今日は主イエス・キリストのすばらしさに心の目を開く時としたい。前回は、みことばは味わい深いということとともに、みことばによって、いつくしみ深い主イエスを味わうということを学んだ(3節)。主イエスはいつくしみ深い方である。ペテロは4節で、単刀直入に「主のもとへ来なさい」と呼びかけている。主は私たちの罪も咎も、悲しみも、心の重荷も、すべて受けとめてくださる。そして安らぎを与えてくださるだけでなく、新しいいのちを与え、天の御国の民としてくださり、希望をもって人生を歩めるようにしてくださる。ペテロは、「主イエスのもとに来なさい、主の人格に来なさい」と招いている。このお方にまさるお方はない。私たちは今、主イエスとお会いすべく、天まで昇ることはない。だいいち、そんなことはできない。そこで主イエスはまことの人となり、この地上に来てくださり、私たち罪人とひとつになる場所、十字架にまで、へりくだって降りて来てくださった。主は十字架の低さまで下ってくださった。それはこれ以上ない低さであり、神の謙遜の極みの低さである。主自らがへりくだり罪人と出会おうとされた。私たちは十字架で主と出会おうことができる。自分こそが十字架刑がふさわしい罪人として認め、十字架のみもとに行くならば、その十字架は私たちを主イエス・キリストと出会わせてくれるだろう。キリストは十字架の上で、私たちの罪を負って死んでくださった。
今日は、主イエス・キリストはどのようなお方なのか、また、主のもとへ行くとは何を意味するのかを、今日の箇所から説き明かしたい。ペテロはユニークにも、主イエスを石にたとえるのである。では、どのような石にたとえられているのかを最初に見て行こう。
第一に、「捨てられた石」である(4,7節)。これは神殿建設が念頭にあることばで、当時の神殿は石造りであったわけだけれども、建築家は石を切ったり、削ったりして準備した。けれども積み上げる過程で、まとまでない石、不適当なものとみなされた石ははじかれた。つまり、捨てられた。捨てられた石に関しては、これはペテロが最初に話したことではない。キリストがユダヤ教の指導者との会話の中で話されたことである。参考にルカ20章17節をお開きください。キリストが引用したのは詩篇118編22節である。ここでの「家を建てる者」とは神殿建築者のことである。神殿を建てる者たちが無用だと判断して捨てた石が神殿の礎となったという謎めいたことばである。新約聖書からわかることは神殿とは教会のことで、教会の礎がキリストになるということである。
捨てられた石で私が思い出したのは山本有三作の「路傍の石」という小説である。あらすじは、明治時代の半ば、高等小学校の秀才であった主人公が、貧しさから丁稚奉公に出される。主人の機嫌を損ねて辛く当たられ、先輩にはいじめられ、同年代の子たちにも辛く当たられ、おまけに母親は急死してしまう。その後、東京に行くも、そこでも様々な試練が待ち受けているというストーリーである。主人公は路傍の石とみなされたわけである。路傍の石とは、道端の石ころのような、何の役にも立たない、つまらない石を意味する。でも、キリストのほうがひどかった。小説の主人公は路傍の石とみなされたが、殺されるところまではいかなかった。
以前、朝日新聞で「愛され、捨てられた」という見出しの文章があった。だれのことかと思ったら、音楽家ビバルディに関する文章が掲載されていた。ビバルディはイタリアのベネチアで活躍した。協奏曲「四季」は誰でも一度は耳にしたことのある名曲である。彼は25歳で聖職につく。その後、孤児院おかかえの音楽教師となる。孤児にヴァイオリンを教えるかたわら、作曲活動、演奏活動に携わる。だが晩年のビバルディの音楽は時代遅れとされ、ベネチアを離れてウィーンに赴く。そこで落ちぶれ、市民病院の共同墓地に葬られ、粗末な葬式であったことがわかっている。ビバルディ協会の会長は語っている。「ビバルディの人生についてわかっていることは少ししかない。亡くなってすぐ、彼は無名の存在になってしまった。いや亡くなる前に忘れられたと言っていい」。今、ベネチアでは毎日のようにビバルディのコンサートが開催されているが、当時はそのようだった。あのクラシック音楽の父と言われるバッハにしても、晩年は時代遅れの音楽を作っていると批評され、そして教会墓地に葬られると、バッハの墓は忘れ去られ、また彼の作品もほとんど演奏されることがなくなってしまった。愛され捨てられるというのはいつの時代でも起こりうることだが、キリストはその典型だった。キリストは十字架刑というかたちで捨てられた。ユダヤ教指導者たちだけではなく、民衆も、「十字架につけろ」と叫んだ。キリストは捨てられた石、がらくた、ごみ、ガレキ、廃棄物、不要物、無駄もの、要らないものとされた。
