今日のテーマはキリストを証することであるが、いつでも、どこでも、キリストを主としてあがめるという姿勢が欠かせないことを覚えていただきたいと思っている。キリストを主としてあがめる姿勢から、すべて望ましいことが生まれていくはずである。キリストを主としてあがめる、それがキリストの証人としての基本姿勢であると思う。
今日の箇所からキリストの証人としてなすべきことを、三つに分けて見ることができる。第一は、いつでも、どこでも、善を行うということである(13節)(17節)。ペテロの手紙は実践的命令で満ちているが、それを一口で言うと、「善を行いなさい」ということにもなる。前回学んだ8~12節は、相手が敵であっても祝福し、善を行うようにということであった。13節は8~12節のみことばを受けての発言である。通常は、善を行っていれば非難されはしない。善を行う人に害を加える人などいないはず、なのである。ペテロはしかも、「あなたがたが善に熱心であるなら」と、善に熱心であるなら、まして害を加える人はいないと言っている。例外があることをそれ以降の節で語っているが、善を行うということが証人として必要不可欠な姿勢である。ペテロは、これまでも善ということばとそれに類することばを何度も口にしている。2章12節で「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と命じている。そして2章15節では「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」と告げている。善を行う模範として、ペテロは、ののしられてもののしり返さなかったキリストを、2章後半で挙げている。善を行うことは見える証である。
第二に、人を恐れるのではなく、いつでも、どこでも、キリストを主としてあがめることである(14,15節)。14節前半は、善を行っていても例外として嫌な態度をとられる可能性があることが言われている。どうしてそういうことが起きてしまうのか。一つは、この世の人たちの道徳基準とキリスト者の道徳基準には違いがあるということ。当時のローマ帝国の道徳基準は極めて低かった。性的放縦はあきれるばかり。それだけではない。当時、皇帝から奴隷に至るまで賭け事に熱中して、至る所で賭け事が行われていた。戦車競走や剣闘士の闘技はかっこうの賭博の対象となった。スポーツ賭博に限っては法の対象外だった。ローマ市民に最も愛好されていたのはサイコロ賭博であった。宿屋でも共同浴場でも酒場でも行われていて、お役人たちは見て見ぬふりをしていた。このような調子だから、男たちが集まれば、賭け事で儲けたとか損したとか、そういう話が話題の中心となっただろう。居酒屋はどこも飲んべいで一杯。ローマ帝国は、酒と女と賭博の世界であったと言われている。このような社会にあって、神の教えに従って生きようとする時に、キリスト者は目立ってしまうことになる。もちろん、感心されることもあろうが、反対に、浮き上がって、非難されるのもやむを得ない。もう一つの要因は、キリスト者は偶像崇拝をしないということが挙げられるだろう。古代ローマは朝から晩まで、一日中神々と密着した生活であった。朝、神棚に頭を下げるところから始まって、一歩外に出れば、庭園、道脇でも神々は祭られ、職場でも祭られている。また一年の半分がお祭りであったと言われ、当然、神々が顔を出す。そしてローマ皇帝そのものが神として崇拝され、それを強要された。現代の日本以上に、偶像崇拝が盛んな環境にあった。偶像に頭を下げないキリスト者は非難されることが起きる。ペテロは、こうした非難、苦しみを、「しょうがない」とは言わない。ペテロは「幸い」ということばを使って、「いや、義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」と言い切る。それはキリストご自身の教えであった。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・・喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」(マタイ5章10,12節)。
とは言え、良く思われていないという環境にあると、人への恐れ、心の動揺が生まれやすい。ペテロは人への恐れで心を満たすのではなく、心の中で、キリストを主としてあがめるように勧めている(14節後半~15節前半)。私たちは脅かしを恐れるな、心を動揺させるな、と言われても、頭ではわかっていても、どうすることもできないことがある。秘訣は、心の中でキリストを主としてあがめること。すると、平安を取り戻せる。心の中でキリストを主としてあがめるということを習慣化しよう。
新改訳2017は「心の中でキリストを主としてあがめる」の「あがめる」を、「聖なる方とする」と訳しているが、ペテロが言わんとしたいことは「あがめる」ことである。「聖なる方とする」が直訳に近いが、原語で、「あがめる」は「区別する」という意味を持つことばである。つまり、キリストを主としてあがめるということは、キリストを神ではないものから区別して、他のいかなるものとも違う方として認めて、他の一切のものから区別して、取り分けて、高めて、唯一の主とすることである。
私たちは、心を動揺させるままにしておかないで、キリストを主としてあがめることを心がけたい。この、「心の中でキリストを主としてあがめる」という姿勢は、目の前にいる人に、キリストを口で伝える時の基本姿勢ともなる。キリストをあがめる心でキリストを伝えるということである。
