皆さんは、自分が仕えている人に対して、いらだったということが少なからずあるはずである。今日の箇所は、そんな私たちの頭をガツンと一発食らわせる勧めとなっている。
私たちは社会で生きている限り、必ず仕える立場に立たせられることになる。上司、社長に仕えるという雇用関係がまず考えられよう。その他に、属しているグループの誰かに仕える、家庭では夫に仕え、姑に仕えるということがある(夫に対しては3章1~6節)。
ペテロは17節において「すべての人を敬いなさい」と命じているが、今日の箇所では、18節からわかるように「しもべ」と呼ばれる立場の人に絞って命じている。通常、「しもべ」と訳されているギリシャ語は<ドゥーロス>である。それは奴隷を意味することばである。「神のしもべ」というときも<ドゥーロス>を使用する。それで、ここも<ドゥーロス>と思いきや、別のことば<オイケタイ>であった。このことばは「家」を意味する<オイコス>ということばから派生していて、「家の奴隷」が文字通りの意味である。だから、ある訳は、ここを「家の召使」と訳している。つまり召使の立場の奴隷のことである。
ローマ帝国時代、奴隷が多数を占めていた。ごく初期にはいなかったようだが、戦いで他国を征服すると同時に、奴隷制が始まった。つまり奴隷はもともと戦争捕虜であったわけである。奴隷の仕事は鉱山で働くとか、港や農地で働くといった肉体労働系のものばかりではなかった。医者、教師、音楽家、俳優、秘書、家の雑用、すべてが奴隷がしたのである。この頃のローマ市民の態度は、自分では仕事をしないということであった。仕事は奴隷にさせ、自分たちは汗をかくのを最小限にした。現代では奴隷に代わるのが、コンピューター、ロボットという時代になってきた。
奴隷の運命が常にみじめで、不幸であったとか、いつも残酷に取り扱われたとか考える必要はない。主人と家族から愛され、信頼された一員である奴隷もいた。しかし、一つの逃れることのできない事実があった。奴隷は法的には人格をもっていない物件であったのである。どんな法律上の権利も有していなかった。結婚も許されなかった。奴隷は道具だったのである。家畜との違いはことばを話せるかどうかの違いだけであった。農機具との違いもことばを話せるかどうかの違いだけだった。主人が奴隷に対してしようと思うことが法律であり、それが正義となってしまった。それは不当に思えることであっても、主人が決めることが絶対であったので、奴隷はつらい立場であった。
ペテロはここで、家の奴隷を意識しているようだが、これは雇用されている人たちなどに適用できるわけでる。ペテロはまず、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と命じている。そのあとに二種類の主人を示す。最初は「善良で優しい主人」。このような主人のもとで働くことができたらラッキーである。でも、この場合、主人が優しいことをいいことに、自分の仕事を怠けたり、自分の義務を怠ることも起きかねない。少々手を抜いても、訓練や罰から逃れることができると考え、横柄な態度に出てしまうかもしれない。そうであるべきではない。
次にペテロは「横暴な主人」を意識させる。今日の文脈からは、特に「横暴な主人」が強く意識されていることがわかる。「横暴な主人」は「意地悪な主人」「気難しい主人」と訳すこともできるだろう。ペテロはこうした主人から、手紙の受取人たちが不当な扱いを受けていたことを知っていたものと思われる。ペテロは、手紙の受取人たちに対して、「大変だね、余り辛かったら逃亡しなさいよ」と、慰めのことばや逃げるアドバイスをしているのかと思いきや、尊敬の心を込めた服従を勧めている。「尊敬の心を込めて」は新改訳2017では「敬意を込めて」と訳されている。直訳的には「全き恐れをもって」となる。これは畏敬の念を込めるということである。横暴な主人に対しても、ということである。すごい教えである。そして19節で明らかなように、「不当な苦しみ」を受けても耐え忍ぶように教えている。この世にはない教えと言って良い。