第二に、「選ばれた石」である(4,6節)。もちろん、良い意味での選びである。罪人たちは捨てたけれども、父なる神の目には尊く、選ばれた石である。何でも鑑定団という番組を何度か見たことがあるが、価値があるのかないのか素人にはなかなかわからないものだなあ、と思わされたことである。当時の人々はイエスさまを見て、メシヤ、すなわちキリストであると見抜く目がなかった。その後のユダヤ教の歴史を調べると、人々にメシヤだと祭り上げられ、また自分はメシヤであると自認した人たちが何人か出ている。いわゆる偽キリストである。これからも偽キリストは出現するだろう。
第三に、「生ける石」である(4節)。「捨てられた石」がキリストの十字架を暗示しているように、「生ける石」はキリストの復活を前提とした表現である。ペテロがどうして、捨てられた石とか生ける石の話をしているのかということだが、手紙の受取人たちは、教会外の人たちからはじかれ、疎外されていた。つまり、キリスト同様、捨てられた石のようなものである。けれども、キリストと同じように、選ばれて、そしてキリストの復活のいのちに与り、同じように生ける石とされたということ。そして教会という神殿を築く大切な石とされた(5節)。「霊の家」とは教会のことである。教会とは、このことばが示しているように、建物のことではなく、キリストを信じた者たちの集合体である。私たち一人ひとりが、教会という神殿の一部、建築材料というわけである。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」(5節前半)。
スパルタに有名な物語がある。スパルタの王は賓客である王に城壁を自慢した。賓客である王は辺りを見回したが、壁などどこにも見えない。そこで「あなたの自慢している城壁はどこにありますか」とスパルタ王に尋ねた。すると王は、スパルタ軍の兵士を指して、「これがスパルタの城壁です。この一人一人がそのれんがなのです」と答えたと言う。同じように私たちが神殿で、一人一人がその神殿を築く石なのである。
神殿での大切な務めは礼拝と奉仕。それをするのが祭司である。「・・・聖なる祭司となります」(5節後半(。「ペテロは私たちは生ける石であるとともに、神にお仕えする祭司なのだと自覚させたい(ローマ12章1節,ヘブル13章15,16節参照)。
第四に、「礎の石」である(6,7節/新改訳2017「要の石」)。礎というのは、建物のすべての部分が寄りかかる石である。だから、それは揺るがないものでなければならない。キリストはまことに揺るがない石であり、それゆえに信頼できるお方なのである。「彼に信頼する者は失望させられることがない」(6節後半⁄6節はイザヤ28章16節の引用)。どんなに大地が揺れ動いても、暴風が吹いても、波が逆巻いても、キリストは微動だにしない。このことを思うとき、4節の「主のもとに来なさい」という勧めは、私たちの胸に迫ってくる。どんなに目に見えない力が遅いかかってきても、主のもとに行くなら大丈夫である。
第五に、「つまずきの石」である(8節⁄イザヤ8章14節の引用)。この世の人にとっては、キリストはただ単に「捨てられた石」というだけでなく、つまずきを与えるという「つまずきの石」となった。つまずくとどうなるのか。痛い思いをするだろう。つまずかないほうがいいに決まっている。
ペテロは、つまずかなかったあなたがたは幸いであるということで、信仰者たちのすぐれた身分、立場ということを9~10節で告げている。ペテロは今日の区分で、明らかに、キリスト者たちに反対しているユダヤ教徒たちのことが念頭にある。価値無き者と見られ、無益な者と見られ、批判されているキリスト者たちに対して、ペテロは、あなたがたこそが本物の神殿に仕えている祭司たちなのだ、あなたがたこそが真の神の民なのだと訴えているようである。では、ペテロの四つの表現を簡単に見てみよう。
