ペテロの手紙は今日の2章11節から新しい区分に入り、それは4章11節まで続く。内容は、キリスト者は地上生活をどのように過ごすかというものである。具体的指針がたくさん記されていて、興味深い。
最初にペテロは、キリスト者の立場を明確にしてから、地上生活の教えを説いていく。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(11節)。この地上では、肉の欲を刺激するもので満ちている。「肉」とはからだが意識されている生の原理で、それは誘惑に弱く、様々な欲望を抱く。その欲望を放置しておくと、罪が寄生する。ペテロは、この地上で私たちに戦いを仕掛けてくるのは肉の欲望だと言っている。ペテロはこの肉の欲望を遠ざけさせるために、私たちのキリストにある立場に目を開かせている。「旅人であり、寄留者であるあなたがたは」と。旅人も寄留者も、両方とも自分の母国でない所に住んでいる人のことを指している。私たちの本当の住まいは天の御国(天の都、神の国)である。あくまでも地上は一時的な滞在地。一時的な通過点。どっぷり浸かる場所ではない。そのことをしっかりとわきまえておくと、良い意味で、この地上に対して淡白になることができる。肉の欲は私たちの足取りを重くし、また道から反らせ、倒す働きをもっているが、天の御国にたどり着くために、地上の物事に対して淡泊となって、肉の欲を遠ざけていきたい。
「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」が消極的命令だとすれば、続く「異邦人の中にあってりっぱにふるまいなさい」(12節前半)は積極的命令と言って良いだろう。「異邦人」ということばだが、旧約聖書では、ユダヤ人に対して外国人という意味であった。しかし、ここでは、キリスト者に対してこの世の人々という意味である。「りっぱに」と訳されていることばは、単純には「良い」という意味であるが、「愛らしい、すばらしい、魅力的な、見目麗しい」といった意味をもつことばである。私たちは当然ながら、そのようなふるまいをするように努めるべきだが、その理由は、12節後半にあるように、世の人々が神をほめたたえるようになるためである。世の人々がほめたたえるようになる「おとずれの日に」とは「最後の審判の日に」ということであると思われる。私たちはそのことを願って証となるふるまいをしようと努めるわけである。もちろん、ここで、「彼らは、何かのことで悪人呼ばわりしても」とあるように、私たちは誤解され、非難されることもあるが、それはそれとして、である。
この時代の非難された例を幾つか挙げてみよう。聖餐式(主の晩餐)がある。「これはわたしのからだです」「この杯はわたしの血による新しい契約の血です」。クリスチャンは人食いだと非難された。またこの集まりを「愛餐」と呼んだことから、近親相姦をしていると非難を受けた。そして、形ある偶像、神々を拝まなかったことから、無神論者呼ばわりされた。また皇帝に反逆していると非難された。キリスト者は皇帝を礼拝せず、一抹の香もたかず、皇帝を主なる神として告白することを拒んだからである。すべてに偶像の神々が浸透していた社会にあって、家庭で誰かがキリスト者となった場合は家庭の和を乱すと非難されたし、職場では商売の邪魔をする者だと非難を受けた。地域では神々の祭りに参加しないと言われ、非難を受けた。こうしたことは、昔も今も変わらない。
私たちは、神に従うゆえに、いくばくかの非難を受けるのはいたしかたない。キリストは「みなの人にほめられるときには、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」(ルカ6章26節)と言われた。ほめられてばっかりというのも逆に怪しいわけである。しかし、証にならない生活をして非難を受けるようなことは極力避けたい。証となる生活を心がけたい。キリストは言われた。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節)。
ペテロは13節以降、異邦人の中でりっぱにふるまうとはどういうことであるのか、具体的なキリスト者生活に踏み込んでいく。13~17節が市民生活についてである。今日は、この区分までを見よう。13~15節が、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うことが命じられている。ペテロは、その制度の代表者たちについても言及している。「主権者である王」(13節)とは、一世紀において皇帝を意味する。次の「王から遣わされた総督」(14節)であるが、ポンテオ・ピラトを思い出すが、現代では、長官、知事、市長といった存在となろう。こうした存在に対して、権威に対して、13節で「主のゆえに従いなさい」と命じられている。「主のゆえに」は「主のために」という訳も可能であるが、その目標は神がほめたたえられるためである。そのために私たちは良き市民として義務を果たさなければならないわけである。少々高いと思っても税金は納めなければならないし、社会ルールに従わなければならならい。けれども、「主のゆえに従う」というのは、何でもかんでも隷従する奴隷のように悪いことであっても従うということではなく、主に逆らう決まり事に対しては、従わないことが必要である。かつてペテロはイエスの名によって語ってはならないとイスラエルの指導者たちに命じられたとき、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」と言って、キリストを宣べ伝えることを止めなかった(使徒4章18~20節)。その他、犯罪に類することは拒まなければならない。それも主のためにである。
15節では「善を行う」ことが強調されている。それが「無知の口を封じる」のだと。良き市民とは、単に社会のルールを破らないということだけではない。ここではそれ以上のことが言われている。「善を行う」ことであると。それが「無知の口を封じる」。実際、この事例を、4世紀前半の有名なキリスト者であるエウセビオスが伝えている。キリスト者たちは、不道徳から離れ、愛を示し、貧しい者、病人に良く仕えた。こうした結果として、「常に変わらない真実の教会の輝きは・・・ギリシャ人や異教徒のすべての人々を照らした。同時に全教会に対してなされた誹謗中傷も消失させた。・・・今はだれでも、私たちの信仰に対して、下品な中傷や、かつて敵が喜んで行った誹謗をする者はなくなっている」。善の行いが誹謗中傷の口を封じた。ここに、私たちへのチャレンジがある。