第三に、誰にでも、いつでも、優しさと謙遜をもって証しするということ(15節後半、16節)。私たちは、「どうしてクリスチャンになったんですか」「キリスト教の教えはどういうものですか」と尋ねられることがある。そういう機会のために弁明する用意はしておきたい。「だれにでも、いつでも弁明できる用意をしておきなさい」とペテロは命じている。自分の救いの体験ということではスリーポイントで、救われる前の自分、どうして信仰を持ったか、救われてどう変わったか、これらを5分程度で証しできると良いと思う。自分の弱さや失敗、罪も正直に話せばいいと思う。また、カトリックとプロテスタントの違いを聞かれることも多い。批判的な態度ではなく、ただ事実だけ述べて説明すれば良いと思う。十字軍やその他のキリスト教界の不祥事について聞かれることもある。反感と偏見のことばを投げつけてくる人もいる。悪いことは悪いと、認めるべきことは素直に認めればいい。相手の思い違いについてはカッカせず、丁寧に説明すればいい。聖書に関するあの疑問、この疑問と、ぶつけてくる場合がある。分からないことは分からないと、素直に認め、謝ればいい。そして論争は避けることである。
ペテロはここで、生意気で傲慢な態度を戒めているようである。人々は聖書のみことばにつまずくというより、クリスチャンの態度につまずく。優しさ、謙遜さがなければいけない。「イエス様を信じないと地獄に落ちる」といった威嚇的な態度は良くない。また話している途中、反論が返ってくることがある。尖った言い方で返ってくることがある。冷笑されてばかにしているなと思う時も出てくる。そうした時、それは違うと言って、だんだんムキになって、平静なしゃべり方を見失っている自分がいたりする。相手が攻撃的になってくると、こちらも攻撃的になったりする。
「優しく」ということばは、新改訳2017において「柔和な心で」と訳されているが、3章4節では「柔和で」と訳されている。それとは反対に、高圧的になったり、威嚇したり、責めたりという態度はいけない。尖ったことばで返すこともいけない。どこまでも優しく、柔和に、である。「慎み恐れて」は欄外註の別訳は「恐れをもって」となっている(新改訳2017「恐れつつ」)。ここでは主を恐れることが言われているのか、目の前の相手を恐れることが言われているのか。「慎み恐れて」は、2章18節では主人に対する態度として「尊敬」と訳されている。いずれ、この3章16節から見えてくるのは、相手に対して生意気な態度や傲慢な態度はいけないということである。先に見た「優しく」(「柔和で」3章4節)と訳されていることばは、3章4節の講解メッセージの時に説明したように、「へりくだり」の概念を持つことばである。マタイ5章5節の「柔和な者」の欄外註別訳は「へりくだった者」となっている。私たちはどこまでも腰を低くして相手と相対し、証ししていくということである。
ペテロは「正しい良心をもって」と付け加えている(新改訳2017「健全な良心をもって」)。相手に対して怒りに満ちた心や人を馬鹿にするような心でもだめだろうし、自分を良く見せようと、事実を誇張して語るような心でもだめだろう。時に、そういうことがある。謙遜に、正直に語るわけである。
証しの手段ということも付け加えておきたい。ペテロの時代は直接話すという手段が主だった。手紙もあるにはあったが、そんなに誰でも書けるものでなかった。今は手紙がある。電話という手段がある。SNSという手段もある。お気に入りのキリスト教文書を携帯しておいて渡すという手段もある。バリエーションが格段と増えている。
これまで話してきたキリストの証人の三つの態度とは、「いつでも、どこでも、善を行うこと」「人を恐れるのではなく、いつでも、どこでも、キリストを主としてあがめること」「誰にでも、いつでも、優しさと謙遜をもって証しすること」。ペテロは、「そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう」(16節)と言う。「あなたがたの正しい生き方」の「正しい生き方」は、新改訳2017では「善良な生き方」と訳されている。「善良な生き方」と口での証しによって、相手も恥じ入るのだという。恥じ入る先に、もっと素晴らしい結果が待っているかもしれない。
本日のみことばの中で、個人的には、15節前半の「心の中でキリストを主としてあがめなさい」が心に留まった。心の中でキリストを主とあがめるということは、周囲にキリスト者が少ない環境にあって生活するのに不可欠な態度である。もし心の中でキリストを主としてあがめていないのならば、心の動揺という揺れはいつまでも治まらずに臆病な態度に出てしまったり、またねじれた態度や言動に出てしまうかもしれない。うっかり罪に手を染めてしまうかもしれない。
また、キリストを口で証しする時に、心の中でキリストを主としてあがめる、ということが無くてはならない。キリストは「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(マタイ10章33節)と言われたが、キリストをあがめる心がないのならば、こうなるだろう。そして、キリストをあがめる心で口を開くならば、キリストは御霊を通して語るべきことばを備えてくださるだろう。私たちは弁明の用意ができているといっても、時と場所と相手の違いによって、アプローチとか、語る内容が変わってくる。私たちが心をキリストに向ける時、知恵を与え、ことばを与えてくださるのではないだろうか。また、人を救いに導くのは、私たちの説得力ではなく、それはキリストの働きなのだから、キリストに心を向け、キリストをあがめることは欠かせない。
心の中で、キリストを主としてあがめるということは習慣化したい。私たちは神の神殿であると教えられている。だから、この新約の時代、建物としての神殿はない。神殿は礼拝と祈りの場である。その中心は主への賛美である。心の中でキリストを主としてあがめる、そのことを、朝起きてから眠りにつくまでの心の習性としたい。呼吸が無意識のうちの習性となっているように、「主をあがめます」と、そのことを心の習性にするのである。