今日のタイトルは「心を引き締めて」であるが、現代はSNSやテレビでは体を引き締める方法を頻繁に伝えている。体脂肪率を下げる運動法や食事法、またサプリメントに人々の注目は集まる。引き締まった体をどうやって手に入れるか、そのブームはまだ冷めていない。

今日の教えの背景であるが、手紙の受取人たちが信仰のゆえに散らされ、寄留者となり、地上の生活は不安定で、苦難の中に置かれていたということがある。使徒ペテロはそんな彼らを励ますために、これまで、信仰者には輝かしい未来があること、御国に救い入れられること、地上の金銀財宝がちりに見えてしまう天の資産を受け継ぐこと、キリストの栄光を分かち合うことになること、それゆえに生ける望みがあることを教えてきた。地上の苦しみは永遠の長さからすればつかの間でしかない。それはやがて終わり、栄光の御国に入る。それはイエス・キリストの再臨の時に現実のものとなる。それが13節の「イエス・キリストの現れのとき」である。ペテロは今日の箇所で、信仰者の希望となる、キリストの再臨を待ち望む姿勢を教えている。キリストの再臨はペテロの時代より、さらに近いものとなった。というよりも、かなり近いものとなった。では、キリストの再臨を待ち望む姿勢を四つに分けて見ていこう。

第一に、「心を引き締める」(13節)。だらんとした心を戒めることばである。直訳的に訳すと「あなたの心に腰帯を締め」となる。これは古代の東方の人々の服装が意識されている。東方では、ゆったりとした、だぶだぶの、足首まで来る長いすその着物を着ていた。だが、敏活にすばやい動きをしなければならないときや、精力的に仕事をしなければならないときはどうしたのか。腰の周りに帯またはベルトをしっかりと締めて、動く体制を整えた。また多くの場合、すそを捲りあげて、帯の中に長いすそを引き入れて、短くしたのである。今でいえば、シャツのそでを捲り上げて、額に鉢巻といったことにもなろう。

「心に腰帯を締める」というペテロの願いを汲み取るのに最善の参考箇所は、ルカ12章35節である。ルカ12章35~40節を開いて読んでみよう。このたとえは、キリストの再臨を待ち望む姿勢を教える「婚礼から帰る主人を待つしもべたちのたとえ」である。35節に注目しよう。「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」。ユダヤ人の着物というものは、先ほどもふれたように、日本の着物と比較できるかもしれないが、だらんとゆったりとした着物であった。家の中でくつろいでいるときは、そのままのだぶだぶのだらんとした服を着てくつろいでいたわけだが、外出するとか仕事を始めるというときには、ちゃんと「腰に帯を締め」、あるいは、腰をひっからげてすそを短くして身支度をしたものである。ついでに「あかりをともしていなさい」も説明しておくと、これも、いつでも行動できます、いつでも働く状態にあります、という比喩である。主人がいつ帰って来るかわからないので、このような姿勢が求められた。主人がいつ帰ってくるかわからないなんて理不尽な、と思われるかもしれないが、昔の婚礼は1週間、2週間と続き、適当な時に帰るというものであったので、本当に主人がいつ帰ってくるかわからなかった。「スグカエル」などという電報も打てるわけではない。電話もない。だから主人がいつ帰るか、正確には予測不能という時代。必然的に、しもべたちは、主人を待ち望む姿勢として、良い意味での緊張感をもっていなければならなかった。40節も、その緊張感について教えている。「あなたがたも用心していなさい」。「用心」と聞くと、火の用心や泥棒に用心と反応してしまうが、「用心していなさい」は「用意していなさい」とか「覚悟していなさい」とか訳すことができることばで、イメージしていただくと、「ヨーイ、ドン」の「ヨーイ」に当たることばがコレである。シャツをパンツに入れて、スパイクの紐を締めて、スタートラインに立って、腰を下ろして、ゴールを意識して前を向いて、前傾姿勢となって、ヨーイができたとなる。「ヨーイ」は、いつでも行けますよ、という姿勢である。私たちはキリストのしもべとして、時が縮まっているという緊張感をもって主を待ち望むことが必要だろう。では「心を引き締める」に次いで、第二の姿勢に移ろう。

