皆さんは希望をお持ちだろうか。不確かな希望ではなくて、確実なもので、消えることはない生ける望みのことである。この手紙は、一世紀の苦難に遭っているキリスト者を励まそうと記されたものである。彼らには希望が与えられていたが、ペテロはそれを確認させている。一世紀はまだキリスト者は完全なる少数派である。一世紀はローマ帝国の住人の10分の1がユダヤ教徒であったと言われている。キリスト教はユダヤ教から敵視されていた。また異教徒たちからも敵視されていた。ローマ帝国挙げての迫害も厳しくなっていった。希望がなければ確かな足取りで生きていくことは困難だった。

ペテロは1~2節の冒頭のあいさつでは、地上で苦難を受けている彼らに対して、あなたがたは神に選ばれた人々ですよ、と神の選びを強調して、神の愛を確信させて励ました。

今日の区分では、特に、彼らに希望を持たせようとしていることがわかる。具体的には、天の御国に救い入れられる希望である。地上で苦難を受けているあなたがたは、すばらしい希望に目を留めるのだよと励ましている。希望は生きる力になる。

ペテロはまず3節で、神さまはどのようにして生ける望みを持つようにしてくださったかを説明している。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」。注意して見ていただくと、生ける望みの前提として、キリストの復活によって私たちが新しく生まれ変わることができたのは、神の大きなあわれみであることが言われている。これはペテロの実感である。ペテロはかつて、キリストを裏切るという大失態を演じた。捕縛されたキリストを横目に、あんな男は知らないと三度も否定した。ペテロたちに見捨てられたキリストは、血まみれになって十字架の上で果てることになる。俺はなんていうことをしてしまったのか、最低の人間だ、取り返しのつかない過ちを犯した。ペテロの絶望感はどれほどのものであっただろうか。心は暗黒状態。どんなに自分を責めても、もうどうにもならない。ペテロは廃人の一歩手前まで行ったかもしれない。希望なんていうものはもうない。精神的にはお先真っ暗。あるのは絶望感のみ。けれども、三日後のキリストの復活がすべてを払拭してしまう。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」と、これがキーになることばである。このキリストの復活がなかったら、ペテロの人生は終わっていた。けれども、キリストの復活がペテロの心もたましも人生も、新しく再生してしまった。ペテロは新しい人として人生の再スタートを切れた。そして一時的な苦難の後に待つ天の御国を待ち望む者となれた。キリストの復活はペテロに最大のインパクトをもたらした。復活したキリストはペテロを責めることなく、愛をもって包み、改めて彼に福音を説き明かし、弟子として彼に再召命を与え、生ける望みを与えた。私たちも過去は過去。どんなにひどい過去であっても失望することはない。悔い改めてキリストの十字架を仰ぎ、キリストの復活のいのちに与ることによって、生ける望みをもって歩んで行くことができる。

ペテロの手紙の受取人たちは、下層階級の者たちが多く、公民権を持たない者たちや奴隷もいたと思われるが、「新しく生まれさせて」ということば自体、力となったはずである。つまり神の子とされたということでもあるので。この身分は王家に生まれたということと比較できる。いや、それ以上のことで、この上もない喜びである。

ペテロは続く4節で、「生ける望み」と関係する天の資産について語っている。それは「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産」である。これが神の子どもが受け継ぐ資産である。生ける望みとは「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産」が与えられる望みと言って良いだろう。けれども私たちは、この天の資産に目を向けることができず、今のところはなんとか生活できているけれども、老後の蓄えがないとか、足りないとか、そこだけに心を向けてしまう弱さがある。手紙の受取人たちは、私たち以上に、大変な生活を送っていたと思われる。地上では寄留者、流浪の民のような生活で、仕事を取り上げられたり、家を追い出されたり、持ち物を取り上げられたり、地上の財産など当てにできない生活を送っていた人たちもいたと思われる。だから、ペテロは天の資産に目を向けさせている。

