クリスマスは「愛を贈る日」として位置づけられていた。この日は喧嘩はしない、誰かにプレゼントを贈る、そういったことが習慣になっていった。
ある海外の会社の心温まる話を聞いたことがある。この会社は全従業員を挙げてクリスマスパーティをすることが習わしになっている。それに費やす費用は4千万円以上。ところがある年、社長が「今年はクリスマスパーティを中止します」と発表したそうである。それを楽しみに一年間働いていた人たちも中にはいるわけだから、みんながっかりしてしまった。社長はこう続けた。「今年は同じ金額を使ってクリスマスプレゼントを買いますから、みなさんが手分けして、この地域に住む貧しい人々の家を回って、それを渡してきて欲しいのです」。それを聞いた従業員たちは、「なんで俺たちがそんなことをしなきゃならないんだ」とぶつぶつ言いながら、「でも社長命令だから仕方がない」と従った。やがて倉庫に、食料品、衣類、子どものおもちゃといったものが山のように用意された。そして従業員の一人ひとりが、自分の割りあてられた地域にそれを持っていって配った。最初はぶつぶつ言っていた従業員たちも、喜びに満ちて帰って来た。なぜなら、クリスマスプレゼントなんて全然期待していなかった地域の貧しい人たちが、思いがけないプレゼントを手にして、本当に喜んでくれたからである。子どもたちはおもちゃをもらって飛び上がって喜び、大人の人たちの中には、渡してくれた従業員の手を握って、涙を流して感謝してくれる人もいた。従業員たちは与えることの喜びを知り、今までにない素晴らしいクリスマスを過ごしたそうである。多くの従業員がこの体験を通して、「わたしの人生が変えられた」と言ったそうである。ある人は言った。「クリスマスだけでなく一年中言えること。他の人に喜びを与えるなら、喜びが返ってくる」。
私たちには二つの人生があると思う。一つは集める人生。もう一つは与える人生。ある人は、「人が一生を終えて残すことのできるものは、集めたものではなく与えたものである」と言った。今日ご一緒に見るコリント人への手紙13章は「愛の章」として知られているが、日本語で「愛」と訳されているこのことばは「与える」という意味がもともと込められている。コリント人への手紙13章は愛の具体的な姿を教えているが、今週と来週の二週に渡って、この愛について教えられたいと思う。本日は5節まで。
第一に、愛は寛容である。寛容とは何だろうか。「寛容」とは人に対する忍耐を意味することばである。「寛容」と訳されているもとのことばは、「長い」ということばと「怒り」ということばから造られている。なかなか怒らない、つまり、対人関係において「気が長いこと」を意味する。別の表現をとると、対人関係において、相手に対してゆっくり結論を出すということである。私たちはみかけや少ない情報で、すぐに人を判断してしまうせっかちさがある。「見た目最低、中身も最低だろ」。「あの人は冷たい人だ」「あの人は教えてもだめ、見込みがない」。でも愛はそうではなく、簡単に判断しちゃいけないと、ゆっくり結論を引き出す。相手が荒っぽく接してきても、「いつもこんな態度は取らないだろう。きっと急いでいたのかもしれない。」「たまたまいやなことがあって心に余裕がなかったのだろう。」「何か深いわけがあるのだろう。」「この人にも色んないい所はあるはずだ。」こうして相手を決めつけない、見限らない。簡単にみかけで判断したり、さばいたりしない。人に対してまことに気が長い。短気にならず、ゆっくりと結論を引き出す。
第二に、愛は親切である。「親切」とは聖書のもとのことばで「憐れみ深いこと」を意味する。本物の憐れみ深さには分け隔てがない。キリストは言われた。「天の父は(神さまは)悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます」(マタイ5章45節)。聖書は分け隔てのない神の愛にならうことが親切であると教えている。
