本日の箇所は、ペテロの手紙の中で最も解釈が難しいと言われている。いや、新約の手紙の中でも解釈が最も難しい部類に入る。出来うる限り、正統と思われる解釈を提示したいと思っているが、目指すことは、細部にこだわる余り、木を見て森を見ず、で終わってしまって、ペテロが全体として何を言いたいのかを見落とさないことである。ペテロはどのような苦しみの中にあっても、最終的にはキリストとともに勝利者になることができることを教えている。
前回17節において、「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」と、苦しみを受けている、またこれからも苦しみに遭うと予想される彼らを励まそうとした。ペテロは18節以降、苦しみに遭っている手紙の読者をさらに励ますために、同じく苦しまれたキリストについて言及する。
18節をご覧ください。「キリストも一度罪のために死なれました」。キリストの十字架刑である。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」。キリストの身代わりは私たちの罪のためであったので、私たちが「悪い人々」なのである。他人との比較においてはほどほど善人だと思っても、自分の胸に手を当てて自分の心を吟味する時に、神の前には恩赦を必要とする罪人であると知る。その恩赦を与えるために、キリストは私たちの罪を負い、身代わりとなってくださった。
キリストの身代わりの最終目的は18節後半に記されている。それは私たちを神のみもとに導くためであった。「肉において死に渡され」が十字架の死で、「霊において生かされて」が復活である。復活されたキリストは「神のみもとに導くためでした」とあるように、私たちを神のみもとに導くための先導役を果たされた。「導く」<プロサゲイン>と訳されていることばが重要で、この意味は「近づく」である。ユダヤ文化の背景で考えると、神に近づく特権をもつ者は、ただ祭司のみであった。祭司はご存じのように神と人との間をとりなす存在。またギリシャ文化においては、宮廷には人を王に近づけるという接見役がいた。この接見役の許しなしに、誰も王に近づくことはできなかった。私が何を言いたいかと言うと、「神に近づく」ということは人間の努力では一切不可能で、それを可能にしてくださったのは、私たちの罪のために十字架について復活されたキリストであるということである。そしてキリストは22節にあるように、天に昇り、神の右の座に座し、勝利者となる。キリストは苦しみ損の敗北者ではない。同じように、キリストを信じ、キリストに従う者も苦しみ損とはならない。14節で言われていたように、義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなのである。
続いて、難解と言われる19,20節を見よう。キリストの勝利の文脈の中で語られているということを心に留めながら見ていこう。先ず、この出来事はいつのことだろうかという問題がある。ノアの時代という説がある。キリストはノアの時代、御霊のかたちで、ノアを通してノアの時代の不従順な人々に福音を語ったのだと言う。しかし文脈上、何の脈絡もないというか、唐突な話になってしまう。また、十字架と復活の間という説がある。すなわち、金曜日と日曜日の間、キリストは死んで陰府に下り、ノアの時代に不従順だった人たちに対して福音を語ったのだと言う。この解釈に立って、ここは「キリストの陰府における福音宣教」と言われることがある。18節の時期について考察する時、陰府に下った時と限る必然性はない。なぜなら、18節で十字架と復活について言及されていて、「霊においては生かされて」と、復活のことが言われているわけだから、時間軸では、復活後のことと取れる。21節でも復活について言及されていて、22節では復活に続く昇天について言われている。時間軸では復活後と採ったほうが自然である。また19節冒頭の「その霊において」は原文で、霊に関する単語はなく、関係代名詞<エン ホイ>が置かれているだけである。関係代名詞は、先行する詞や、前の文全体を受けるものである。訳としては前の文全体を受けて、「その際」「その時」と訳せる(実際、そう訳している聖書がある)。つまり、復活した際に、という解釈ができる。
