皆さんは自分をどう評価されているだろうか。円で換算するとどうなるだろうか。妻の母親を関東から呼んで湯沢(秋田県)で同居していた時のことであるが、教会でバザーを開催することになった。私が冗談に、「何にも出すものがないな。おばあちゃんでも出すか」と言ったら、「わたしは売れないよ。いや、年金ついているから売れるかも」とか言っていた。返しがうまい。今日のお話の後半は、神さまが私たちのために代価を払われたという話もさせていただく。
このペテロの手紙は苦難の中にあるキリスト者たちを励ますために執筆された。苦難の中にあると、気落ちするか、投げやりになるかのどちらかになる。これまで使徒ペテロは、彼らの苦難を意識しながら、天の御国に希望を置いて歩むようにと勧めてきた。この地上の人生がすべてではない。天の御国に救い入れられる希望を持つ人は幸いである。
ペテロは私たちに対して、17節中頃で、「地上でしばらくとどまっている間の時」という表現を使っている(新改訳2017「寄留の時」)。私たちは寄留者のよう(2章11節参照)。寄留者というのは在留外国人で、そこに国籍を持たない。一時的滞在者とみなされる。聖書では私たちの国籍は天にあると言っている。すると、私たちは地上では天の御国を目指す旅人で寄留者ということになる。この地上は永住の地ではない。ペテロは今日の箇所で、ではこの地上でどういう態度で過ごすべきかを教えている。それは一言で言うならば、神を恐れかしこんで生きるということである(17節後半)。「恐れかしこんで」とは、神を敬うという畏敬の態度である。この終末時代にあってはなおさら、神を恐れかしこむ、神を恐れるということが、大切になってくる。
この地上では神を恐れかしこむということは、あまり顧みられない。では神を恐れない不遜な態度にはどのようなものがあるだろうか。三つのことだけ挙げてみよう。第一は偶像崇拝である。この手紙の背景にあるローマ帝国は、以前お話したように、生活のすべてが神々に結びつけられていた世界だった。現代の日本どころではない。どこにでもご利益の神々が顔を出した。行事としても一年間の半分が神々の祭りだった。また帝国主義の時代で、ローマ皇帝を神として拝むことが強要された。こうした傾向性は現代も変わっていない。第二は物質主義である。以前お話したように、手紙の受取人たちの多くは下層階級の人々だった。ただでさえ生活は不安定だった。彼らは神よりも富を求める誘惑があった。現代では、神は銀行の預金通帳の価値もないほどまでに位置づけられかねない。第三に、不道徳である。ペテロの時代のローマ帝国は、現代以上に道徳観念が低かった。目も当てられない。古代ローマでは売春というものに、そもそも罪悪感を抱かなかった。男たちは午後、コロセウムと言われる競技場で血生臭い見世物を見て、その足で淫売屋に直行するのが当たり前であったという。歩き回る娼婦たちはどこにでもいた。酒場、道端と至る所に。墓地で身を売る女は「墓守女」、夜に身を売る女は「夜の蛾」と言われていた。軽食堂でもワイン一本分の値段で何でもなく買えた。女店員が娼婦に早変わり。共同浴場には春画が描かれ、公共施設でも神々の神殿でも、売春の部屋が設けられていて、不品行が行われていた。初代教会が誕生して間もない頃、第二皇帝ティベリウスは、カプリ島に大売春宿を建造したという。彼はローマ帝国各地の町や村に部隊を出動させ、美少年や美少女を駆り集めた。親が拒否しても空しく、息子、娘は姿を消していったという。皇帝からにしてこの倫理観であった。続く皇帝たちも同じような有様であった。
現代はここまでではないというかもしれないが、ニューエイジムーブメントの倫理観が浸透し、絶対者なる神はいない、すべては相対的とされ、善と悪の境は取り払われ、すべては許されるという時代になってきている。姦淫の罪は事実上、社会的には許容され、今、退廃に向かっている。文明が滅びる前は、必ず道徳は退廃する。
ペテロは神を「公平にさばかれる方」(17節前半)と、恐れかしこむ理由を告げている。ご存じのように、この地上では公平な裁きは難しい。えこひいきや、かたよった裁きが起きる。金持ちかそうでないか、同国民か外国人か、身分が高いか低いか。証拠が揃っているかそうでないかでも変わってきてしまう。神には、まずえこひいきはない。「神にはえこひいきなどないからです」(ローマ2章11節)。また神は隠れたことまでお見通して、心の奥深くの考えまで見抜かれて正しいさばきをされる。「神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝道者12章14節)。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16章7節)。この神の前に誰も言い訳が立たない時が来る。時効が成立ということはない。厳密に精査され、心の動機までえぐるようにして調べられる。人の目に隠れた行いも光の中にさらされる。そして公平すぎるほどに公平と思われるさばきがある。キリストを罪からの救い主と信じる者に救いは与えられる。永遠の刑罰に遭うことはない。しかし、勘違いしてならないことは、報いを決めるさばきは誰にでもあるのだということである。そのことをパウロは次のように語っている。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(第二コリント5章10節)。私たちは、主権者であり、公平なさばき主である神を恐れかしこんで生きるというのは、当たり前のことになってくる。