第二は「身を慎む」(13節)。原語は「酔っぱらってはならぬ」という意味が元々あることばである。キリストは先ほど見たたとえの後に、別のたとえ話を語っているが、12章45節にはこうある。「ところが、もし、そのしもべが『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると」。酒に酔って主人を迎えるのは論外。だがペテロはここで、ただ酒に酔っぱらっていることに限定して戒めているだけではない。この世に酔っぱらってしまい、自制心を失うことへの戒めである。だから、ここでは「身を慎む」を「自制する」と訳すことができる。セルフコントロールである。オリンピックの競技などでは、選手が出場前に自制できるかどうかが一つのカギだと言われている。通常摂取していたものであっても控える、節制する、節度を保つ。賞を待ち望んで。確実な未来に希望を置いて生きる者は、心を律し、欲望に溺れず、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望むだろう。だが、未来に希望のない者は、心はだらんとなって、どうせ明日は死ぬのだ、飲め、食え、騒げ、となってしまう。

第三は「従順になる」(14節前半)。現代は「従順」とか「服従」ということばは流行らない時代である。「わたしはわたし」と個性が尊重される。それはそれでいいのだが、神に対する従順を忘れてはならない。手紙の受取人たちは試練の中に置かれていたわけだが、その試練は従順のテストであった。モーセは荒野の旅を耐え忍んだイスラエルの民に対して、こう言った。「あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」(申命記8章2節)。苦しみを伴う荒野での旅は従順のテストであった。彼らはそのテストに合格したとは言えない。神さまに反発したり、誘惑に負けたり。モーセは続いて語っている。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」(申命記8章3節)。私たちも、平坦とはいえない日常にあって、主の口から出ることばに従うということが日々、問われる。

第四は「聖さを求める」(14節後半~16節)。ペテロは聖さを語るときに、明らかに、当時のローマ社会の堕落が念頭にあったものと思われる。「以前、あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず」(14節後半)とあるが、最初、彼らはひどい汚れの中にいた。当時のローマ帝国の堕落は口にするのもためらうほどにひどいものであった。この頃のローマ帝国の人口は4500万人~6000万人。当時の世界人口は2億くらいであろうか。ローマでは富裕層の館では贅沢を尽くした饗宴が繰り広げられていた。豪華な料理、そして満腹になったらまた出して食べればいいと、専用の羽根を喉に突っ込んで吐きだし、また次の料理を口にした。宴席には吐くための壺もちゃんと用意されていた。そして肌もあらわな女性たちのダンス。そこにはこの世の快楽がすべて揃っていた。ローマの一日のスケジュールを見ると、午前中は犯罪人の公開処刑。死刑囚と野獣をフィールドに同時に解き放つ。逃げ回る死刑囚と追い回す野獣を見て楽しむ冷酷な観客たち。午後は別の見世物が待っていた。剣闘士の戦いである。剣闘士の多くは奴隷か戦争捕虜。どちらかが倒れるまで戦い、敗者は命を失うのが定めであった。善戦した剣闘士は命乞いも認められたが、破れた剣闘士の運命は観客にゆだねられた。「殺してしまえ~」の怒号が勝ったら、それで終わり。

性的不道徳のひどさは異常きわまりなかった。普通の飲食店でも他でも、売春宿に早代り。不倫とそれから来る離婚も日常茶飯事で、十度目の夫とか二十三人目の夫とかいう記録もあるくらい。貞節を守る人のほうが異常だと思われた。娼婦はありとあらゆる所どこにでもいて、春に一ヵ月行われる花の女神フローラのフロラリア祭という祭りは、ローマ中に20万人の娼婦が総出で町を練り歩き、無料サービスの期間であったという。12月には最も人気を博した国家的祝祭、太陽神を祝うサトゥルナリア祭があった。やはり酒池肉林のばか騒ぎ。奴隷もワインを飲みたいだけ飲めたようだ。自由人は奴隷以上にはめを外し、それこそ浴びるようにワインを飲み、床にはワインが河をなして流れ、酔っぱらっていない人のほうが目立つ有様であったという。通常法律で禁じられていた賭博もできるという無礼講の日であった。クリスチャンたちもこの日に羽目を外すことが続いた。太陽に向かって拝礼する者たちもいた。教会サイドはこのサトゥルナリア祭の悪習をやめさせようと働きかけ、やがてそれはクリスマスに取って代わることになった。