次に、キリストは誰のところに行ったのだろうか、という問題がある。これについては先に少し触れた。第一の解釈として、「ノアの時代の地上の不従順な人々のところに行った」がある。キリストはノアを通して語ったというのだが、ここはノアを介してではなく、キリストが直接語ったという印象がある。また対象者が「捕らわれの霊たち」と言われているが、これは監禁された霊ということで、神に監禁されているという表現である。地上で好き勝手やっている人たちを「捕らわれの霊」と表現するのはおかしい。またノアたちの場合は「八人の人々」と言われているが、ここでは「人々」ではなく「霊」と表現されている。ノアの時代の人々という気はしない。
第二の解釈として、「陰府の世界にいるノアの時代に不従順だった人々のところに行った」がある。キリストは陰府の世界に落とされた人たちに福音を語ったのだという。ある人たちは、ここから「セカンドチャンス」という言い方をして、死後にも救いのチャンスはあると教えている。しかし、聖書はそのような主張をどの書でもしてない。20節を見てみると、「わずか八人の人々が・・・救われたのです」とあるように、ペテロは救われる人は少なかったことを伝えている。ペテロがここで伝えたいのは、あなたがたもノアたちのように少数派で不当な苦しみを受けるかもしれないけれども、確かに救われると励ましたいのであって、死後にも救いがあることを言いたいがために、これらのことを書いているのではない。ノアたちは少数派であざけられ、ののしられただろう。けれども最後に勝利をつかんで救われたのは彼らだった。ノアたちの存在は私たちの励ましとなっている。
キリストは誰のところに行ったのだろうかの第三の解釈は「ノアの時代に存在していた堕落天使たちのところに行った」である。これが「捕われの霊たち」の最も自然な解釈となる。聖書は悪霊の存在を告げる。悪霊は堕落した御使いたちである。聖書は必ずしも「霊」というとき、人間の霊だけを指していない。それにまた、「捕われの霊たち」なのだから、良い霊ではありえず、悪霊が考えられる。ノアの時代は悪霊、すなわち堕落天使たちが跳梁跋扈して悪が増大したことが想像に難くない。彼らは裁きを受けたようである。それを裏づける重要な参考箇所が新約に二箇所ある。第二ペテロ2章4、5節、ユダ6節を開いて見よう。「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」これは過去にあった事実である。堕落天使たちはノアの時代の人々に働きかけ、神に逆らわせ、その結果、人々は悪に染まり、地上に悪は増大し、神の裁きは断行され、堕落天使たちにも裁きが執行された。
では、キリストは何を語ったのかという問題に移ろう。「捕われの霊たち」を人間と解釈する人たちは、19節の「みことばを語られたのです」を「福音宣教」と解釈する。事実、みことばを宣べ伝える福音宣教を意識して新改訳第三版は「みことばを語られたのです」と訳したようである。しかし、原文に「みことば」ということばはない。ここにはただ一つの動詞<ケーリュッソー>があるだけである。原語<ケーリュッソー>の意味は、「布告する、告げ知らせる、宣言する、宣告する」で、必ずしも、福音宣教だけを意味しない。このことばは、たとえば王様が、「こうなります」「こうします」と宣言、宣告するときに用いた。これを悪の諸勢力、堕落した御使いたちに対してであるとすると、彼らに勝利を宣言した、裁きを宣告した、ということになるだろう。新改訳2017はそれを意識して、「宣言されました」と訳し直している。キリストは十字架の死と復活によって私たちの罪を償われただけではなく、罪と死と悪魔に打ち勝ってくださった。この勝利のキリストは、これらの捕われの霊たちの上から、勝利と裁きを宣言、宣告されたと解釈できる。それを裏づけるかのように、22節は、悪の霊的諸勢力の敗北を確信させる勝利されたキリストの姿を描いている。