第一に、「選ばれた種族」。「種族」と似た表現には「人種、民族、部族」があるが、「種族」とは何ぞやということになる。同一言語、同質の文化を共有する比較的小さな民族集団を「種族」というが、定義は難しいらしい。共同訳では「選ばれた民」と訳している。つもり、ユダヤ人たちは我らこそが神の選びの民であると鼻を高くしていたわけだけれども、いやいや、キリストを信じるあなたがたこそ神の選びの民である、とペテロは言いたい。戦時中は、日本は神の国で、日本人は神の民であると威勢を張っていた。しかし、真実は、自分が罪人であるとわかり、自分の罪のためにキリストが十字架についてくださったと信じる者こそが神の民なのである。
第二に、「王である祭司」。祭司というのはユダヤ人の特権階級であることを覚えておきたい。ペテロは、キリストを信じるあなたがたこそ祭司だと言いたい。しかも「王である」という高貴な形容をしている。ピラミッドで言えば、底辺ではなくトップに来るということである。黙示録1章6節でも、キリスト者は王であり、祭司であることが書いてある。すなわち、最高の地位が与えられていると言いたい。
第三に、「聖なる国民」。ユダヤ人かどうか関係なく、キリストを信じるすべての者が聖なる国民とされる。「聖なる」<ハギオス>は、「異なる、区別する」を意味し、「聖なる国民」とは、この世から区別され、神のために取り分けられて、神に属する国民とされたということである。その国籍は天にある。
第四に、「神の所有とされた民」。実は、この手紙の多くの読者が奴隷であったと思われる。奴隷は法律的にも人格ある者とみなされず、家畜や家財道具と同じものとみなされた。ペテロは、この世でどうみなされていても、自分で自分をつまらない者だと思っていても、あなたがたは神の所有とされた民として、高価で尊いと言いたい。博物館に行けば、全くありきたりのものが陳列されていることがある。ペンといった文房具や家具とか。そうしたものがなぜ価値あるものとみなされているのだろうか。それは偉大な人物の愛用のペンであったとか家具であったとか、そういうことである。価値を与えているのは所有者である。キリスト者にとっても、これは同じである。私たちはごく平凡な人間だろう。周りからは路傍の石ぐらいにしか思われていないかもしれない。いや、実際そういう者たちである。しかし、私たちは神に属しているので、新しい価値が与えられ、尊いものとされたのである。ペテロが言っているのは、地上でどう扱われても、どのようにみなされても、これ以上ないという価値が与えられた者たちであるということである。私たちは神にある自分たちの新しい立場、身分について、実感が湧かないといったところがあるかもしれない。金メダルを獲得したばかりの選手が、まだ実感が湧いてこないと言っているのと同じように。このような新しい立場、身分というのは、10節にあるように、神のあわれみでしかない。
私たちは、新しい立場、身分というものが与えられている。神の民とされている。ただのおじさん、おばさんではない(お姉さん、お兄さんではない)。そのことを、はっきりと自覚しよう。このような地位と特権が与えられている私たちの責務は、9節後半にあるように、「あなたがたを、やみの中から、ご自身の驚くべき光の中に招いてくださった方のみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです」。そうなのである。たとえれば、私たちは、光の届かない暗い土牢に閉じ込められ、死刑判決を受けるばかりの犯罪人が、身代わりの罪の償いによって、牢から出され、自由の身となり、戸外に出て、暖かな光を浴び、新鮮な空気を吸い、喜びに溢れ、そればかりか王の養子として迎えられたに等しい。その身代わりの罪の償いをしてくださったお方こそ、主イエス・キリストである。キリストは罪の償いの代価をすべて支払ってくださった。その代価とはご自分のいのちである。文字通り捨て石のようになって、私たちを救おうとされた。私たちは先に救われた者たちとして、このお方の福音を宣べ伝えるために生かされている。喜んで、その働きに携わっていこう。