第三に、愛は人をねたまない。ある医者が、「人のねたみは本当にすごい」と言われたことがある。どうすごいかと言うと、人が臨終を迎えると、医学的には死ぬのだが、ねたみだけはそのあとも30分生きているそうである。もちろん、これは、そのような気がするということで、ねたみのしつこさを言いたいわけである。ある音大生が自分の罪がわかる体験をした。学内でのピアノ発表会の時のことである。演奏の評価は少々変わっていて、審査員がいるのではなくて、評価は演奏後の拍手の音でする、というものであった。彼女の演奏が終わって、そのあとに彼女がライバル視している女性が弾いたそうである。自分が聴いてもライバルのほうがうまいと思ったそうである。演奏後の拍手は、案の定、ライバルのほうが大きかった。彼女も拍手に加わる立場である。しかし、ねたみが働いた。「拍手したくない。しかし拍手しないとねたんでいるんじゃない、と思われるし」。そこで彼女は拍手のポーズだけをして、音を出さないようにした。彼女は拍手のふりをしながら、「自分はなんてばかなことをしているんだろう。これは罪だ」と思ったそうである。私たちは人の成功をねたみ、人の失敗を喜ぶ。けれども愛は人をねたまない。
第四は、愛は自慢しない。「自慢する」のもとの意味は、「うぬぼれること、思い上がること」である。ねたみは他人を引きずり下ろし、自慢は他人より自分を持ち上げる。
第五は、愛は高慢にならない。自慢の意味は思い上がることであったが、「高慢」のもとの意味は「ふくらますこと」。本当の自分以上に自分をふくらませる。聖書には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16章18節)とある。
ある沼に亀たちがいた。その沼には時々、鶴たちが舞い降りて来る。それを見ながら亀たちは、「鶴はいいよなぁ、空を飛べて。俺たちは亀だから、一生空を飛ぶことはできないよな。でも一度でいいから、空高く飛んでみたいよな」。そんなことを話していた。ところが、ある時、一匹の亀が空を飛んだ。どうやって飛んだのかというと、時々遊びに来る鶴に手を貸してくれと頼んだ。どこからか一本の棒を持って来て、その両端を鶴にくわえてもらって、自分は真ん中をかんで飛んだのである。そうしたら他の亀たちが、空高く飛んでいる仲間の亀を見上げて、「わぁ、すごいなぁ。誰があんなことを考えたんだろう。きっとすごいやつが考えたんだろうなぁ」と言った。空を飛んでいた亀は、自分が考えたんだとどうしても言いたくなって、空を飛びながら思わず、「俺が考えた」と言ってしまった。あとは分かるだろう。落下して、破滅である。
第六は、愛は礼儀に反することをしない。日本人は礼儀正しいと言われるが、これは礼儀作法の問題というよりも、相手に失礼にならないようする、ということである。恩を仇で返したり、皆の迷惑になるようなことをしたり、自分のことしか考えないような行動をとって、相手にいやな思いをさせるなら、礼儀がない、ということになる。
第七は、愛は自分の利益を求めない。一つの事例として、自分の利益より、国全体の利益を考えたという逸話がある。アメリカ16代大統領アブラハム・リンカーンの逸話である。リンカーンは敬虔なクリスチャンとして知られている。文字通り、愛読書は聖書だった。彼の政治上の敵にエドウィン・スタントンという人がいた。スタントンは大変な毒舌家で、公けの席でリンカーンを攻撃することがしばしばあったという。例えば、「なぜゴリラを見に、わざわざアフリカまで行くんだ。すぐそばにいるじゃないか」。「リンカーンは低俗な田舎者だ。彼の先祖はゴリラにちがいない」。やがてリンカーンは大統領に就任する。大統領には重要な役職の任命権がある。さて、最後に陸軍長官のポストが残った。誰を選ぶのか?リンカーンは、「このポストには、あのスタントンがふさわしい」と言った。皆はびっくりした。「いつもあなたのことを誹謗中傷してきた男をなぜ選ぶんですか」。リンカーンはこう答えたそうである。「この国の利益を考えるとき、彼こそが適任です」。彼は自分の利益より、国全体の利益を考えた。別の見方をすれば、リンカーンは寛容であったと言えよう。人に対してゆっくり結論を出す人であった。リンカーンが暗殺されたとき、スタントンはリンカーンの棺にすがって、人目もかまわず泣いたそうである。そして、こう言った。「我々は偉大な人物を失ってしまった」。
