「噛めば噛むほど味が出る」ということばがある。このことばで思い出す食べ物には、スルメ、貝柱、ごはんなどが挙げられるかもしれない。みことばもそうだろう。みことばには何度噛んでも言い尽くせない味わいがある。読み飽きない不思議さがある。私は今、デボーションで詩編を読んでいるが、世の中でこんなに味わい深い詩はあるだろうか、と思いながら読んでいる。
ペテロは1章22~25節では、みことばが私たちを新しく生んだことを語っている。みことばは、私たちを新しく生まれ変わらせる力がある。そして2章1~3節では、私たちはみことばによって成長していくことが語られている。本日は、そのことを見ていきたい。
今日の個所では、みことばは様々に言い換えられている。22節ではみことばは「真理」と言われている。真理のみことばを受け入れた時に起こる新しい変化を、22節では「たましいを清め」と表現されている。キリストが私の罪のために十字架について死んでくださったことをみことばを通して心から信じる時に、御霊の働きによって、罪から清められる。ここでの「清め」という単語の時制を見ると、過去のある時点で清めを受け、それが継続しているということがわかる。生まれ変わった新しい人は、すなわち私たちは、成長のプロセスの中にいる。清めというのは継続のプロセスである。このたましいの清さは何によって表されるのか。兄弟愛によって表わされる。「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とペテロは言う。清さは、あれしない、これしないという道徳的清さに限定して考える人たちがいるが、それは間違っている。本当の清さは愛と結びついている。清さと愛とは表裏一体の関係にある。ペテロは「ですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と兄弟愛を奨励する。
続いてペテロは23節において、私たちを新しく生まれさせたみことばを「種」にたとえている。みことばを種にたとえるのはペテロの専売特許ではなく、キリストが種蒔きのたとえで、すでにしている。良くみると、ペテロはみことばを単に「種」と呼んでおらず、「朽ちない種」と呼んでいる。この地球に朽ちない種などない。朽ちないということは、「生ける、いつまでも変わることのない」という性質があるということである。永遠不滅ということである。真理だけが、そのような性質をもつ。
ペテロはこの真理を強調するために24,25節で、イザヤ40章6~8節を引用している。この描写はパレスチナ地方が念頭にある。砂漠では、一雨あると草の小さな緑の芽が吹き出す。そして、あっという間に花も咲く。しかし一日かんかん照りが続くと、あたかもそこには何もなかったかのように姿を消す。特に南東の風である熱風が吹けば、オーブンの扉を開けた時の熱気のように辺り一面焼き尽くす。一時間も吹けば、その火のような熱によって、あらゆる草木が一掃されてしまう。日本での草花がしおれる変化よりも激烈で、日本人には想像しにくい光景である。それは情緒的なものではない。無情にも思える変化である。ペテロがこのイザヤ40章を引用したのは、人のいのちのはかなさと、みことばの永遠性を対比させるためである。「人はみな草のようで」と、本当にそうでしかない。はかないいのちである。「その栄えは、みな草のようだ」と、人の栄華も一瞬である。それに対して、みことばは、熱風が吹き荒れても、天変地異があっても、時代はどう移り変わっても滅びることはない。神とともに永遠に不滅である。なぜならば、それは真理であり、神のことばであるから。細かい話だが、イザヤ40章8節では「神のことば」となっている表記が、ペテロは「主のことば」に変えている。これは意図的であると思われる。「主」とは神の別名であるが、「主」とは主イエス・キリストが意識されていると思われる(2章3節参照)。つまり、ペテロはここで、主イエス・キリストのことばである「福音」を読者に意識させようとしている。それは25節後半で「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことば」と言われている。福音は不朽の価値をもついのちのことばである。まことの神がまことの人となられ、罪人に代って十字架について死んでくださり、三日目によみがえってくださった。キリストを信じる者に罪の赦しと永遠のいのちがある。この福音のことばは人には愚かに思えるだろう。だが、愚かさをまとったこの福音こそが、神の知恵であり、人を救う力なのである。この福音が私たちの心にとどまり、芽を出し、救いを得たのである。新しい誕生をいただいたのである。
ペテロは2章1~3節において、誕生に次いで、成長について語っている。彼は成長の秘訣もみことばにあることを語っている。みことばを吸収する上で、まず捨てるものについて語っている。それは1章22節で言われていた愛に反する態度である。
「悪意」~相手を害そうとする願いであるが、それは表面にはなかなか表れてこない。こんなことばが詩編にある。「彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には戦いがある。彼のことばは油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である」(詩編55編22節)。「ごまかし」~新改訳2017では「偽り」と訳されている。「偽善」~外面的にはそのりっぱに見えるふるまいは、人を意識しての仮面であるということ。そのようにふるまう動機は相手を思ってのことではない。あくまでも自分のためである。自分があがめられるため、得をするためである。「ねたみ」~ある人は、「ねたみは罪の中で最後まで残るものだと言ってよいだろう」と言っている。「悪口」~「けなす、こき下ろす」という意味をもち、心の中のねたみの結果であるとも言われている。その人のいない場で、その人をこき下ろす。つまり陰口のたぐいも、これに入る。