置かれている国家体制は違う。新約時代の国家は独裁主義国家であった。市民の義務は国家に絶対的服従を為すことであった。市民はただ服従するしかなく、声を上げるのも難しい。今の私たちが置かれているのは民主主義国家である。民主主義国家は単に人民のための政府ということだけではなく、人民のための人民による政府である。民主主義国家における人民の義務は、服従して支配を受けるのみならず、統治する責任を分かち合うということにある。自分の住んでいる町、市、州、県、地方の自治体に参与し、生活の場を形づくっていくことができる。それぞれのキリスト者が、それぞれ違う国家体制のもとに生きている。また、それぞれの立場がある。そこでどのようなふるまいをしていくことを主が望んでおられるかである。けれども、原則は同じということである。
次に、自由人として市民生活を送ることが言われている(16,17節)。「あなたがたは自由人として行動しなさい」(16節前半)。16節は「自由人」と「奴隷」ということばが使われている。当時のローマ帝国の人民を二つに分けると「自由人」と「奴隷」であった。ペテロはこの用語を用いて、霊的な意味での自由人と、霊的な意味での奴隷について語っている。新約聖書は、他の箇所において、信仰を持つ前の姿を、罪の奴隷として描いている。しかし今は、キリストの血潮によって贖われて、自由の身となった。しかし、この自由とは自分が主人として、自分が神となって、自分の好きなように何でもふるまうという自由ではない。逆説的真理として、それは「神の奴隷」となったということである。真の自由人は神に従うということである。だから16節では「自由人」とは「神の奴隷」と言われている。神に従うとは、当然ながら、それは先に見たように、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従う」ということや、神のみこころとして「善を行う」ということが入る。
ペテロは17節において、真の自由人の姿を、畳みかけるように語っている。三つに分けて見てみよう。第一は「すべての人を敬いなさい」。ペテロは何ということを命じているのだろうか。「すべての人を」とは、レベルの高い命令である。誰かを敬うのは、ある意味簡単であるが、自分と性に合わない人に対しても、自分を蔑んでくる人に対しても、神を信じない価値観をあからさまに示す人に対しても、この命令は適用されなければならない。また当時のことを考えると、奴隷を抜いてしまうことはできない。当時、奴隷は6千万人いたと言われている。奴隷は家畜とみなされていた。しかし、そのような奴隷に対する見方に立たず、敬うということである。だが、実際、キリスト者たちが奴隷を蔑み、虐待し続けた歴史は長く近代まで続いた。もちろん、そうでない者たちもいた。現代では奴隷はいないが、被雇用者に対して、下の立場の人に対して、障害者に対して等、この命令は適用すべきである。
第二は、「兄弟たちを愛し」。ここでは教会外ではなく、教会内における関係が言われている。互いに尊敬し合い、神の家族として愛し合いなさいということになるだろう。
第三は、「神を恐れ、王を尊びなさい」(新改訳2017「王を敬いなさい」)。王を尊び敬うのは、それが神が立てた権威だからである。ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです」とある。よって、神を恐れるなら、立てられた権威を尊ばなければならない。先に「王」とは「皇帝」を意味することを述べたが、ペテロの手紙執筆時代の皇帝は誰かと言えば、史上最悪の皇帝と言われた暴君ネロである。在位期間は54~68年。ネロは第5代皇帝として就任する。その政治は恐怖政治で、残虐非道であった。身内に対してもひどかった。兄を毒殺する。妃に自殺を強いて、腹を蹴って死亡させる。実母とは近親相姦の関係を結んだあげく暗殺する。夕闇が迫る頃、市中を徘徊し、乱暴を働き、物を盗む。そうでない時は真昼から夜まで延々饗宴を続けた。余りに評判が悪く、それでクーデターが起きて、彼は追い込まれて自殺し、30歳でこの世を去る。彼の残虐非道ぶりを表す最も有名なエピソードは、実はキリスト者に対する迫害にあった。ネロはキリスト者に対して一番非情な扱いをした皇帝として知られている。その内容の紹介は別の機会にゆずるとして、伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの迫害により殉教している。パウロもネロ皇帝の迫害のもとで殉教したと言われている。このペテロの手紙は、その迫害の兆候が表れだした頃に執筆されたのではないかと言われている。ペテロは当然のことながら、ネロの暴君ぶりを知っていた。にもかかわらず、「王を尊びなさい」と命じている。この命令もレベルが高い。その人の人格がどうの、道徳性がどうのではない。神が立てた権威であるゆえに、その立場を重んじなければならないわけである。キリストは十字架裁判において、ローマ総督ポンテオ・ピラトにこう言われたことがある。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して、何の権威もありません」(ヨハネ19章11節)。ピラトの権威も神からのものであった。
以上、地上生活の原則、そして具体的に市民生活のあるべき姿というものを見てきた。聖書は堕落した生活を勧めていないのはもちろんのこと、厭世的に世との関わりを避けて生きることも勧めていない。世に無関心で生きることなく、また暴力に訴え世に反逆することもなく、真の自由人として隣人に仕え、社会にかかわり、法を順守し、善を行い、すべての人を敬い、神の家族を愛し、神を恐れ、立てられた権威を尊び、従うのである。すべては神がほめたたえられるためである。