今日で、ヘブル人への手紙の講解メッセージが終わる。ヘブル人への手紙は、ユダヤ教が背景にある信者たちを対象に記されているので、旧約聖書の言及が多く、また犠牲制度への言及が多い。著者は、それらの犠牲制度は究極のものではなく、キリストの福音を示すための、比喩(9章9節)、模型(9章24節)、影(10章1節)、そういったものなのだ、本体はキリストにあると、キリストの偉大さを教えることに心を砕いてきた。後半は、偉大なキリストに信仰の目を注ぐように教えてきた。

ヘブル人への手紙の教えは17節で終わるが、15~16節に、いけにえの言及がある。それは祭司とされている新約時代の私たちが献げるいけにえである。二種類に分けてみることができる。では最初に、新約時代に献げるいけにえを二つ見てみよう。

第一は、賛美のいけにえである。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(15節)。新約時代となり、動物などをささげる犠牲制度の時代は終わった。しかしながら、賛美のいけにえという概念は犠牲制度の時代にすでにあった。ホセア14章2節にはこうある。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。」ここからもわかるように、罪の赦しに感謝して、賛美のいけにえを献げた。私たちの場合は、キリストが私たちの罪の赦しのために十字架で成し遂げてくださったみわざに感謝して、賛美のいけにえを献げるということである。もっと掘り下げて言うなら、自分の罪深さがわからない人に、この賛美は生まれない。自分が極度に罪深いことを知る者は、神の溢れる恵みを実感できる。その赦しの恵みの大きさを実感できる。それが賛美となる。本当の賛美は、貧しい心、砕かれた心から生まれる。

しかし、中には、自分の心の醜さやどす黒さを見るだけにとどまり、うなだれている人がいるだろう。その人は、キリストの福音に進まなければならない。キリストを信じる信仰によって、キリストが流された血潮のゆえに、すべての罪が赦されることを知らなければならない。それこそ、ヘブル人への手紙の著者が強調してきたことである。自分の罪が赦されたことを知る者は、感謝と喜びから、賛美の唇が与えられるだろう。

いずれ私たちは、パリサイ人的になり、自分は道徳的人間で平均以上の部類に入るといった高ぶった意識で、十字架の恵みを博物館入りさせてしまうことがあってはならない。常に新鮮に十字架の恵みを心に持っていたい。

祈りにおいては、神への賛美を中心に据えたい。神への賛美を祈りの優先事項とし、骨格とし、祈りを貫く柱としよう。また生活において、ぐちではなく、賛美を習慣化しよう。短くていいので、生活の各場面で、声に出す出さない問わず、主を賛美しよう。痛い時も、つらい時も、「あなたの御名を賛美します」である。「私の口には一日中、あなたの賛美と光栄が満ちています」(詩篇71編8節)「私は日に七度、あなたをほめたたえます」(詩篇119編164節)。賛美することを心のクセにするのである。

もちろん、賛美は歌という方法もある。教会では歌を通して賛美する習慣が初代教会時代よりあり、教会音楽が西洋音楽の基礎にもなった。ここで少し脇道にそれるが、ドレミファの音階がどのようにしてできたのかも紹介しよう。11世紀のこと、イタリアで、グイドという聖歌隊指導者が「ドレミ唱法」を生み出した。ただし最初のうちは「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」ではなく、「ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」の六つの音までで、最初の音は「ド」ではなく「ウト」で、しかも一オクターヴに達していなかった。この六つの音の音階は、バプテスマのヨハネの誕生を祝う祝日の讃歌の歌詞から取られていた。「ウト のびのびと」「 響かせて 胸いっぱいに」「 驚くべきみわざを」「ファ しもべたちが 語れるように」「汚れた  くちびるから 」「 取り除いてください 罪を」「聖なるヨハネよ」。それぞれの単語の頭文字を採用。このように、バプテスマのヨハネに汚れた唇から罪を取り除いてくださいと請い願う歌から、ドレミ唱法の原型が誕生した。

17世紀に入って、人の音域が広がって行くと、一オクターヴに達していない「ウト、レ、ミ、ファ、ソ、ラ」唱法では不自由となり、現在の「ドレミ唱法」が完成した。六つの音の音階の次に7番目となる「シ」を採用した。「シ」は「Sancte Ioannes 聖ヨハネ」の頭文字を取って「si」と発音することになった。そして「ウト」は発音しにくいので、「主なる神」の「主」の「Dominus」の頭文字「do」を採用した。20世紀の半ば、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の主題歌「ドレミの歌」が大ヒットした。日本では替え歌が作られ、「ド~はド~ナツのド~」と、これまた大ヒットしたが、真実は、「ド~は主なる神のド~」、最後は「シ~は聖なるヨハネのシ~」なのである。クリスチャンの皆様には、これくらいは覚えておいていただきたい。そして、歌を通しての賛美のいけにえを進んで献げていただきたい。また、聖書は詩篇からもわかるように、楽器を使用して神を賛美することが奨励されている。あらゆる仕方で神を賛美していきたい。