ペテロはこれらを捨てるように命じている。これらは不純な化学物質みたいなもので、成長を阻害する要因になるからである。成長させるのは2節で言われている「みことばの乳」である。みことばを「種」にたとえたペテロは、次に、みことばを「乳」(ミルク)にたとえている。しかも母乳にたとえているようである。それを求める態度は「生まれたばかりの乳飲み子のように」である。生まれたばかりの乳飲み子は、一心にミルクを求める。あれやこれやではない。ひたすらミルクを旺盛に求める。そして、その滋養分によって成長する。「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」の「慕い求めなさい」と訳されているギリシャ語は「切望する」「慕いあえぐ」という意味のことばである。詩篇42編1節のみことばがまさしくそうである。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。皆さんは暑い夏を体験したので、この「慕いあえぐ」という感覚がわかると思うが、ここで「慕いあえぐ」と訳されていることばが、ペテロ第一2章2節では「慕い求める」と訳されている。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、乳飲み子が乳を慕い求めるように、みことばを慕い求めなさい、と言われている。
私は大学一年の時、アパートのベランダで神さまを信じ受け入れる祈りをしたのだが、実は、その時に、祈ったことばが第一ペテロ2章2節であった。「神さまを信じます。みことばの乳を慕い求めることができるようにしてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン」。それからのこと、まじめに聖書を開くことがなかった私が、無類にみことばが好きになり、慕い求めるようになった。暇さえあれば、どこででも聖書を開いて読んだ。1年間で聖書がぼろ雑巾になるくらい読んだと思う。もし私たちがみことばというミルクを慕い求めなかったら霊的に痩せ細ったままで、成長できない。
おもしろいことに、ペテロはみことばの乳を「純粋な」と形容している。昔、よく、水を混ぜたミルクが売られていた。よく聞いた話である。ミルクに水銀か何かが混じっていたという事件もあったはずである。雑菌の問題もある。江戸時代、江戸では午前、水を売りに来た。朝、川の上流で冷たい水を汲み、町へ出て、今でいえば手桶一杯百円という感じで、笹の葉などを浮かべて売った。時に雑菌などが混じっていて、お年寄りはお腹をこわすことがあったという。「年寄りの冷や水」ということわざは、これから生まれたと言われている。現代、売られている水は問題ないだろうと言われるかもしれないが、検査の結果、ペットボトルの水の多くに雑菌は入っていないけれども、マイクロプラスチックが混入していることがわかったそうである。それに対し、みことばは、栄養豊かであるというだけでなく、純粋100パーセントで、何の異物も何の雑菌も混じっていない。偽りは混入していない真理のみことばである。人が混入しない限りにおいて。「主のみことばは混じり気のないことば」(詩篇12編6節)。「主のみことばは純粋」(詩篇18編30節)。混ぜ物をした教えをふれる人たちは後を絶たないが、私たちは純粋なみことばだけを慕い求めたいと思う。そうしていると、偽りも識別できるようになる。何よりも、かつての悪い性癖、習慣、欠点が解消していき、キリストの性質が身に付くようになるだろう。そして・・・
「それによって成長し、救いを得るためです」。ここで言われている「救い」とは、完成した救いという意味での終末的希望である。そこに至るまで日毎に求めるのがみことばの乳である。生まれたばかりの乳飲み子、すなわち新生児が、今日は飲むけれども、明日は飲まない、とやっているだろうか。新生児は母乳を求め、一日、目安として500mlから600ml哺乳すると言われている。私たちはひたすら、無心に、みことばの乳を慕い求めよう。
最後に2章3節を見よう。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深いことを味わっているのです」。3節のことば唐突のようにも思える。ペテロは何を言わんとしたいのだろうか。「主」とはキリストのことであるわけだが、キリストはいつくしみ深い味がするというわけである。それを、あなたがたはすでに「味わっている」という。「主を味わう」という表現は、すでに詩篇34編8節にある。「主のすばらしさを味わい、これをみつめよ」。ペテロは主のすばらしさを味わったときの味にまで言及している。「いつしみ深い」甘さがあると。このような味を嫌う人はいないだろう。それをすでに私たちも味わってきた。それはこれからも味わいたくなる味である。
「いつくしみ深い」ということばで、讃美歌の「いつくしみ深き」を思い起こす方もおられるだろう。あの讃美歌の歌詞は、まさに主イエスのいつくしみ深さを味わった方が書いたものである。作詞はジョセフ・スクライブンというカナダの男性。一番の原詩は「キリストこそ、この上ない良い友、私たちのあらゆる罪と悲しみを荷われる。祈りによってすべてのことを神に告げることができるのは何たる特権」と続く。彼は結婚式の前日、婚約者をボートの事故で亡くすという悲しみを味わう。彼はその後、自分の生涯とそのすべての財産を主に捧げる決意をした。彼はそれからの一生を他の人を助けたり、困っている人の大工仕事をするために費やしたが、それに対して報酬を受け取ることはなかったという。さきほどの歌詞は故郷アイルランドで闘病生活を送っている母親を慰めるために書いたもので、世間に公表する考えはなかった。友だちに勧められ、公表するに至った。彼はこの歌詞について質問されると、いつも「主と私がいっしょになって作ったのです」と答えたという。彼は自分の罪を負い、赦してくださる主の慈しみ深さ、また悲しみを荷い慰めてくださる主のいつくしみ深さを知っていた。耐えかねている心の重荷を受けとめてくださる主の慈愛を味わっていた。
罪人にいつくしみ深い主イエス!実は、このお方を味わう手段がみことばによるということがペテロの手紙から見えてくる。25節前半にある「主のことば」を味わうことが主を味わうことになるのである。みことばの乳を慕い求め、それを味わうことによって主を味わうのである。心で主のいつくしみ深さを味わうのである。それをくり返すことによって、成長させていただけるだろう。
生まれたばかりの赤ん坊が母乳を慕い求めるようにみことばを慕い求めよう。みことばを味わおう。私たちはそのような日々の歩みをくり返し、キリストにあって成長させていただきたいと思う。