「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人の何の益になろう。」(伝道者の書1章2~3節)
伝道者の書は、知恵文学の一書と言われています。この書の内容は、人間の立場から見たありのままの世界であり、この地上世界での幸福と満足の追及です。よって、幸福と満足を求めている私たちにとって参考になります。著者はイスラエルの三代目の王、ソロモンです(BC990頃~931没)。彼は、人の望むものをすべて手に入れたという人物です。知恵、地位、名誉、富、多くの妻と多くのそばめを手に入れました。このような彼が、幸福についてどんな考え方をもっているか知ることは興味深いものがあります。
一章でカギとなることばは二つあります。一つは「空」です。「空の空。すべては空」(2節)。「空」のヘブル語の原語<ヘベル>の意味は「息」とか「風」。「蒸気」「煙」「霧」とも訳せることばです。ある方は述べています。「ヘベルは語源的には霧であり、消え去るためにのみ形づくられるところの、捕えられない息である。ヘベルはその本質そのものによって、消え去るために定められている」。著者は、すべては息のごとくであって、はかなく空しいと言っています。息は現れてすぐに消えてしまうはかないもの、むなしいもの。著者は、この世界の一切の事柄…快楽、仕事、成功、繁栄、人の一生…すべてが空しいと語ります。しかも2節では「空の空」と空を連ねていますが、その意味は完全に空しいということ。何が完全に空しいかというならば、それは地上にあるものすべて、地上での人間の営みのすべてです。聖書は人間そのものにも「空」を当てはめています。「人はだだ『息』<ヘベル>に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」(詩編144編4節)。
もう一つカギとなることばは「日の下」です。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(3節)。「日の下」とは、太陽に関係する用語ですが、「この地上世界」「この世」のことを意味しています。著者はすべては空しいと言っていますが、そのすべてとは、日の下に限られています。著者が語る空しさとは、日の下のすべてであって、日の上のことではありません。仏教との違いは実はここにありますが、仏教は日の下、日の上関係なく、文字通りすべてが空しいとします。仏教にも空の思想があるのを皆様もご存じでしょう。「一切皆空」などがあります。これはすべてのものは実体がなくうつろいゆくものであるという思想。仏教の空の思想についてもう少し詳しく説明しておきましょう。空は無を意味しているのではありません。空は、それ自体では実体をもたず、うつろいゆくものに対して言われることばである。たとえば、目の前に一輪の花があるとしましょう。実体をもっているのではないかと思います。けれどもその花は、光や花や栄養分といったものが存在しなければ存在できません。自立自存の存在ではありません。何かに頼らずしては存在できません。それ自体では存在できず、しかも、一瞬一瞬変化を見せていき、やがては他のものに変化してしまいます。このようにすべてのものは関係しあって存在という相を見せているのであって、それ自身としての自立した存在ではありません。しかも次の瞬間に同じ姿は見せない、うつろいゆくものです。仏教では、すべてのものが関係しあっていて、それ自身として自立したものはなく、すべてが絶えず変化し続けると言います。すべてのもの、すべての現象には固定的な実体はなく、関係しあいながら、依存しあいながら、常に移り変わると言います。それを「空」と呼びます。日の下にあるものも日の上にあるものも空。目に見えるもの、目に見えないもの、すべてが空。すべてが空であるのだから、人間はおろか「神仏」も空であると確言します。固定的なもの、絶対的なものは何もないとします。これが仏教の「空」の思想。徹底してすべてが空なのです。
著者はすべてが空というときに、日の下の世界、すなわちこの地上世界の事柄に限定しているようです。日の上の世界はどうでしょうか?日の上には「空」ではないお方がおられます。日の上におられるまこと唯一の神は、何にも頼る必要はなく自立自存の存在であり、草は枯れ花はしぼんでも永遠に変わらない不変の存在です。うつろいゆくお方ではありません。不変であり絶対者なるお方です。聖書はこのお方が世界を創造されたと証言しています。伝道者の書の執筆の究極の目的は、空しいこの地上世界にあって、この神を求めさせることにあります。そして、このお方は、二千年前に目に見える神となりました。それがイエス・キリストです。
「空」の対極の概念はと言うと、それは「いのち」となります。キリストは、「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)と言われました。空しさからの解放は、このお方のもとに来るときに訪れるのです。