相手が誰であるか関係なく、祝福を与える、それがクリスチャンの使命である。クリスチャンは祝福を与えるために召されている。ペテロは2章11節以降、この世の人たちの悪意の中で苦しんでいるクリスチャンたちに対して、この地上で神の民としてどのように生きて欲しいのかを具体的に教えてきた。今日の箇所は「最後に申します」で始まっている。それは、この手紙の最後という意味ではなくて、2章11節からの教えのまとめという意味である。ペテロは今日の箇所で、まとめとして、「あなたがたに悪意を抱く人々に対して、祝福を与えなさい」と命じている。何という教えだろうか。
今日の教えは、二つに分けて見ることができる。8節が教会内での態度、9~12節が教会外での態度である。では先ず、8節の教会内での態度を見ていこう。五つのことを見ることができるだろう。第一に、「心を一つに」することである。利己主義、個人主義が謳歌されるこの世とは反対の教えである。しかし、これは、個性無視のロボットのような団体生活を求めているのではない。「心を一つに」ということばを、英語では「ハーモニー」と表現することがある。これは良い表現であると思う。それはオーケストラを考えてみればわかる。楽器には弦楽器、管楽器、打楽器と様々である。また弦楽器といっても、バイオリン、チェロなど様々。管楽器といってもトランペット、ホルンなどの金管、フルート、オーボエ、クラリネットなどの木管と様々。打楽器もティンパニ、シンバルなど様々。楽器はそれぞれ異なっている。けれどもハーモニーが生まれる。私たちの教会生活も同じである。それぞれ、性格、個性、賜物、タラントが違う。好きなこと、嫌いなこと、興味等、同じではない。それでいい。いや、それがいい。それが組み合わさってハーモニーが生まれる。個々の能力の高い楽団だからといって、すばらしい演奏になるかと言えば、決してそうではないと言われている。つまり個人での演奏は上手でも、調和を考えない頑固で我の強い奏者は、全体での演奏を損なってしまうという。全体として同じ精神で、同じ方向性で演奏することを心がけ、その心構えの中で、個々の役割は何かを良くわきまえて演奏しなければならないという。各楽器の個性は、ハーモニーを生み出してこそ意味がある。それは教会でも同じである。
第二は「同情し合う」こと。原語では、「同じ感情を共有する」という意味がある。「苦しみをともにする」とも訳し得ることばである。この事に、みごと失敗したのはヨブ記に記されているヨブの友人たちであった。ヨブは天災に遭い、人災に遭い、すべてを失い、しまいには体の肉が崩れていき、痛みと痒みを伴い悪臭を放つ重病にかかった。ヨブの友人たちは自分たちの頭脳を使って、ヨブに降りかかったこれらの災いの分析を始めたが、ヨブの心のうめき、その苦悶を分かち合うところまでいかなかった。大変な様子だという反応は示すも、やがてイライラがつのり、しまいにはヨブを責めだした。ヨブは彼らの分析と非難に飽き飽きして、途中、こう語った。「あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ、神の御手が私を打ったからだ」(19章21節)。しかし、あわれむことばは返ってこない。友人たちは相変わらず的外れの分析を続け、ヨブを非難するだけで、ヨブの痛み苦しみの感情を分かち合おうとしない。最後のほうで、神はヨブの友人のひとりにこう語る。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかったからだ」(42章7節)。東日本大震災の時なども、分析好きな人はけっこういたようである。
第三は、「兄弟愛を示す」ことである。「兄弟愛」と訳されていることばは以前お話したように、「暖かい愛情」を意味する<フィレオー>から生まれたことばで、「家族愛」と言っていいことばである。前にも述べたように、教会は会社のような一組織ではなく、家族である。会社に出かけ組織の一員として過ごしても、家に帰ってきて家族の輪に入ったら、私は組織の一員だという認識はもたないだろう。私たちは家族である。
第四は、「あわれみ深い」こと。新改訳2017では「心の優しい人となり」と訳している。このことばは、ガチガチの訳をすると「はらわた(内臓)が健康な」となる。はらわたは感情の座と考えられていたようであるが、私たちのはらわたは健康だろうか。健康的人間はあわれみ深いということである。
第五は、「謙遜」である。新改訳2017では「謙虚」と訳されている。ギリシャ人にとっては謙遜は美徳ではなく、意志の弱いこととして受けとめられていて、余り顧みられることはなかった。けれども、人間というのは、神に造られ、神の恵みで生かされている土の器にすぎない。また誰しもが神の前に罪人である。そうした聖書の人間観が広がるにつれ、謙遜に対する見方は変わっていった。
謙遜に関して、古代教会の賢人たちの逸話、ことばも参考になる。アントニオスという指導者がいた。彼は人々の間で賞賛されているキリスト者とたまたま出会ったとき、彼が侮辱に耐え得るかどうかを試した。彼がそれに耐えられないのを見ると、アントニオスは、その侮辱に耐えられなかった者に言った。「そなたはちょうど、正面は立派に飾り立てられていても、裏側は盗賊に荒らされている村のようだ」。侮辱に耐えられるかどうかも謙遜の一つのテストになる。また次のことばが残されている。指導者ポイメンに弟子が質問した。「高ぶることとは何ですか。」「裁くことである」。単純明快な答えである。裁いているならば謙遜ではないということである。そして、それは不和をもたらす。オールという指導者は言った。「高ぶりや傲慢な考えが心に入り込むたびに、そなたがすべての掟を守ったか、敵を愛しているか(マタイ5章44節)、彼らの失敗を悲しんでいるか、自分が役に立たないしもべであり(ルカ17章10節)、すべての人の中で最大の罪人であると考えているかどうかを見るために、そなたの良心を調べよ」。私たちはみことばによって自分を調べ、自分の罪や至らなさを素直に認め、また、みかけは自分の力でやり遂げたようであっても、すべては神の恵みなのだということをしっかりわきまえたい。私たちは高ぶり、傲慢の罪をとりわけ警戒したい。
では続いて、9~12節の教会外での態度について見ていこう。当時はやられたらやりかえすのが常識のような社会であった。ここでは報復の禁止どころか、「かえって祝福を与えなさい」と命じられている。信じられないような命令である。だが、キリスト者はこれを当たり前のこととして受けとめなければならないのである。