では19節を観察しよう。奴隷は、不当な苦しみ、例えば、家畜同然の扱いを受けて、毎日鞭打たれたり、粗野に扱われていると、人間性を失っていくという。ペテロはそんな風になることを願っているわけではない。けれども、別の理由で不当な苦しみに耐えることを願っている。「神の前における良心のゆえに」と。これは「神を意識して」と訳すことができることばだが、神がお望みのことは何かを意識するということになろう。では神がお望みのこととは何だろうか。「悲しみをこらえるなら、それは神に喜ばれることです」とあるように、不当な苦しみに耐えることが神がお望みであることがわかる。「喜ばれること」とは、「恵み」「好意」ということばである。よって、「悲しみをこらえるなら、それは神の好意にあずかることです」という訳も可能である。
ペテロは20節において、もう一度、「喜ばれることです」という表現を使っている。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」ことが喜ばれることなのである。「善を行っていて苦しみを受け」とは、何も悪いことはしていないのに、むしろちゃんとやっているのに、鞭などで叩かれる罰が意識されているようである。こういうことはよくあったようである。しかも、奴隷がクリスチャンの場合、その信仰のゆえに辛く当たられたり、不当な苦しみを受けるということがあったようである。でも、それを耐え忍ぶことは神に喜ばれることなのである。ペテロはこのことを強調している。
現代ではどんな不当な苦しみがあるだろうか。意味なく給料下げられた、上司に仕事の責任をなすりつけられた、計画書類をろくろく見てもらえず却下された、人遣いが荒すぎる、すぐ怒鳴る、嫌味なことばを投げつける、仕事を押しつける、仲間外れにする、人の話に耳を貸してくれない、いろいろあるだろう。
ペテロは社会の悪の構造や不正に対して黙認していないさいとか、主人に不正な任務を突きつけられても黙諾して従いなさいとか、そういうことを言いたいのではない。ペテロは、主が教えられた「敵を愛せよ」の精神で、主人に報復したり復讐したりせず、忍耐をもって仕えることを願っているのである。仕事内容で納得いかないことは話し合う、そういうことは当然あるだろう。でも、主人に暴言を吐いたり、仕返ししたり、自分の義務を放棄したり、そういうことを望んでいない。だいいち、そういうことを神は望んでおられない。
しかし、不当な扱いが続くと、自分が返してしまった粗野な態度や感情の爆発に対して、いろいろと言い訳したくなるのが人間である。でもそうした言い訳を許さず、口を閉ざしてしまう模範を取り上げる。キリストの忍耐の模範である(21~25節)。ペテロは、キリストを見よと、キリストに目を向けさせる。パウロはピリピ2章において、キリストを「謙遜」の模範として取り上げた。ペテロは「忍耐」の模範として取り上げている。私たちはこの箇所を読むと、イエスさまは私たちを救うために、なんとひどい苦しみに耐えてくださったのでしょうと感動するわけだが、文脈を見ると、しもべとして忍耐する模範として取り上げられていることがわかる。だが、そのことを忘れてしまう場合が多い。
21節を見よう。「あなたがたに模範を示されました」の「模範」ということばは、英語で言えば「コピー」である。キリストの生き方をなぞるということである。キリストは不当な苦しみを耐え忍ばれた。
22,23節を見よう。キリストが受けた苦しみこそ、不当な苦しみの究極である。「罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだせませんでした」とあるからである。けれども、キリストは「ののしられても、ののしり返さず」、自分の本当の力を見せてやろうと「おどすこと」もなかった。面と向かってするのはいやだから、差し出し名は書かずに脅迫状を送るとか、カバンにサソリを入れるとか、そういった陰湿なこともしなかった。もちろん、キリストは自分の身の潔白を明らかにしたし、イエスはイエス、ノーはノーと言った。あとは「正しくさばかれる方」、すなわち「父なる神に「お任せになりました」。このキリストが模範である。不当な苦しみを耐えられたキリストを仰ぎ、祈ることによって、感情的にならず、私たちにも同じ力が与えられるはずである。