ペテロは天の資産の性格を三重の描写で伝えている。第一に「朽ちることもない」。別訳すると「不滅である」。時間が経てばぼろぼろになるとか、価値がなくなるとか、そういうものではない。永遠不滅である。第二に「汚れることもない」。よごれ、傷、しみ、虫食い、そういうことはない。不変である。第三に「消えていくこともない」。花のように萎んで枯れていくものではないことはもちろんのこと、奪われてなくなる、風で吹き飛ばされて消える、そういう性質のものではない。なぜなら、それは「天にたくわえられている」ものだからである。天の資産に比べると億万長者の資産などは、ゼロに等しい。

5節では、生ける望みは「終わりのときに現されるように用意されている救い」として表現されているようである。「救い」というときに、聖書は未来にいただく救いと、現在いただいている救いの両方を伝えている。5節の救いは、天に召された時に受ける完全な報いが意識されての表現である。9節でも「救い」について言われているが、そこでは現在受けている救いのことである。私たちはすでに救われているが、まだ天に召されているわけではない。地上では今しばらくの間、苦しみも経験しなければならないが、この地上にあって「生ける望み」が私たちを支えてくれる。

6~7節では、生ける望みとは、「称賛と光栄と栄誉」を待ち望むこととして言われている。6節冒頭の「そういうわけで」というのは、「生ける望みがあるので」と解釈できるだろう。生ける望みがあるからこそ、試練を耐えることができる。悲しみを経験しても喜びは消されない。6節では不思議にも、「喜び」と「悲しみ」の両方が言われている「大いに喜んでいますが・・・悲しまなければならないのですが」。キリスト者は悲しんでいけないというわけではないので、誤解されないように。キリストがゲッセマネの園で「悲しみもだえ始められ」とある(マタイ26章38節)。また弟子たちに向かって「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われた(マタイ26章38節)。苦しいことがあったら悲しむのは当たり前。わたし悲しくなんかないわ、とうそぶく必要はない。けれども、そのような悲しみを引き起こす現実の中に置かれていても、キリストの救いに与り、生ける望みを持っているがゆえに、喜ぶことができるということである。

ペテロは苦しみをもたらすものを「信仰の試練」と呼んでいる(7節)。試練とは信仰を試すものである。6節の「試練」<ぺイラスモス>は、試練を意味する一般的なことばだが、7節の「試練」<ドキミオン>は、「試験済みの、検証済みの、純粋さ」といった意味がある(新改訳第三版別訳「純粋さ」)。このことばが使われている意味は、続く「火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く」からわかるだろう。試練が火による精錬にたとえられており、信仰が鍛え上げられ純化されることが言われているようである。試練によって刃金のような弾力さが生み出されるだけでなく、不純物質が取り除かれ、輝きを増すだろう。この試練によって金よりも尊い信仰になるというのである。「金」は金属の中でもっともすぐれているものとして、聖書でも385回取り上げられている。オリンピックでは「金メダル」を競って争う。しかし、火によって精錬された金でさえ朽ちてしまう。だが試練によって純化された信仰は朽ちることなく、「イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になる」というのである。「イエス・キリストの現れ」とはキリストの再臨の言及だが、つまり、信仰者はキリストの再臨の時に、キリストの永遠の栄光に与ることが言われている。キリストの永遠の栄光を分かち合う。それはオリンピックの金メダル以上に名誉なことである。この報いに優るものはない。信仰のレースは途中苦しくても、ゴール近く苦しくなっても、苦しみに耐える価値のあるものが私たちを待っている。それを信じて喜びを見い出せる。そしてゴールしたら、それまでの苦しみは喜びを倍増する。

ペテロは生ける望みから来る喜びを語った後、続く8節で、キリストご自身が喜ぶ対象であることを語っているようである。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども」で始まっているが、ペテロはイエス・キリストを見た。キリストと三年間寝食を共にし、見続けた。でも手紙の受取人たちは、一度もキリストを見ていない。にもかかわらず、愛しており、信じており、ことばには言い表せない、大いなる喜びをもっている。彼らは、キリストが弟子のトマスに言われたことば、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20章29節)の幸いに与り、救い主キリストを人格的に、霊的に知って、喜び踊る者となった。「栄えに満ちた喜びにおどっています」。私もキリストを信じた時、飛び上がって喜んだ。ペテロは9節で「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」と述べているが、救いとは、キリストとの出会いがもたらすものなので、キリストが私たちの喜びと言えるのである。