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」(9節前半)という態度は、キリストご自身がそうであった。2章23節を見よ。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」とある通りである。キリストは人格が傷つけられるようなことを言われたり、虐待されても、同じことを返さなかった。そして3章9節の特徴は、続く後半の「かえって祝福を与えなさい」である。
聖書で「祝福する」と訳されている<ユーロゲオー>ということばは、「良い事」と「言う」ということばの複合語(合成語)。よって「良い事を言う」という意味がある。そこから「ほめる」「感謝する」という訳も当てはめられることがある。感謝を表したり、ほめることはしていると思っている私たちでも、故意に悪を行ってくる人たちに対して、侮辱してくる人たちに対してはどうかということが問われてくる。私たちは、復讐の連鎖は断ち切っている、相手をぼろくそにけなして鬱憤を晴らすことはしていないと言っても、もっと積極的な態度が取れているのか、すなわち相手を祝福しているのかということが問われる。キリストは言われた。「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6章28節)。その人を祝福してください、と神さまに祈っているのか、良いところはほめているのか、謙虚に礼を尽くしているのか。パウロも命じている。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12章14節)。
この祝福するという姿勢は「良いことを言う」で終わるのではなく、「良い事をする」に進むだろう。キリストは言われた。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者には善を行いなさい」(ルカ6章28節)。パウロも命じている。「誰に対しても悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」(ローマ12章17節)。仕返し、報復の連鎖は断ち切り、祝福をプレゼントするのである。そうすることがキリスト者の証しでもある。私たちは、ただ祝福を与えるために召されている。それ以外ではない。キリスト者が人の悪口を言ったり、ののしったり、仕返ししたりはアウトである。誰に対しても祝福を与えること、それがキリスト者のミッションである。
ペテロは言う。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです」(9節後半)。「受け継ぐ」ということばは1章4節で使用されている。そこでは、キリスト者は天の資産を受け継ぐ者であることが言われている。ここでは、敵を愛し、祝福する心を受け継ぐと言うことができるだろう。のろいの精神を受け継ぐ、ではない。しばし、そうしたのろいの精神が、その家系に、その民族に受け継がれる。負の連鎖である。悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報いる。だが、キリスト者になることによって、それを断ち切り、祝福の通り良き管となるのである。
江戸時代に「恩送り」と表現されて、庶民の間に広がった慣習があったそうである。「恩送り」とは、誰かから受けた恩を、自分は別の人に送り、そしてその送られた人がさらに別の人に送る。このようにして「恩」が人から人へと伝わり連鎖を起こす。「お互い様」という表現も、この辺りから出てきているらしい。聖書が語る「恩送り」はさらにレベルが高い。気の合う人には恩送りをしやすい。しかし聖書は、気の合わない人に対して、自分の敵に対しても「恩送り」を実践するように命じている。恩の出所、祝福の出所は神さまである。神さまは悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるあわれみ深い方である。そして、私たち罪人の罪を赦そうとして、御子を十字架につけられた。キリストは十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈られた。そして祝福の基となられた。
では最後に、10~12節を見よう。この箇所は詩篇34編の引用であるが、これは決して唐突な引用ではない。少し観察するとわかるが、人を祝福する者は神によって祝福され、人を祝福できない者は神から祝福されない、という教えを見出すことができる。11節にあるように「悪から遠ざかって善を行い」と、相手が敵であっても善を行い、「平和を求めてこれを追い求めよ」と、報復、仕返しではなく、「平和を求める」のである。それは負の連鎖、悪の連鎖ではない。そして12節において、神さまは、祝福する精神のある人を正しいと認められ、その人の祈りを聞き入れられるが、そうでない者には立ち向かわれることが言われている。参考までに詩編109編17節を開いてみよう。「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました」。私たちはのろうことではなく、祝福を愛することを選び取りたい。
今日のテーマは祝福を与えることである。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を与えるために召されたのだからです」(9節)。祝福するといっても、相手が極悪人であってもですか、ものすごい敵意しか向けてこない人に対してもですか、被害を私に与えた人に対してもですか、こちらが祝福を与えてもさらに攻撃してくる人に対してもですか、それはあんまりではないですか、という疑問が自然に湧いてくることがあるだろう。私たちはキリストがどうされたかを忘れてはならない。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、<正しくさばかれる方にお任せになりました。>」(2章22節)。悪に対する裁きはキリストがそうされたように神に任せればいいのである。そうして、私たちは自分たちに与えられた使命、祝福を与えることに徹すればいいのである。私たちは、祝福を与えるためにだけ召されている。祝福を与える対象に例外はないことを心に銘記しよう。皆さんが心に葛藤を覚える人たちに対しては、その葛藤を神に告げ、聖霊の助けをいただき、祝福の祈りをささげることから始めよう。