人命は軽視もいいところ。家父長は自分の子どもや奴隷を殺す権利を認められていたというから驚き。よって、人殺しも日常茶飯事だった。古代ローマの日常生活を知れば知るほど、このような環境で聖書の戒めを守るのはいかに困難であったかがわかる。いけないと思っても引きずられてしまう、そういうことは起きかねなかった。しかし、このローマ帝国にキリスト教が浸透したのは、逆に言えば、あまりに堕落がひどかったので、その反動で人々は聖さを求めたのではとも言われている。

「聖」ということばは、原語では「異なる」とか「分離」とか「区別」とか「取り分ける」という概念があることばである。ペテロは1章の1,2節において、キリスト者とは神に選ばれた人々であることを語っているが、ようするに、クリスチャンは、この世から区別され、取り分けられ、異なる者とされた。神の選びによって。どうしてそうされたのか。救われるためであることはまちがいない。けれども、それだけではない。それはキリストに似た者となるため、キリストの性質を反映するため。そのために選ばれた。罪を犯すためではない。私たちは、キリストに会いまみえることを願う者たちとして、キリストにふさわしい者となるべく、この聖さを身に付けることが求められている。

16節の命令「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」は、レビ記11章45,46節の引用である。もともとはイスラエル人に対する命令であった。しかし、今や、国籍、人種関係なく、キリストを信じ、神の民とされたすべてのものに適用されるみことばである。

ただ、私たちは、この聖さということを勘違いしてはならない。勘違いはパリサイ人たちに見ることができる。彼らは罪人と言われる人たちや収税人たちとつきあおうとはしなかった。汚れたやから、神に呪われたやからとつきあうべきではないと。律法を守らない人々とつきあうべきではないと。だから、彼らは、キリストが罪人や収税人たちと一緒に食事をしていることに驚き、非難した。私たちはまちがった行いをともにしないということであって、そうした人たちとつきあわないことイコール聖さだと勘違いしてはならない。キリストは誰からも交際してもらえなかった罪の固まりとみなされていた人たちと喜んで交わりをもたれた。社会ののけ者とみなされている人々と交わりをもつ用意があった。私たちもその用意がなければならない。私たちはそういう人たちの中にあって、地の塩、世の光として良い感化を与えていくように召されているわけである。あの堕落したローマ社会にあって、一世紀のキリスト者たちは周囲に良い感化を与えることを期待された。聖さとは欲望に従わないことであるが、独善と聖さは違う。本当の聖さは愛と親和性のあるものである。ホセア書11章8,9節に主なる神のことばとしてこうある。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない」。その理由として、続いて、「あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ」と告げられている。聖なる者であるから、愛するということが言われている。真の聖さは愛と一つである。そこのところを勘違いしてはならない。

今日の箇所はキリストの再臨を待ち望む、終わりの時代に生きる者たちの姿勢が教えられていた。「心を引き締める」「身を慎む」「従順になる」「聖さを求める」。これら四つの姿勢は別々のことではなくて、連結しており、だらける、緊張感がない、締まりがない、そういった生活と対極の生活態度を私たちに教えている。私たちにこれを促すのは、キリストの再臨が近いということである。ペテロの手紙が執筆されてから二千年近く経っており、キリストの再臨は迫っており、また私たちの周囲の環境もローマ帝国のそれに近づいている。私たちは間近となったキリストの御国と堕落した世の狭間にあって、キリストのしもべとしてふさわしく、再臨信仰を生きていこう。