3章に入り、妻と夫に対する教えが登場する。しかし良く見ると、夫への教えは7節のただ一節しかない。そして妻への教えは六節も費やされている。妻に対する教えのほうが6倍も長いのは奇妙に思えるかもしれない。奥さんたちは不満かもしれない。不公平にも思える。夫のほうを長く書いて欲しいという方もおられるだろう。しかし、それには理由がある。それは当時の社会では、夫よりも妻として生活するほうがより困難であったからである。古代社会では、妻は何の権利ももっていなかったと言って良い。妻は夫の持ち物のような社会。時と場所によって違ったが、どうするも夫の自由のようなところがあり、妻は夫の権力化にあり、夫はどんな些細な理由でも妻を離縁することができた。夫に隷属することが妻のあり方であった。古代文明の全体的な態度は、女性は自分でどんな決断もしてはならないというものであった。夫の意のままに生活するのが当然。どの神さまを信仰するのかも夫の意に沿うのが当たり前だった。このような風潮において、夫が先祖の神々に対して信仰を持っているのに、妻がキリスト者になれば、その妻の立場はどうだろうか。勇気をもってキリスト者になった妻にとって、人生がどれほど厳しいものとなったかを知ることは、想像に難くない。それは現代人の妻以上の厳しさがあったであろう。
明らかに1~6節の忠告は、夫が未信者の場合を想定している。妻だけがキリスト者である。こういうキリスト者女性が多かった。では、なぜ妻だけがキリスト者で夫はそうではないのか。幾つかのケースが考えられる。女性が結婚した後にキリスト者となったというケースが一番多かったと思われる。次に、すでに結婚前からキリスト者であったけれども、親が決めた未信者の男性と結婚させられたというケース。古代ローマは家父長制が支配する時代で、女性はずっと家父長の支配化に置かれていた。家父長は自分の都合で娘を離婚させて他の男と結婚させたり、娘が意に染まぬ相手と結婚した時は娘を殺してしまうこともあった。この頃は、殺すといった過激なふるまいは無くなってきたと思われるが、いわゆる親が決めた人と結婚するというのは当たり前の感覚だった。本人の意思というよりも家の事情で結婚させられた。自分から未信者の男性を選んでしまったというケースもあったかもしれないが、それは少なかっただろう。
当時の男女の人口の比率は、地域によって違うが、多い所では、30~40%も男性のほうが多かった。徳川時代の江戸のようなものである。女児や障害をもつ男児を生まれてすぐ殺したり遺棄したりするのは合法として、道徳的にも問題なく受け入れられていた。堕胎や中絶も普通であった。今述べたように、望まれない女の赤ちゃんを殺していたので、家族で二人以上の女児を持つことは稀であった。男性優位社会だったので女児の生存を制限していたのである。
女性が少ない社会ということは、女性は結婚が義務といった風潮が支配していたことになる。それを証するかのように、やもめは、一般社会では法律的にも再婚を強いられた。キリスト時代の皇帝アウグストは、やもめは二年以内に結婚しなければ罰すると法律で定めた。
女性の結婚年齢は若かった。法律的には12歳で結婚が可能とされていたが、ある研究によれば、14歳以前に44%の女性が結婚していたと言う。18歳以上が37%。このように早婚であったので、結婚してから信仰を持つという女性の割合が高くなるのは当たり前である。
そして13,14歳の娘が30~40歳の男性と結婚させられるケースはざらにあったので、年齢差から言っても、女性は弱い立場に立たされた。現代は10代で結婚するケースはまれになってきているし、自分の意志で結婚するケースがほとんど。男性との年齢差も昔ほどではない。また女性の人権を社会全体で認め、保護しようという時代になってきた。しかしながら、ペテロの教えは現代でも十分に通用する。神のかたちに似せて造られた男女ということは変わっていないし、神のみこころにかなう夫婦関係というのも変わることはない。そして、異教徒を夫に持つキリスト者の妻のあり方というのも、時代は変わってもふさわしいあり方は同じである。
ペテロは異教徒を夫にもつキリスト者女性を念頭において書いているわけだが、この妻の教えは、すでに夫もキリスト者である女性に適用できる。さらには、父親が未信者の娘にも適用できる。またさらに、釈義をして思うことは、全女性に適用できるということである。では、鍵となる5つのことばを取り上げ、妻への教えを見ていこう。
1.「服従」(1節)
1節は「同じように」で始まっているが、それは2章18節の「しもべたち」が意識されている。「しもべたち」とは召使いの奴隷のことを意味する。奴隷は権利なき主人の所有物である。奴隷という立場の者がキリスト者となった場合、主人の扱いがさらに厳しくなることが予測された。だからペテロは21節以降、キリストの受難を引き合いに出して、キリストの模範に生き、忍従するように、それが神を証しする生き方なのだからと教えた。当時の社会にあって、女性は奴隷に次いで権利なき存在である。ある意味、奴隷に次いで人生は厳しいものになる。だからペテロは、奴隷の次に女性を取り上げているのだろう。