第八は、愛は怒らない。ここで「怒る」と訳されていることばは、激怒、突然爆発する怒りのことを言う。人間の血液に関して、怒ると血液が黒褐色で渋くなる、悲しむと茶褐色で苦くなる、恐れると紫色で酸っぱくなる、と言われたりもする。そこには不健康なイメージがある。ある心理学者は、怒るというのは被害にあった時の感情なのだから当然で、怒ってしまったと自分を責めることはないと言い切る人もいる。怒りはストレスから生まれるのだから、うまくコントロールすればいいだけだという人もいる。こうして怒りと罪を結び付けることはしない。だが、破壊的な怒りというものがある。つまり、攻撃的な怒りというものがある。憎しみが混じっていたりする場合が多い。その憎しみは自分自身のことも毒す。また、自分の思うままにならないという自己中心的な性質から生まれた怒りもある。怒りはその人のたましいにダメージを与え、黒くするだけではなく、場合によっては肉体にも悪影響を及ぼす。不整脈や肝臓、胆のうのダメージ、筋肉痛、関節痛、下痢、胃炎、皮膚炎を引き起こすとも言われている。あの方が父親を赦して怒りを捨てたら、長年続いていた慢性湿疹が治ったという事例もある。私たちに必要なのは平安な心である。いつも怒っている人の周りに人は寄りつきたくなくなることからわかるように、それは愛の態度ではない。
第九は、愛は人のした悪を思わない。これは、悪を悪としないということではない。「思わない」ということばのもとの意味は、「数えない、記録しない」である。または「記憶しない、勘定しない」である。いつまでも相手にされた悪を、あの時にあれされた~、これされた~、と根をもって数え上げていないで、相手の悪を忘れようということである。「40年前にあんたが言った心ないことば、心ない仕打ち、死んでも忘れはしない。この文書にも書き留めてある。片時も離さない。棺桶にも、この書き留めた文書を入れて、冥土の土産に持って行く。あの世でも忘れやしない。いや、化けて出てやる~、恨めしや~」。嫌なことを言われた、されたということは可哀そうなことであるけれども、恨めしや~になってしまうのは、もっと可哀そう。こうした事例は枚挙にいとまがないわけだが、愛は人のした悪を思わないのである。
ある奥さんがうっかりして、ご主人の大切にしていた皿を割ってしまったそうである。そのお皿というのは、十枚セット一組で、ご主人が骨とう品市で数十万円で買ってきたものだった。ところが、うっかりしてその一枚を割ってしまった。「わ~、どうしよう。主人の怒る顔が見えてくる」。ご主人が帰宅したので、恐る恐る話したそうである。「ごめんなさい。今日、うっかりして一枚割ってしまって」。すると、ご主人は黙って立ち上がり、残りの九枚をもって来て、それを外で割ってしまったという。どうしたのだろうか。怒りが頂点に達したのだろうか。ご主人は割って、こう言った。「この九枚を残しておくと、お前のしたことをいつまでも思い出すだろう。だから忘れるために全部割ったんだ。これで終わり」。と、すがすがしかった。愛は人のした悪を数えない、記憶しない。そのことはなかったかのように忘れてしまう。
以上、お話してきた愛の姿は、私たちにとって大きなチャレンジとなる。今見てきた愛は、愛の贈り物そのものであられる、二千年前に降誕されたイエス・キリストに見ることができる。今日の個所で「愛」ということばを「イエス・キリスト」に置き換えて読むことができる・・・。
イエスさまは寛容であったので、社会から疎外され、見限られていた人々を受け入れ、彼らの変化を待った。一例を挙げると、当時、売国奴、半ヤクザとして嫌われていた取税人という職業人がいた。民衆は当然、彼らと付き合うことはない。当時の宗教家も。けれども、イエスさまは彼らを見限ることなく、彼らの友となり、非難されるのを承知で、彼らといっしょに食事までされた。
イエスさまは憐れみ深く親切だったので、孤独な人や、病人、貧しい人たちが、イエスさまの周りをいつも取り巻いた。イエスさまは彼らにパンを与え、病をいやした。
イエスさまにねたみというものは全くなかった。どんなに名誉ある地位をもつ人に対しても裕福な人に対しても、ねたむということはなかった。自分が周囲からどう評価されているのかということに関しても無頓着。褒められたとかけなされたとか、そういうことで一喜一憂されることはなかった。まことに自由人であられた。