この後のペテロの文章を見て行くと、ペテロは感極まって、キリストのすばらしい救いについても言及しているが、しもべとしてのあり方ということも念頭に置いている。24節を見てみよう。ここで、キリストが十字架について私たちの罪を負ってくださった理由が「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」と言われている。ペテロは20節後半で、「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう」と言っているが、ペテロはしもべたちが罪を犯すのではなくて、義のために生きることを望んでいる。私たちは罪を犯すために救われたのではなく、正しさに生きるように招かれている。
24節後半の「キリストの打ち傷のゆえに」も示唆に富んでいる。手紙の受取人たちの多くは奴隷であった。鞭打ちの経験もしてきただろう。文字通り、体に鞭打ちの傷痕が、すなわち打ち傷が残っていた者たちもいたかもしれない。また、これからも鞭打ちにされる恐れがあった。キリストは彼らが受けた以上の恐ろしい鞭打ちを経験し、しかも釘づけられた。それは彼らにとって励ましになったはずである。「イエスさまは私たちのために、私たち以上の不当な苦しみを耐え忍ばれたんだなぁ。イエスさまも鞭を受けた。でもイエスさまの痛み、苦しみ、イエスさまの打ち傷は私たちどころではない。私たちもくじけてはいけない」と。それとともに、「イエスさまがあれほどの苦しみを耐え忍んでくださったのは、私たちの救いのためだったんだ。罪の償いのためだったんだ。それなら、これからはもう、今までのように罪を犯していられない。」そういう思いにさせたはずである。
そしてペテロは24,25節で、彼らに深い安堵感を与えることにも心を砕いているようである。24節では「いやされたのです」ということばがある。罪からの救いの言い換えであるが、たましいのいやしと言って良いだろう。体には傷痕があったかもしれないが、彼らはキリストだけが与えることができるいやしを経験していた。25節では、たましいのふるさとと言っていい帰るべきところに帰った、という安堵感を与えている。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」。ここで、私たちは迷える羊に、そして神さまが羊飼いにたとえられている。神さまはここで「監督者」とも言われているが、このことばは「守護者」「保護者」とも訳せることばで、羊飼いなる神の一側面を伝えている。
羊飼いのイメージはユダヤの羊飼いを思い浮かべると良い。ユダヤには狭い丘陵台地がある。その両側は危険である。西には荒野が広がっており、東には下方の死海に300メートル以上ものぎざぎざした断崖がある。羊を放牧するのはこの狭い台地である。草はまばらで保護となる壁も存在しない。羊はそこを歩くわけである。まぎらわしい道が伸びていて、荒野に踏み迷う危険がある。断崖から落ちる危険がある。夜になると、ハイエナその他の野獣に襲われる危険が増す。この地方の羊飼いは、ヨーロッパのそれと違って、羊を後ろからのんびり追っていくというイメージではない。先頭に立って歩き、適当な草のあるとことまで導く。夜になると荒れた高地で一睡もせずに遠方をにらみ、風雨にたたかれながら武器を持ち、野獣の危険から守る。一匹でも迷い出たら、見つけるまで捜し出す。羊飼いは自己犠牲と保護者の象徴である。私たちは、神さまを見失って、罪にさまよえる羊だった。でも今は、たましいの羊飼いである神さまのもとに帰った。その羊飼いとはイエス・キリストである。キリストは言われた。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」(ヨハネ10章10,14節)。社会生活の現実は厳しいものがあるかもしれない。けれども、神が、イエス・キリストが、我が牧者、羊飼いという、揺るがない現実がある。たとい死の陰の谷を歩くことがあっても恐れることはない。たましいの牧者であり監督者がともにいてくださるからである。たとい不当な扱いを受けていたとしても、たましいの賃金はイエス・キリストであるという事実も慰めになるはずである。
今日の箇所から、それぞれが、上の立場の人を敬意を込めて仕えているだろうか、キリストを模範とした耐え忍ぶ姿勢を心がけているだろうか。たましいはキリスト喜んでいるだろうか、そうしたことを顧みながら、新しい一週間を歩んで行きたい。