ペテロは、あなたたちの立場は弱く辛いものであるから、それに負けないで口うるさく噛みつきなさい、いやだったら、がまんせず早々と離婚しなさい、とは言わない。聖書は、キリスト者である妻はその夫が彼女を追い出さない限り、その異教徒の夫のもとにとどまっているように教えている。命の危険を感じたりしたら話は別だと思うが。聖書は男尊女卑を認めていないのだが、かといって、夫婦は男女同列の同居人という立場にも立たない。ペテロは、妻は夫の助け手であるという明確な立場から教えようとしている。そして明らかに、夫の救いを念頭において教えようとしている。異教徒の夫は福音のメッセージに関心がないか、あるいは福音のメッセージに反対しているかのどちらか。そこでペテロは、妻はどうしなければならないのかを教えたい。
「自分の夫に服従しなさい」。だが、夫とは信仰の立場が違っている。夫の拝む神々を拝んだり、手を合わせることはできない。当時、宗教の分野でも妻は夫に合わせることが常識とされていた世界にあって、それをしないということは、夫の機嫌を損ねることになるということは目に見えていた。では、どうしたらいいのか。隷従の世界を生きるのか。そうではないだろう。ようするに、信仰の点では妥協できないが、それ以外のことでは可能な限り、夫に仕えていくということである。助け手という立場から。ある方はこの服従ということにおいてこう語る。「それは夫の必要は何であるかを良く考え、それらを満たすことである」。わかりやすくて良い定義であると思う。今、夫の直面している問題に対してどんな助けができるのか、どんな生活面の助けができるのか、精神面の助けができるのか、夫の健康面にどんな配慮ができるのか、といったことを良く考え、それに応えようとすること。だから、この「服従」とは家畜のそれとは違い、自発的な愛の服従なのである。自ら進んで為す、夫の必要に応える愛の服従である。
2.「無言のふるまい」(1節)
これは無口の奨励ではない。単に、口数少なくとか、神さまのことを一切語ってはいけないとか、そのようなことを言いたいのではない。「無言の」ということばは「ふるまい」にかかっている。重視されているのは「ふるまい」ということばで語るということである。キリスト者らしい立ち振る舞い、愛の実践、仕える姿勢を見せるということである。夫に何か言われて「あなただってそうじゃないのよ」と言い返すことは簡単だが、その前に、ペテロが言う「ふるまい」を吟味し、ふるまいということばで語るということである。夫はそこに神の教えを見ることになる。
3.「神を恐れかしこむ清い生き方」「神を恐れる純粋な生き方~2017訳」(2節)
古代ローマ社会の記録を見ると、夫の妻への裁断は厳しく、妻が酒を飲んでいるのを見て、許しがたいといって殺してしまったとか、妻がヴェールをつけないで外出するのを一度見ただけで離婚したとか、唖然とするものもある。だが「神を恐れかしこむ清い生き方」は夫の非難を断ち切る。「清い」と訳されていることばは、道徳的清さ、特に性的な意味での清さが意識されているかもしれない。この時代、性的にだらしなかったのは、実は男性だけではない。人妻たちの愚行も目立っていた。けれども、神を恐れる女性はそうはならない。確かな品性を求める。
4.「心の中を飾る」(3,4節)
ペテロがここで装飾について教えているのは、それなりに理由がある。古代世界の女性には、どんな公的な生活にも参与する権利はなかった。公職につくとかもちろんできない。だから楽しんだり、時間を費やしたりという関心は、必然的に装飾のほうに向かっていった。女性の髪形はこの頃、多様になったと言われている。紀元前1世紀には髪を中央で分けて後ろでまとめ、襟足をゆるやかな巻き毛にしたり、カールして垂らした。この当時の皇帝ネロの妻ポッパエアの髪形もそうであったと言われている。1世紀末には、前髪をカールして、それを三日月型の針金枠に取付けた「オルビス」という髪型が流行した。様々な変形も生まれ、王冠に似た複雑な髪形も登場するようになる。髪の毛は赤褐色に染めたりもした。半かつらや全かつらも使用された。髪飾りには、ヘアネット、花飾り、ヘアピンなどが使われた。ヘアピンも象牙や、金銀製もあった。そして頭部にビーナスや蝶の羽をもった少女、古代エジプトの女神イシスなどのデザインを施したり、宝石をはめ込んだりしている。そして真珠の耳飾り、宝石の指輪が好まれた。着物は紫色が好まれた。
