前回は1~6節より、妻に対する教えを学んだ。夫に対する教えは7節の一節だけである。妻に対する教えのほうが夫に対する教えより六倍も長いのは奇妙に思えるかもしれないが、当時は夫より妻のほうが厳しい社会状況に置かれていたということが挙げられる。古代において女性の権利などなかった。あっても余り認められなかった。こうした事情は東洋にも言える。仏教、ヒンズー教、ジャイナ教といった、東洋の主な宗教の男女観を見ても、完全なる男尊女卑である。原始仏教には「変成男子」という教えがあって、女は女のままでは救われないから、仏様によって男に変えていただかなければ救われないと教えている。よって極楽浄土は女も男に変えられているから、完全な男性社会というわけである。しかし聖書では、男女の霊的権利は平等であると謳っているし、夫婦の教えを見ると、どこを見ても、相互責任、相互義務について語っていて、今日の箇所を見ても、女性を尊んだ男の責任という、当時の価値観にないものを語っている。ただの一節と短いが、大切な教えが凝縮されている。
妻に対する教えでは、キリスト者の妻のパートナーの多くが異教徒、未信者という当時の事情を汲んでのものであった。ところが7節では、夫も妻もキリスト者という印象が強い。不思議なことに、初期キリスト教の文献では、妻がキリスト者という場合、夫は未信者というのが多いのだが、夫がキリスト者の場合、妻が未信者という記録はほとんどないそうである。考えられることは、妻のほうが先に救われて、その後に妻の感化で夫がキリスト者となったケースが多いのではないかということ。また考えられることは、教会には女性が多いので、キリスト者の男性はパートナーを選ぶのに苦労しなかったということである。前回、お話したように、当時の社会において、男性のほうが圧倒的に多かった。女の子は生まれてすぐに間引きされてしまうことが多かった。男性が多く、女性が少ないという社会。ところが、教会ではその比率が逆転し、女性のほうが多かった。女性は60%ほどであったという。女性の多い共同体、それが教会。それは昔も今も変わらない。
文章は「同じように」で始まっている。これは妻が夫への責任を果たすように、夫たる者も責任を果たしなさい、ということである。妻たる者の責任は、「服従」というこことで要約されていたが、夫たる者の責任は「保護」と「尊敬」と言えるだろう。
「わきまえて」と訳されていることばは「知識に基づいた理解」を意味することばであるが、新改訳2017では「理解して」と訳している。理解すべき知識とは「妻が自分よりも弱い器である」ということ。これはどういうことなのだろうか。前回6節では、真の妻は、どんなことをも恐れない強さを持っていることを学んだ。母は強し、などとも良く言われている。確かに、女性のほうが精神的に強いと思えることがある。ここを良く見ると、「自分よりも」ということで、つまり夫よりも弱い器であると表現されている。比較級である。夫も弱いけれども、妻はなおさら弱いということになる。とにかく妻は弱い器。では、この弱さとは何だろうか。
私は大学一年生の時、知らんぷりして上級生のクラスの授業に出たことがあった。お忍びで友だちと教室に入って、後ろのほうに座った。何の授業だったか忘れてしまったが、話は覚えている。黒板に男女の体を描いて、仕組みの違いを説明しながら、女は男より馬鹿なんだという話をとうとうとしていた。クラスを見渡すと、女性もかなりいる。怒り出す女性はいないのかと思いながら聞いていた。男が聞いていても腹が立ってくる内容だった。日本の古いことわざには「女の一番賢い者も男の一番馬鹿な者より下である」がある。
ペテロがここで言う弱さとは、知的弱さや愚鈍さのことではない。特に「からだ」が意識された弱さである。「器」と訳すことばは「からだ」を指すことばである。このことばは、その人本人を指すことばでもあるので「弱い者」という訳も可能であるが、「からだ」が意識されていることはまちがいない。男女を比較すれば、男性のほうが肉体的は強い。女性のほうが長生きではないかと言われるかもしれないが、力は弱いし、スタミナは一般的に乏しい。また特に出産前後は弱くなっている。それをわきまえれば、夫は重い荷物を担いであげるとか、様々な危険から守ってあげるとか、必要な手助けをしていくことが考えられる。このからだの弱さに付随して、気持ちの弱さも挙げることができるだろう。称賛に値する女性は、6節で見たように、どんなことも恐れない肝っ玉を持っているが、女性のほうが平均して繊細であるし、一匹の虫で騒ぐとか、すぐに恐がるところがある。一般的に、男性のほうが女性より勇猛で果断迅速な判断ができる。
ペテロは、妻が自分よりも弱い器であることを理解して、「ともに生活する」ように忠告している。「ともに生活する」とは、「一緒に住む」「一緒に暮らす」ということばである。当然それは、同じ屋根の下で暮らすことであるので、別居とかはありえないし、単身赴任も最低限にしたい。そして実は、「ともに生活する」ということばは、形だけ一緒に過ごすことを意味していない。創世記2章24節には「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」という結婚の制定があるが、「ふたりは一体となるのである」ということを文字通り生きることなのである。それは精神的な慰めを与えあう関係でもあり、妻にとっては安心感を覚える関係である。と言いつつ、「亭主元気で留守がいい」という本音?みたいなことを聞くことがあるが、亭主の食事作るのがめんどう、一日ゴロゴロされていても困る、ひとりになる時間が欲しい、そういうことも理解すべきなのだろう。子どもが小さい時は、「早く帰って来て」にもなる。育児が大変なわけである。こうしたことも理解すべきである。「理解して」を踏み込んで、「思いやりをもって」と訳す方がおられることも付け加えておきたい。いずれペテロは、「弱い器であるということを理解して妻とともに生活する」というのは、夫の側に「保護」という責任を教えたいのだと思う。理解して保護するということである。守るということである。これが一つ目の責任である。DVとかは問題外である。
