私が大学一年生の時、初めて教会に足を運んだ時に、教会堂に入った時の印象を今も鮮明に覚えている。「何これ?教会っていっても、ただの箱じゃない。牧師も威厳のない、ただのおじさんだ」。牧師になって宗教法人を取得する時、写真の提出を求められた。「祭壇とかご本尊の写真を提出してください。私は、「祭壇も御本尊も何もないんですけど、どうしたらいいでしょうか」と尋ねた。そうしたら、「礼拝堂の十字架の写真でいいです」ということになった。

人々は宗教と言うと、壮麗な建物、それに伴う祭壇、また、そこに献げる犠牲といったことをイメージする。2世紀のことであるが、キリスト教に対して、次のような批判があったとのことである。「あなたがたキリスト者は犠牲を持っていないのだから、本当の宗教を持っていない」。 他宗教から見ると、その当時のキリスト教は、荘厳な神殿で何かをしていたわけではないし、建物の中には祭壇があるわけではないし、祭壇に犠牲を献げる祭司がいて、何かをやっているわけではないし、余りにもシンプルに映った。他宗教から見ると、拍子抜けしてしまう。9節で学んだように、神に近づくものとして食物に関する取り決めがあるわけでもない。

キリスト教は本来シンプルであるわけだが、神殿とか祭壇がないわけではない。献げる犠牲もある。パウロやヘブル人への手紙の著者は、神殿に関しては、目に見える建物がそうではなくて、私たちが神殿であるという真理を告げていた(2章6節)(エペソ2章20~22節)。そして、祭壇もないのではなくて、今日の箇所では、<有る>ということを告げている。もちろん犠牲も献げられた。

今日の箇所は「私たちには一つの祭壇があります」(10節前半)で始まる。祭壇とは、神にささげ物をする台である。私たちにとってこの祭壇とは、キリストの十字架である。キリストは、十字架という祭壇に、ご自身を自発的に献げられた。罪のきよめのための供え物として献げられた。私たちを救うために。キリストは十字架という祭壇で尊い血を流し、私たちの罪のための贖いを成し遂げてくださった。このことがなければ、私たちは神に近づくことができなかった。

著者の今日の箇所の勧めは、ユダヤ人の間で実施されていた年一回の行事「贖罪の日」が背景としてある。この「贖罪の日」は旧約聖書のレビ記16章に記載されている。この日、大祭司は雄牛と雄やぎを罪のためのいけいえとして屠る。その流された血が国民の贖いの血となったのである。その血は至聖所で神の御前に献げられた。

著者は今日の箇所において、「贖罪の日」の儀式の中から、一つの特徴に強調を置いている。普段の日のいけにえを献げる儀式においては、祭司はいけにえの肉の一部を食べた。けれども、この儀式においては屠られた動物の肉は食べてはいけなかった。それが「幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利はありません」(10節後半)である。その肉はどうしたかと言うなら、からだ丸ごと宿営の外に持ち出され、完全に焼かれた(11節)。著者はなぜこの話をしているのだろうか。著者は、贖罪の日に献げられた犠牲動物はキリストの犠牲の原型であったことを示したいだけでなく、「宿営の外で焼かれた」ことに注目を向けさせたい。キリストはどうであったのだろうか。キリストが十字架についた場所は、宿営の外、すなわちエルサレム城門の外であった(12節)。エルサレム城門の外とは、具体的には、エルサレム郊外のゴルゴダの丘だった。「ゴルゴダ」の意味は「どくろ」である。感じの良い名称ではない。ある意味、処刑場にふさわしい。キリストにとっての宿営の外とは、このエルサレム郊外の処刑場のことであった。

宿営というのはユダヤ人にとっては特別な意味合いがある。宿営の中は聖いとされ、宿営の外はそうではない。汚れているとされた。だから宿営の外に遺体を運び出したり、そこでゴミを燃やしたり、そこを刑場にしたりしていた。日本でも、ゴミ焼却場は郊外にあるし、火葬場もそうである。

著者は13節において、私たちを宿営の外へと誘い出す。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」。これは、実際、宿営の外に行きなさいということなのだろうか。そういうことではないだろう。著者はメタファー、隠喩を用いているわけである。