お化粧熱も上がっていた。このペテロの手紙時代の、先に述べたポッパエアだが、美肌を保つために、100頭のロバを飼い(500頭説も)、ミルク風呂に毎日入った。ロバのミルクは美白パックにも使用。そして肌を白く化粧したあと、唇染め、ほほ染め、まつ毛、眉染め、爪のマニキュア、爪は「龍の血」と言われるヤシ科植物の実の樹脂に羊の油を混ぜて染めた。おくれ毛には脱色剤を使った。これらを100人の使用人に、各行程ごとに施術させた。彼女は古代ローマを代表する美貌の実践者であったと言われている。この頃、貴族の間では香料熱が高まっていたことも知られている。ポッパエアは、マッコウクジラから採った香料を好んで使っていたらしい。また当時は、つけぼくろが大流行していたらしい。ポッパエアも実践者で、「たくさんのつけぼくろが彼女の美しい顔をおおった」という記録も残っている。こうした化粧熱、装飾熱がキリスト教の世界にも入り込んで来ていて、ペテロはその辺りも汲んで忠告しているようである。外面を飾るよりも内側を飾りなさいと。
「心の中の隠れた人柄」「心の中の隠れた人~2017訳」は「朽ちることのない」と言われている。外面的美しさはやがて朽ちてしまう。美白といった肉体的美しさも、外面的装飾も、衣服も朽ちてしまう。美人といってもやがては骸骨、骨になれば大差ない。ぺテロは朽ちることのないものを、具体的に、「柔和で穏やかな霊」と呼んでいる。
「柔和」<プラーユス>ということばは、八つの幸いの教え、マタイ5章5節でも使用されている。そこを開いていただければ、「柔和な者」の別訳が欄外註にある。「へりくだった者」、そう、<プラーユス>にはへりくだりの概念がある。キリストご自身が、「わたしはプラーユスである」と言っている箇所がある。マタイ11章29節のキリストの自己紹介の箇所である。「心優しく」が<プラーユス>である。以上のことから、「柔和」には「へりくだり、優しさ」といった意味があることを知っていただけたかと思う。反対の性質は、横柄さ、冷たさということになるだろう。
「穏やかさ」<ヘースクイオス>は、「静かな」「落ち着いた」と訳せることばである。第一テモテ2章2節では<ヘースクイオス>が「静かな」「落ち着いた~2017訳」と訳されている。イライラ、カリカリとは反対の性質のことである。
5.「サラの子となる」(5,6節)
ペテロは、従順、無言のふるまい、神への恐れ、内面の飾りといった敬虔さの特徴を持つ女性として、アブラハムの妻のサラを模範として取り上げている。アブラハムの旅は過酷な長旅であった。けれども、サラは夫が選んだ過酷な旅にも、そう不平は言わず従った女性である。創世記にはアブラハムとサラの物語が記されているが、サラも人間であるゆえに欠点ある女性であったことがわかるが、トータルすると、すばらしい信仰者であったことはまちがいない。「アブラハムを主と呼んで従いました」とあるが、「主」はヘブル語の<アドン>に対応し、神さまに対してだけではなく、上に立つ支配者一般に対しても使用されることばである。だから別に、サラはアブラハムを神さまにしたということではない。彼女が自分を仕える側にしっかり置いた呼び名である。「主人」と訳しても良いが、男尊女卑のニュアンスで受け止められる可能性もあるし、現代では「主人」ということばの意味は骨抜きにされている感もあるので、「しゅ」または「あるじ」でも良いだろう。
サラの夫アブラハムは「信仰の父」と呼ばれている。そうすると、サラは女性にとって「信仰の母」ということになる。だから「サラの子」という表現も生まれるわけである。注意深く見ると、ここで信仰を持つ女性は「サラの子である」と言われているのではなくて、ある一定の条件を満たせば、「サラの子になる」と言われている。「ある」と「なる」の違いがある。「サラの子になる」ことをペテロは求めている。そうなる条件は何だろうか。これまで見てきた四つの特徴を満たせばよいということは言えるわけだが、6節では「どんなことをも恐れないで善を行う」という条件を挙げている。「どんなことも恐れないで」ということばが目を引く。柔和で、へりくだって、穏やかで、落ち着いた女性は、実は、どんなことも恐れない女性なのだと言う。それはどんなことにも物怖じしない、肝っ玉が据わっている女性なのである。おびやかすもの、怖がらせるものが何であっても恐れない。彼女が恐れるのは神だけである。2節に「神を恐れる」とある通りである。この人は、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」(箴言29章25節)とある通り、人をも恐れない。ある意味、夫をも恐れない。それは夫に対して横柄な態度を取るということではない。夫への恐怖心から服従するということでもない。彼女はすべての恐れから自由にされ、「善を行う」。そこには夫に仕える行為も入るわけである。
このように妻のあり方を見ていくと、かなり目標が高くて大変だと私自身思ってしまうが、だが、実際、初代教会時代以来、サラの子になるために、みことばを実践することに心を砕いた多くの女性、妻たちがいたことを覚えていただければと思う。また、家族をキリストのもとに勝ち取った多くの女性がいたことも覚えていただきたいと思う。