夫たる者の責任の二つ目は「尊敬」である。これは当時のローマ社会にもない画期的な教えである。ローマの夫は妻に対して、個人的折檻や鞭打ちの権利も持ち、妻の姦通を発見したときは殺しても良かった。古代世界はローマ帝国に限らず、ユダヤ教社会でもどこでも男尊女卑。7世紀に始まったイスラム教ではそれが現代に至るまで続いている。
この世でも、尊敬ということについて言われるが、尊敬の秘訣は相手の欠点を見るのではなく相手の長所を見ることと言われたりするが、ペテロは信仰者ならではの視点から尊敬について語っている。それは「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として」という視点で尊敬について語っているということである。「いのちの恵み」の「いのち」とは「永遠のいのち」のことである。それを「ともに受け継ぐ」と言われている。ペテロは「ともに生活する」に次いで「ともに受け継ぐ」と、「ともに」「ともに」と強調して、夫婦の一体性ということとともに、社会的身分の低い女性を「男性とともに」と引き上げている。男女は機能的に役割は違うが、霊的には平等で対等である。妻は、ともに永遠のいのちという高貴ないのちを受け継ぐ存在であるゆえに、尊敬すべき存在ということになる。妻は弱い器であるけれども、自分と同じように、ともに永遠のいのちを受け継ぐということにおいて、高価で尊い器ということになる。それは神に献上される器である。土を練って作った焼き物を見て、たいしたことのない田舎の工芸品と思っていたら、これは天皇に献上されたものです、と言われて、ええ~っ、ということになり、見方がまるで変わってしまうということが起きるかもしれない。ようするに、相手を神にあってどう見るのかということが問われる。
7節後半は、この尊敬がないがしろにされると、祈りが妨げられることが言われている。「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」。妻を尊敬してないと、神さまとの関係にヒビが入るということである。だが、ここで「あなたがた」と言われているので、夫ばかりが意識されているのではない。夫と妻の両方である。夫婦両者の間に平和がないと、結局、神との関係も妨げられてしまう。
最後に、参考として、マタイ5章21~26節を見て終わろう。ここは神にある兄弟姉妹間の教えだが、夫婦間に適用できるわけである。ここは尊敬しない言動に出てしまったがために、相手がおもしろくない感情で満たされる、結果、神さまとの関係も壊れるといったことが暗示されている。23節に「恨まれている」ということばがある。このことばは、原語において、「自分と反対のことを思っている」という表現であり、自分と考え方が違って反対のことを思ってしまう、反対の立場にあるからこそ、わからんやつだと、怒り、さげすみ等が生まれる。夫婦なら、大方、これを経験するだろう。「自分と反対のことを思っている」「考え方にズレがある」「自分と反対の立場を表明している」。だからすっきり解決しないで長引いてしまうことにもなる。お部屋のカーテンの色をどうするかなんていうのはまだ可愛いほう。子育ての考え方、放射能の影響の受け止め方、こうしたことですれ違いが生まれ、喧嘩になったりする。自分の主張というのはあるわけだが、互いに相手の主張に耳を傾けて理解する気持ちを持つ、その上で話合うということがなく、えんえんと自己主張を続けるだけなら、神さまとの関係も立ち行かなくなる。互いにその主張を理解し合い、まちがっていたことは認め合い、赦し合い、あるところは譲り合い、また忍耐することに決め、平和を回復することである。
妻のほうが愚かしい事態の要因を作ってしまうということは確かにある。あの時、ちゃんと考えてやってくれていれば、こんなとばっちりを食うことはなかったんだと。あのアダムとエバの事例がそうだった。神が禁じた禁断の実に最初に手を伸ばしてしまったのはエバ。エバは夫にもその実を食べさせる。アダムは後になって、エバに向かって、お前がちゃんとしていないからこうなったんだ、とエバに文句を言っても仕方がなかった。アダムは神に責任を押しつけるような発言もしている。「あなたがわたしのそばに置いたこの女が」と口答えしている。けれども、神はアダムの責任のがれを認めない。神はアダムの責任というものをアダムに突きつけ、それ以上口答えをすることを許さなかった。聖書はアダムの罪ゆえに全人類に罪が入ったことを証言している。つまりは、夫は家庭のリーダーということである。家庭のリーダーは家庭のどういう事態にも責任を持たなければならない。責任のがれは許されない。このことも、大切なこととしてつけ加えておきたいと思う。