バッハのモテットという合唱曲に「イエスよ、わが喜び」という有名な曲がある。歌詞の一部を紹介しよう。「イエスよ、わが喜び、わが心の楽しむ羊飼い、わが身の誉れなるイエスよ、ああ、いく久しく、げに久しく、わが心もだえ、きみをば慕いてあくがれこしぞ(あこがれます)!神の子羊、わが花婿、きみいまさずばこの世にて、わが心ひきとむるもの絶えてなし。・・・主、わが羊飼い、すべての喜びの泉よ、汝はわがもの、われは汝のもの、われを離しうるものなし。われ汝のものなり。そは汝わがために、汝のいのちを死に渡し、貴き血潮を流したまいけるゆえ」。

「イエスよ、わが喜び」、それは私たちも同じではないだろうか。私たちはやがてこのお方と、顔と顔を会いまみえてお会いする日が来る。

ペテロは10~12節において、キリストが出現した新約の時代に生きているあなたがたはラッキーなのだぞと語っている。旧約の預言者たち、モーセ、イザヤ、ミカ、その他の預言者たちは、キリスト預言に携わった。キリスト来臨について神からの啓示を受けた。彼らは神から受けた啓示を完全に理解したわけではないが、キリストとはどのようなお方なのか、何をされるのか、いつどのような時に出現されるのかと、熱心に尋ね求め、細かく調べた。こうした務めは、来たるべき時代の、すなわち、新約時代の人々のための奉仕であった。そして預言どおりメシアなるキリストは出現し、預言は成就されていった。処女降誕、奇跡のみわざ、十字架、復活。福音の伝播。こうした預言の成就の一連の出来事は12節後半にあるように、「御使いたちもはっきり見たいと願っていること」だった。私たちはどういう理由でかわからないが、旧約時代ではなく、新約時代に生を受けた。旧約時代の人たちがうらやむ時代に生を受けた。これは特権であるということである。それをペテロは認識させたい。つまり、苦難が続く悪い時代に生を受けてしまったと、否定的に思われては困るということであろう。旧約の時代の人がうらやむ恵みの時代に生を受けたことを知ってほしかった。私たちはともすると、どうしてこの親で、この家で、この地域で、この時代にと、否定的に、否定的に考えてしまう。不平は増えていく。視野も狭くなり、地上のことだけで頭がいっぱいになってしまう。ため息だけが続く。苦しい時とはそういうものである。だが、それで終わってはならない。私たちはキリストの時代に生きている。そしてキリストを信じる者とされた。私たちは、すでに受けている神の恵みを数え上げ、喜びの源泉であるキリストに心を向け、生ける望みを抱いて歩むのである。失望、悲しみ、不平、もし、それだけであるなら、この世の人たちと何ら変わりなくなってしまう。

今の私たちのことを考えると、昔と違って、一人一冊、聖書を手にして毎日読むことができる。もし平安時代に生まれていたら、生活圏は山に囲まれた50キロ圏内で、すすけた真っ黒顔をして、他の世界を知らずに、字も読めず、毎日、偶像に手を合わせて一生を終わっていたかもしれない。それ以前に、医学が進歩していなかったので、私などは5歳ぐらいで死んでいたと思う。災害が増えて来ているといっても、キリストの再臨に近い時代を生きているわけだし、なかなか恵まれていると思う。思うような生活を営んでこれなかったといっても、もし満足して満ち足りた生活を送っていたら、キリストを求めることはなかったと思う。今、キリストを知る者とされ、生ける望みを持ちながらキリストとともに歩めるというのは、もったいないような特権である。

キリストに心の目を注ぐことから始めよう。キリストが私たちの喜びの源であり、喜びそのものである。地上では辛いことがある、悲しみがある、信仰のテストがある。すなわち試練がある。けれども後の世では完全な救いがあり、天の資産を受け継ぐ者とされ、永遠の報いがある。キリストを完全に知る者となる。今は、地上では救いの前味を味わいつつ、キリストとともに歩み、生ける望みをもって歩んでいこう。