では第二番目のいけにえに移ろう。第二は、慈善行為のいけにえである。「善を行うこと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」(16節)。このいけにえの直接の対象は人であって神ではない。であるのに、なぜこれが神へのいけにえなのだろうか。聖書の戒めは要約すると、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の二つとされる(マタイ22章36~40節参照)。神への愛は隣人への愛によって立証される。イエスさま自身、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語っておられる(マタイ25章35~46節参照)。

「善を行うこと」とは「親切を示すこと」とも訳せるだろう。「持ち物を人に分けること」は原語ではただの一語で<コイノーニア>である。一般的な意味、そして訳は「交わり」である。このことばは分かち合いの精神を意味するところから、「施し」とか「寄付」という意味ももつようになった。その辺を汲んで、新改訳第三版では「持ち物を人に分けること」と意訳しているが、これでは分かち合うものが物に限定されてしまうことから、新改訳2017では「分かち合うこと」と原意に近い訳にしている。「分け与えること」の訳でも良い。分けるのは持ち物に限らず食べ物も入るだろうし、お貸しして使っていただくということも分かち合いに入る。ローマ15章26節では<コイノーニア>が貧しい人に対する寄付を意味する「醵金」と訳されている。こうしたお金も入るだろう。持ち物とお金に関しては、次のような記録もある。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。・・・彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである」(使徒4章32~35節)。

神は慈善行為といういけにえを喜ばれる。イザヤ書では慈善行為は、神が好む断食と言われている(イザヤ58章6~11節)。この行為に至る時、神に祝福される(同8,10,11節)。

さあ、私たちは、今の二つのいけにえに心を留めた上で、最後の教えに移ろう。それはなぜか、指導者のリーダーシップを認める教えとなっている(17節)。実は13章において、指導者に関する教えはこれが初めてではなく、7節に登場している。7節で言及されている指導者は、もう天に召されたと思われる初期の指導者たちのことであるが、彼らの信仰にならうように言われている。17節では現在の指導者に従うように言われている。彼らは「たましいのために見張りをしている」と言われている。羊のために不寝番をしている羊飼いを思い出す。「見張り」ということばは、「心にかける」「心を配る」、そういう意味のことばである。そういう人たちへの態度が言われている。著者は3,4章で、40年の間、荒野で指導者モーセに逆らい続けたイスラエルの民を悪い模範として取り上げていたが、最後に、ここで引き締めにかかっている。

こうした指導者たちに対してすべきこととして、やはり、とりなしの祈りがあるだろう。著者自身、18,19節で、自分たちのためにとりなしの祈りを要請している。日本で働く牧師、宣教師は大変だと言われている。目に見える実を見ることが難しいという意味で。気苦労が多い。そして、現代の問題として成り手が少なくなってきているという問題がある。現在の日本の牧師の平均年齢は67.8歳だそうである。60代以上が72パーセント。10年後はどうなるのだと不安視されている。働き人自体、起こされることを祈っていく必要がある(ルカ10章2節)。

最後に、祈りと祝祷を見て終わることとする(20,21節)。著者の主要な祈りは、21節の「あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように」である。みこころを行うことができるように、ということが意識されている。だから私たちも主の祈りを自分たちのためにも祈る。「みこころが天でも行われるように、地でも行われますように」と。私たち自身がみこころを行うように召されている。

「完全な者にする」<カタルティゾー>も説明しておこう。このことばは、「目的に適合してすべての部分が備わっている」という概念を持つ。そこから、「修復する、整える、あるべき状態にする」、そういった意味で使用されるようになった。このことばは新約で13回見出されるが、このことばの概念をわかりやすく伝えている箇所を一箇所ご紹介しよう。「また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた」(マルコ1章19節)。「網を繕う」の「繕う」が<カタルティゾー>。破れた網は繕われ、本来のあるべき網の姿に回復される。これが網として完全になるということである。これを未完成のジグゾーパズルに適用してもいいし、壊れた時計に適用してもいいし、不具合が発生した電化製品に適用してもいい。また組立途上の模型、建設途上の家に適用してもいい。回復途上の怪我人に適用してもいい。私たちは主のみこころを行うことにおいて、まだまだ欠けだらけ。状態不十分。だから、本来あるべき姿にしてもらわなければならない。私たちは年齢とともに、骨はすり減り、あちらこちらに欠陥が生じ、医者のお世話になることが多いわけだけれども、神さまは私たちの魂の医者である。私たちの欠けたるところをご存じであられ、内なる人を成長させてくださるお方である。

続いては祝祷である。「どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように」と、著者はキリストに栄光を帰す。ヘブル人への手紙の特徴は、何度も言ってきたように、キリストの偉大さを表すこと。それによって、手紙の受取人たちのキリスト信仰を堅くすることにあった。私たちも、ヘブル人への手紙を通して、幾分でもキリストの偉大さに心の目が開かれたと思う。ヘブル人の手紙の受取人たちは、キリストを小さく見てしまう傾向があった。とんでもないというわけである。キリストは偉大な神、永遠の贖いを成し遂げてくださった大祭司、完全な救い主。私たちにとって救い主はこのお方しかいない。主イエス・キリストだけが唯一の、神の救い主である。私たちはキリストの御名があがめられることを生涯の願いとして、日々祈り、このお方を見続け、このお方のことばを聞き続け、そして私たちも祭司として、お仕えしていきたいと思う。