の御介入なくば、私たちはサタンの餌食にされてしまう。そして滅びの穴に落ちてしまう。
さて、ここがメシヤ預言と言われる理由は、「女の子孫」とは単に神の民というだけではなく、「女の子孫の代表であるイエス・キリスト」と解することができるからである。「女の子孫」は次の行では「彼は」と言われている。キリストは新約聖書においては第二のアダム、神の民の代表として描かれている(ローマ5章12~21節)。キリストは私たちを救うため、私たちの代表として先頭に立ち、戦う。
「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。ここには、はっきりと戦いを見て取ることができる。私たちは聖書によって正しい世界観に立たなければならない。聖書の世界観は、この世は二つの異なる霊性の戦いの場であるということ。善と悪の戦い、光と闇の戦い、真理と不義の戦い、神と悪魔の戦い。人類はその戦場の中に置かれている。ところが現代人に広まってしまっている世界観は、この世には一つの霊性があるのみというもの。この考えに立つと、究極的善、究極的悪という区別は撤廃される。だからすべては認められる方向性に向かう。罪というものは単なる無知に置き換えられてしまう。さばきは否定され、天国と地獄という区別さえ取り払われていく。神とサタンという対立関係は当然認められず、サタンも神と同質なものとされ、人々はサタンにだまされていく。人間のことなど、これっぽっちも愛していないのに。
福音書には、二つの異なる霊性の激しい戦いが記されている。神のひとり子イエス・キリストは、時至り、神の敵意を伴って、まことの人となりこの地上に降りてこられた。貧しい夫婦の長子として。そしてサタンの敵意とぶつかった。キリストの降誕の場所はイスラエルのベツレヘムだった。メシヤと目される幼子の誕生のニュースを聞いたヘロデ王は、自分の地位が危ないと感じる。サタンは彼を通して、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を殺させた。しかし、神は幼子の家族に避難場所を用意しており、御使いを通してエジプトに立ち退かせた。ヘロデ王の死後、御使いによってヘロデ王の死が知らされ、イスラエルの地に入る。そして安全な居住地、ガリラヤの寒村ナザレに導かれる(マタイ2章)。
キリストが公生涯に入る前、荒野でサタンの誘惑を受けることになる。それはキリストのメシヤの資格をはく奪しようとする誘惑であり、また死に至らせる誘惑でもあった。しかしキリストはこのサタンの誘惑を撃退した。キリストが公生涯に入ると、周囲の敵意はむき出しとなった。キリストにいのちの危険が及んだ最初の事件は、ナザレで起こった(ルカ4章)。キリストの説教のあと、ナザレの住民はキリストを町の外に追い出し、丘のがけのふちから突き落とそうとした。キリストはその後、カペナウムを宣教の拠点とするが、悪霊どもはこう言った。「あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう」(ルカ4章34節)。宗教界のリーダーたちは何度もキリストを捕えようと試みた。ことばのわなを仕掛けたり、民衆を扇動しようとしたり。宗教界のリーダーたちはキリストによって何と呼ばれただろうか。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません」(ヨハネ8章44節)。創世記3章15節で蛇に向かって言われた「おまえの子孫」とは、この人たちを含んでいると言える。彼らは十二使徒のひとりユダを抱き込む。ユダの裏切りの記述の場面では、ユダにサタンが入ったことが書いてある(ヨハネ13章27節)。ユダが引き渡し役を買った後、彼らは、キリストを自分を神と等しくしたとして、冒瀆罪という死罪の判決を下す。しかし当時はローマ帝国の支配下にあったため、ユダヤの律法の基準では、死刑にできなかった。そこで、ユダヤ人の王としてローマに反逆しようとしているという反逆罪で訴え、民衆も扇動し、十字架刑を確定させる。悪意、憎悪、呪いがキリストに襲いかかり、キリストは十字架の上で絶え果てる。壮絶な死を遂げる。それでもこのキリストの十字架は、15節によれば、かかとにかみつく程度の打撃でしかなかったことがわかる。なぜならば、キリストは三日目に復活されたからである。蛇の勝利は三日天下に過ぎず、敵と敵の力は打ち破られた。同時に罪と罪の力も、死と死の力も打ち破られた。
キリストの勝利は、私たちとどのような関係があるのだろうか。エイレナイオスは言った。「神との交わりはいのちであり・・・神からの分離が死です」。サタンの目的は、人間に罪を犯させ、人間を神から引き離し、神からの分離という死をもたらすことである。サタンは、最初の人間アダムとエバを偽りで騙し、神の命令に逆らわせ、罪に引き込み、死をもたらした。死は神のさばきであることはまちがいない。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。しかし、この死は、神からの分離という死をもたらさんとするサタンの策略でもあった。この後も、サタンは人を誘惑し、罪を犯させ、神からの分離という死のために活動を続けている。アダム以来の人類は罪の力、死の力、悪魔の力に屈し、それに支配されて生きているという現状がある。パウロは告げている。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(エペソ1:1,2)。
キリストがまことの人となって来られた目的についてヨハネは言う。「悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」(第一ヨハネ3:8)キリストが人となって来られたのは、人を罪へと引き込む「悪魔のわざを打ち破るため」であった。またへブル人への手紙の著者は、このみわざについてこう表現している。「その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)。
悪魔はなぜ「死の力を持つ者」なのだろうか。ヨハネは、神のキリストが、いのちを、すなわち永遠のいのちをもっていることをくり返し語っている(第一ヨハネ5:11,20等)。ところが悪魔は神ではないし、神に背く者なので、このいのちがない。よって、悪魔にできることは永遠のいのちを与えることではなく、その反対の死を与えることでしかない。すなわち神からの分離である死を与えることである。罪を犯させ、死を与えるということである。彼はそのことに力を注ぐ。自分と正反対の性質を有する永遠のいのちをもつキリストに対しては妬みと敵意しかない。この敵意にキリストは身をゆだねたかに見えた。無抵抗となり、十字架についた。しかしこの十字架が勝利の道具となり、神の敵意を表すものとなった。キリストは十字架の上で、悪魔に起源をもつと言われる罪とその結果である死を背負った。悪魔と罪と死の三位一体がキリストをつぶそうとした。だがキリストは復活によって勝利される。蛇の頭は踏み砕かれた。今は、信仰によってキリストに結び付くならば、誰でも悪魔の支配から救われ、罪の縄目から解放され、死のさばきに合うことはない。
創世記3章15節では、罪に対しては恐ろしいさばきがあると、その予感におののく者たちに対して、驚くばかりの恵みの預言がされている。原福音である。キリストの受肉、十字架、復活が暗示されている。次週は、キリストの受肉を意味するキリストの降誕を心からお祝いしたいと思う。