イエスさまは、自慢せず、高慢にならなかった。それどころか、人として家畜小屋での誕生を選択され、寒村のしかも貧しい夫婦の子どもとなられた。イエスさまに威張る姿はなかったので、子どもたちにも好かれた。子どもは正直である。エルサレムに王として入場する場面があるが、当時の王の乗り物である馬には乗らず、荷物を運ぶろばの背に、しかも子ろばの背中に乗られた。そしてエルサレムにおいて、当時にあって一番卑しい死に方、奴隷や極悪人の処刑法である十字架刑に甘んじてくださった。イエスさまは低さの極みにまでご自身の身を置かれた。十字架刑というのは虫けら扱いの刑である。けれども、それに甘んじられた。神のひとり子という立場を捨て、罪人とご自身を一つにし、私たち罪人の身代わりとして、また代表として十字架についてくださった。それは謙遜の極みの姿である。
イエスさまは礼儀に反することはなかった。当時の意味のない陳腐な礼儀作法を無視して怒りを買ったことはあったが、人を人として扱うということにおいては、誰よりも丁寧で礼儀正しかった。相手が卑賎民だろうが、売春婦だろうが、敵とみなされていた種族だろうが、子どもだろうが、相手が誰であろうが、一人ひとりをかけがえのない高価で尊い人格として認め、丁寧に接して、祝福を与えた。むろん、差別という二文字はイエスさまにはなかった。自分に礼儀を欠く相手に対して、キレることもなかったし、ののしりのことばではむかうこともなかった。イエスさまは真の礼儀者であった。
イエスさまは自分の利益を求めなかった。ご自身を与え尽くす生涯であった。十字架刑はその最たるものである。ご自分のいのちを私たち罪人のために差し出された。キリストが私たちに与えようとされたクリスマスプレゼントはモノではなく、ご自身の尊いいのち、永遠のいのちである。
イエスさまは怒らなかった。どういう意味で怒らなかったのだろうか。義憤というものは当然持たれた。しかし、相手をどうにかしてしまいたいといった感情を込めて爆発することもなかったし、恨みや呪いの気持ちを込めて歯ぎしりしながら怒るようなこともなかった。十字架刑に処せられる死刑囚は、ふつう恨みや呪いのことばを口にしながら死んでいくと言われるが、イエスさまの場合、十字架の上で、ご自分を十字架につけた人たちに対して怒るどころか、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られた。
最後に、イエスさまは人のした悪を思わない、ということを覚えていただきたい。イエスさまはいつくしみ深く、赦しに富むお方。私たちが犯した罪を数え上げないで忘れてくださるお方。私たちはやがて一人ひとりが神の前に立たせられる時が来る。神さまは人類一人ひとりの罪の勘定書き、罪状書きを持っておられる。神の目に隠れおおせる罪はない。すべてがそこに書き留められる。この罪は裁きをもたらすものである。イエスさまはそこに書いてある罪を消すためにこの地上に降誕された。十字架の上で流された血は、その罪の記録をおおい、すべて消し去ってくださる。それゆえにイエスをキリスト、すなわち救い主と信じる者は、一度も罪を犯していない者であるかのように受け入れられ、天の御国に救い入れられる。
今年、皇太子が天皇に即位し、平成から令和に改元、代替わりが行われた。このことを記念して10月22日に「令和の恩赦」が行われた。恩赦の対象となったのは約55万人である。私はこの恩赦にキリストの恩赦を思った。キリストは私たちの恩赦のために、十字架にかかり、罪の身代わりとなってくださった。それは私たちの罪を赦そうとの愛の犠牲である。キリストによる恩赦は55万人どころではない。すべての人に向けられている。ただし、この恩赦を受けるには二つの条件がある。令和の恩赦に際して、罪を悔い改める気持ちもない者に恩赦を与えるなんて、という批判があったが、まず自分の罪を素直に認めることが必要である。もう一つは、キリストが神の救い主であり、私の罪の身代わりとなってくださったと信じることである。そうするならば、すべての罪は赦され、恩赦に与るのである。
私たちは、私たちの罪のために家畜小屋に生まれ十字架についてくださったイエス・キリストを、人生最大の「愛の贈り物」として心に受け入れて、クリスマスをお祝いしたいと思う。ふつう、家畜小屋のかいば桶に眠る赤子を見て、これが人類への神からの最大のプレゼントとはみなせないだろう。無力にしか見えないただの赤子である。けれども、羊飼いたちをはじめ、少数の者たちが、このお方が神からの最大の贈り物だと気づいた。私たちもそうでありたい。また本日の第一コリント13章のみことばを一つでも心に留めて、互いに実践したいと思う。