ペテロは神を恐れかしこむ理由として、もうひとつ、キリストの贖いを挙げている(18~21節)。以前、罪を犯して牢屋に入れられた息子の話をしたことがある。母親は保釈金を稼ぐために、血を流しながらの重労働をした。そして釈放された。息子はその後、賭博仲間から誘いを受けた。その息子は、母親の血と犠牲を思い、もう二度と賭博に手を染めることはできないと断った。もし誰でも、キリストが自分の罪を赦して救うために何をしてくださったのかを真剣に受け止めることができるならば、以前と同じような生き方はできなくなるはずである。つまり、恩知らずのような生き方はできなくなるはずである。
18節の「贖い」ということばを最初に説明しておこう。これはもともと、奴隷などを代価を払って買い戻すことを意味する。ローマ帝国は自由人と奴隷からなり、この手紙の受取人たちの中にも奴隷がいた。ローマ帝国ではお昼頃から奴隷市場が賑わいを見せていた。木製の台が並べられ、その上に、帝国各地から連れて来られた奴隷たちが陳列された。男もいれば女もいる。子どももいる。それぞれが自分の特徴を明記した札を首に下げている。彼らの運命は競り落とした主人の手に握られていた。自分は誰に買われてどうなるのか、ドキドキものである。奴隷の暮らしはどこに売られるかによっても大きく変わった。採石場や鉱山、農地、港は最悪で、食事も満足に与えられず、日常的に虐待を受け、休む間もなく、死ぬまで働き続けなければならなかった。奴隷は家畜、道具の扱いで、奴隷と家畜の違いはことばを話すことができるかどうかの違いとされていた。金持ちは何百人、何千人と奴隷を所有するケースもあったが、個人の家ではたいてい5~12人で、20人を越えることはなかったという。奴隷の望みは、もちろん奴隷の身分から解放され、自由人の立場を与えられること。奴隷の中には稼いだ金を自分のものとして蓄え、その金で自由を買い戻す者もいた。主人の配慮で代価を支払われ自由人となった者もいたであろう。
奴隷というのはイスラエルにもいた。キリストの時代の記録によると、石盤の上に奴隷が陳列されたという。値段は一人600~800デナリ。一デナリ1万円と換算した場合、日本円にすると600~800万円ということになろうか。奴隷の値段は平穏な時代は高かったという。けれども戦争があると下がった。なぜならば、戦争捕虜が増えると奴隷も増えるからである。奴隷が増えれば、一人あたりの値段も下がるというわけである。
私たちは奴隷とは関係ないというかもしれないが、キリストは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。私は大学一年の時、「罪なんて誰でも犯している。そんなに罪、罪って騒ぎ立てなくても」と思っていたが、奴隷ということばに降参してしまった。すなわち、罪という主人に従ってしまって、その闇の支配の中でたましいはうめいているのだと分かった。民主主義と言いながらも、本当の自由は自分にはないと気づいた。キリストは先のことばの前に「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章32節)と宣言されたが、その真理とはキリストご自身なわけである。キリストは私たちに真の自由を与えるために十字架に向かった。
キリストが私たちを贖い出すために支払われた代価とは「金や銀のような朽ちるものにはよらず」(18節後半)と言われている。ペテロが言いたい一つのことは、あなたがたのために金や銀で比較できない高価な値が払われたのだよ、ということである。奴隷市場に私たちが並んでいるとして、皆さんだったら自己評価としてどのくらいの値段をつけるだろうか。まず、肉体的にはどれほど健康だろうか?年齢的にはどう評価されるだろうか?自分の能力はどうだろうか?などと、色々評価してみるだろう。けれども、問題となるのは自分の罪である。罪とは自己中心であり、汚れであり、神へのそむきである。神さまはそれをすべてご存じである。にもかかわらず、大変な値を私たちのために払われて、ご自分のものとしようとされた。「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(19節)。贖いの代価は、キリストのいのちという犠牲であった。キリストは十字架について、尊い血を流された。