「宿営」は「聖域」と言えるわけだが、キリストの目には、すなわちエルサレム城門内は、聖域とは映ってはいなかった。キリストはそこで古くなってしまった価値体系を見、偽りの教えを見、世俗的なものを見、罪汚れを見ていた。そこを支配していたのは世俗的なサドカイ人と、偽善的なパリサイ人であった。世俗と偽善の巣と化していたのである。キリストは神殿を強盗の巣と化しているとまで言って、厳しく批判したことがある。神殿で一儲けしようと持ってきた商売人の道具などを倒し、ぶちまいた。もうそこは聖域でないことは、キリストに対する態度で明白となった。エルサレムを支配していたユダヤ教の指導者たちは、キリストに殺意を抱き、ひたすらに処刑するチャンスを狙っていた。「宿営」は、キリストとキリストの教えを忌み嫌い、締め出す場となってしまっていた。また、その教えに従う者たちを締め出す場となってしまっていた。

著者は宿営そのものを邪悪視しているのではない。宿営はもともと異教の悪習慣から隔離された聖域であったことはまちがいない。モーセ時代から設けられた宿営は、そこで神が礼拝され、十戒を初めとする律法を守ることが掟とされていた。そして、何よりもそこは、神の住まいであった。しかし、その聖域が、時間の経過の中で、逆転現象が起き、闇の霊性で覆われた場所になってしまった。

さて、しかし、著者はここで、文字通りの宿営について語っているのではない。この手紙の受取人たちはすでに、エルサレムから離れてローマで生活していたと思われる。彼らにとっての「宿営」とは、誤謬に満ちた当時のユダヤ教との確固たる交わりを意味しただろう。昔信じていたユダヤ教の教えに片足突っ込んだままでいるのか、それともキリストに従うのか、なんとなく中途半端な者たちがいたのだろう。食べ物にこだわらせるユダヤ教的な異端の誘いもあっただろう。そのような、態度がはっきりできない人たちを意識して、著者ははっきりと「宿営の外」に出るように促す。宿営の外に出ることは、単に昔信じていたユダヤ教と決別することを意味するのみならず、この世の価値体系を離れ、キリストに従うことも意味する。どっちつかずのグレーゾーンにいることではない。そこを出て、はっきりとしたキリストへの献身が求められている。

私たちも「宿営の外に出る」とはどういうことなのかを考えてみよう。それは、人里離れた地に出かけ、隠遁生活を送ることではない。場所うんぬんではなく、神の価値観と反対であるこの世の宗教的価値観や道徳的価値観と決別し、キリストに従って生きることである。それは具体的な行動を伴うことになるだろう。「宿営の外に出る」とは、偶像崇拝と決別する、みんながしている不道徳な習慣から離れる、そういうことのみならず、キリストを中心としたライフスタイルへと転換することになるので、それは、かつての迷信や偶像崇拝に通じる因習に倣わないだけではなく、キリスト信仰を公けにした社会生活をし、キリストを宣べ伝え、キリストのために犠牲を払った生き方を選択することになるはずである。キリストに従おうとするとき、長いものに巻かれろ式の生き方から決別しなければならなくなることはまちがいない。宿営の外に出るというのは宿営の中の価値観を否定することになるわけだから。キリストのための辱しめや非難を覚悟しなければならなくなる。

ヨハネの福音書9章では、キリストがご自身を世の光として宣言され、そして盲人の目をいやされた記事がある。キリストは盲人に対して、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われた。このみわざを通して、キリストを救い主であると信じた盲人は宿営の外に追い出された。「すでにユダヤ人たちは、イエスをキリスト(すなわち救い主)であると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである」(22節)。これは、ユダヤの宗教的生活及び社会生活から締め出されることを意味していた。これは破門であり社会的権利の剥奪を意味する。彼はそれを意に介さなかったようである。なぜなら、失うものよりも得るもののほうが大きかったからである。彼の目はキリストに開かれた。そのお方は神であり、真理であり、永遠のいのちであり、永遠の愛であり、きのうもきょうも、いつまでも変わらないお方であり、わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てないと言ってくださるお方である。彼が得たものは、失ったものと比較にならなかった。けれども、パリサイ人たちなどは、キリストの価値に全く目が開かれなかった。それゆえ、キリストに盲目であると揶揄されてしまった。