今、堕落した御使いのすべてが監禁されているわけではない。パウロはエペソ6章12節で言っている。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。ノアの洪水以後も、しぶとく活動している堕落天使たちは多くいるようである。悪の諸勢力の一部は監禁されているが、多くはまだ、天界と下界を行き来しつつ、罪人たちに働きかけているという印象である。この地上世界は、ノアの時代も今の時代も、神と悪魔の対立する世界、光の霊と闇の霊とがぶつかりあう世界、私たちはそのぶつかり合う奔流の中でもまれている。だからこそ、次の事実に心を留めておかなければならない。神と悪魔は同等の力でぶつかり合い、私たちはその狭間で翻弄されているというのではない。キリストは勝利を治められた。ゆえに「試みに会わせないで悪い者からお救いください」と祈ることができるし、この地上で不当な苦しみを受けたとしても、堪え損とはならない。私たちもやがて、キリストの勝利に完全に与るからである。天の御国に救い入れられ、キリストの栄光と地位を分かち合う者たちとなる。
続いて21節を見よう。ここでノアの箱舟は、バプテスマの型であると言われている。ノアの箱舟の物語は創世記6章からであるが、教訓として読むだけでも十分に教えられる内容であるが、ペテロは、箱舟の救いをキリストの救いの型として見るように教えている。箱舟の中の八人はクリスチャンに対応している。洪水の水はバプテスマの水に対応している。ノアの家族たちが水を通って救われたことは、クリスチャンの霊的救いに対応している。「あなたがたを救うバプテスマ」とあるが、バプテスマという儀式そのものがその人を救うわけではない。ノアたちのことを考えると、ノアたちは神の裁きが来ると確信し、その裁きから救うという約束を信じた。その信仰があったからこそ、周囲の人々に相手にされなくても、中傷されても、箱舟を造り、箱舟に乗ったわけである。だから信仰がノアたちを救った。箱舟はその信仰のシンボルである。信仰は目に見えるかたちとなる。ペテロはバプテスマを「正しい良心の神への誓い」と表現しているが、結婚式で誓いのしるしとして行う指輪交換と比較できるだろう。結婚することを誓っておきながら、指輪交換を拒否するということがあるだろうか。バプテスマは、キリストとの結婚式と思っていただければよい。指輪交換の代わりに、誓いのしるしとしてバプテスマを受ける。それはキリストに真実な心で忠誠を誓うことを意味しているわけである。
結婚は一心同体となることだが、バプテスマもそのことを表わす。バプテスマはそのかたちにおいて、キリストと一体であることを表わしている。水に浸めることは、キリストとともに死んだということ。水から上がるということは、キリストとともによみがえったということ。ペテロはバプテスマについて、「イエス・キリストの復活によるものです」と語っている。箱舟に入ったノアたちは、水をかぶって沈没して、全員滅んでしまった、ではなかった。彼らのいのちは救われた。同じように、バプテスマはキリストの復活の恵みに与ることを教えている。それは永遠のいのちの恵みである。今、この永遠のいのちの恵みに神は全人類を招いている。神の招きに応答して、救い主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受ける人は幸いである。
ペテロは続く22節で、キリストの復活後の姿を示している。「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力とを従えて、神の右の座におられます」。ペテロはキリストの高挙を示す。キリストの勝利と栄光の姿である。十字架の苦しみを経て、キリストは勝利の御座に着座されている。キリストに従う者たちも、最終的には、キリストの勝利と栄光に完全に与ることになる。キリストは黙示録において、ラオデキヤ教会に対して、次のような励ましのことばを与えている。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3章21節)。キリストはご自身の勝利の座に私たちを招いている。私たちはこの勝利と栄光を目指して、今の地上の時を忍耐し、みこころに服従することを選び取っていくのである。地上の旅のゴールは勝利と栄光に輝いている。それは苦しみでも、滅びでも、敗北でもない。罪も死も悪魔も無縁の、神ともなる世界、地位である。キリストは私たちと勝利を分かち合うために、天より下り、受肉し、人となって来られ、十字架にかかり、復活を成し遂げ、罪と死と悪の諸勢力に打ち勝ち、天に昇られた。キリストの勝利に心からの感謝をささげ、キリストの御名を高く上げよう。