血はいのちのシンボルである。「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです」とペテロが書いたとき、旧約聖書に記述されている過越しの子羊のことが念頭にあったのだろう。それは出エジプト記に記されている。エジプトでイスラエル人は奴隷だった。過酷な重労働を強いられていた。その苦しみの叫びは天に届いていた。神は時至り、エジプトに住む長子に死の裁きを宣告された。神は死の御使いをエジプトに遣わした。その際、イスラエル人は神の命により、子羊をほふり、その血を自分の家の門中に塗った。死の御使いは子羊の血が認められたイスラエル人の家は裁くことなく過ぎ越した。そして子羊の血が認められないエジプトの家々に裁きがくだった。こうして死の裁きからまぬがれたイスラエル人たちはエジプトを脱出し、約束の地に向かった。旧約聖書を知る者たちは、「子羊の血」と聞けば、裁きから救う血、奴隷から解放をもたらす血と理解できた。「子羊の血」は、やがて流されるキリストの血を予め表すものであった。
先ほど述べたように、血はいのちのシンボルであるが、私たちを罪と滅びより救うために神さまが愛をもって献げてくださったものは、まことの人となられたまことの神、御子イエス・キリストのいのちである。これ以上高価な値はない。私たちは真剣に、どれだけの値段が罪人である私たちにつけられたのかを考えてみなければならない。800万円?いや、それどころではない。大リーガーの高額年俸のトップは30億円を超えることがあるが、それでも全然低い。キリストが払われたいのちの価には達しない。
20節に、「キリストは世の始まる前から知られていましたが」とあるが、キリストが永遠的存在であることが暗示されている。キリストが永遠の昔からおられた神であることを、新約聖書はくり返し証言している。事実、キリストは、自分を永遠の昔から存在していた神としたかどで訴えられ、ユダヤ人の裁判にかけられてしまったわけである。けれどもキリストはそれを否定しなかった。そして神を冒涜した者として十字架刑に処せられた。キリストはそれをよしとされた。人類を贖う神の子羊として、ご自身のいのちを献げることに決めておられたからである。
21節は、キリストが十字架でほふられた神の子羊のみならず、復活されたお方であることが記されている。キリストは朽ち果てていくいのちでなかった。キリストはよみがえられた。キリストの十字架はキリストの復活の光の中でのみ解釈され、理解されなければならない。キリストが十字架で私たちに差し出されたのは、罪と死に勝利するいのち、永遠のいのちだったのである。もし、キリストがただの死で終わってしまったならば、私たちの主人が罪であることに変わりなくなるばかりか、永遠のいのちの希望も天の御国の希望もなくなる。死人を信じていても希望は生まれない。
今朝、特に覚えたいことは、私たちのために払われた贖いの代価は高価で尊いものであるということである。それは、神のいのちであり、永遠のいのちである。それは十字架の上で献げられたいのちである。だから、なお価値がある。それは神の愛の表れである。神は私たちを愛し、法外な価を払った。私たちが、この贖いの代価の尊さを受けとめるならば、昔と同じ生き方はできなくなるはずである。昔の生き方を18節では「父祖伝来の空しい生き方」(新改訳2017「先祖伝来の空しい生き方」)と表現しているが、それは先に見た、偶像崇拝、物質主義、不道徳も入るわけだが、別の視点からも「空しい生き方」を見ることができるだろう。ヘブル語で空しさを表す「空」ということばは「霧」「水蒸気」を意味することばであるが、私たち自身が霧のようにやがて消えてしまう存在にすぎない。だから自分の名誉、名声のために生きているだけの生き方は空しい。栄光をつかみ取ったと言っても、それらは過去のものとされ、全部消え去ってしまう。また金や銀も朽ちて消えていくものだから、お金のために生きているような生き方も空しい。そして、この世界自体もやがては霧のように消えてしまう。
だが神は消えない。だから、神を恐れて神のために生きる生き方も永遠に価値あるものとされる。そうした生き方だけが裁きに耐えうるだろう。私たちは、地上の残された人生を誰のために何のために生きるのか、明確なビジョンをもって生きよう。神を恐れ、神のためになしたことだけが残り、あとは全部消える。それらは全部空しいものとして霧のように消え去ってしまう。皆さんはこれからどのように人生を歩まれようとされているだろうか。キリストは私たちの罪のために尊い血を流され、いのちを献げてくださった。それは私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもとし、神に従うことを選びとるためである。私たちはキリストの十字架を胸に刻みつつ、すべては神の栄光のためにと、神を恐れかしこんで、地上にしばらくとどまっている間の時を歩んで行こう。