伝道していると、やっぱり世の中は金だ、神さまなんか関係ない、という話を聞かされることがある。年金だけで暮らしていけないという話題も尽きない。けれども、キリストは13章3節で、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束されている。それ以上に私たちは、私たちのたましいの賃金はキリストであるということを覚えたい。これにまさる賃金はない。

ヘブル人の手紙において、著者は最後の章に来て、はっきりとキリストを選び取るように促している。著者はこれまで、キリストの偉大さをくり返しくり返し教えてきた。著者は1章において、キリストは創造者、神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、万物の保持者、神ご自身、御使いよりもまさるお方という紹介で始めて、2章以降も、キリストの素晴らしさを多面的に紹介していく。完全な救い主であることが明らかにされていく。こんなに多くの文字を費やしてキリストの偉大さを教えている手紙は他にない。右往左往している手紙の受取人たちの信仰を、しっかり立たせるためである。そしてここで、きっぱりとしたキリストへの信仰を求めている。宿営の中は心理的には居心地がいいと言えばいい。皆と合わせていればいいので、楽と言えば楽。だが、それは本当の生き方ではないし、空しさが残るはずである。宿営の中では、キリストとの真の交わりは起きない。

著者は、私たちに名目上のクリスチャンでいることを望まない。名目上のクリスチャンは、周囲に合わせ、キリストの価値観に背くことに簡単に手を染めてしまうだろう。だから、宿営の外に出ることを求めている。私たちはいつでもキリストを選び取りたい。キリストのそば近くあろうとすることを求めよう。キリストに優るものは何もない。

「みもとに行こうではありませんか」(13節後半)。直訳は「彼のもとに行こう」。すなわち、「キリストのもとに行こう」である。お見合いの時間になってもお見合いに行かず、相手の男性を待ちぼうけさせた話を聞いたことがある。また、「午後○○時に公園で待っているからね」。ところが外は雨が降っているし、やっぱりや~めた、ということも起きるかもしれない。「結婚しよう。勤務先は秋田になる。北国の秋田で苦労をともにしてほしい」と言われ、「結婚はいいけれども、雪国はごめんだわ」と言ってお断わり。似たような話はあるかもしれない。夫の世間的立場が悪くなった。すると奥さんは離れたり、他人を装ったり、そういう話も聞く。けれどもこの場合、相手は主イエス・キリストである。キリストは囚人となり死刑囚となったことは事実である。それで、お前たちは何信じてるんだ、と馬鹿にされることがあるのは事実である。世間体も何もあったものではない。キリストとともに生きることは、13節で言われているように、はずかしめを身に負うことを覚悟しなければならない。けれども、キリストは誰のために、この苦しみとはずかしめを身に負ったのかということである。また何のために、この苦しみとはずかしめを身に負ったのかということである。誰のために、何のために、血を流して死なれたのかということである。私たちは自分の立ち位置をあいまいにしていてはならないだろう。宿営の外に出るのである。そして、自分の十字架を負ってキリストに従うのである。宿営の外はキリスト信仰に生きる場所である。

14節では、宿営から都へと表現は移る。当時の、実際の宿営は都エルサレムであるので、つながりは自然である。キリスト者は地上の都に固執しない。後に来ようとしている永遠の都を求めているのである。黙示録21,22章には新しい都、新天新地の描写があり、21章2節では「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た」とある。天と地は一つになるという万物の再統合があり、この時、御国は完成するのである。それが「後に来ようとしている都」であり、新しいエルサレムなのである。この都は、ヘブル12章28節では「揺り動かされない御国」と言われている。科学者の発表によると、これからの時代、益々地震が増えるということである。地球規模の大地震も懸念されている。太陽や地球の磁力が極端に減少してきていて、火山や地震活動が増えるようである。いずれ、世の終わりは近い。そして揺り動かされない御国、永遠の都が訪れる。黙示録21章27節では、子羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、この都に入ることができるのだと言う。私たちはこの都を求めている者たちとしても、宿営の外に出ることをためらってはならないのである。一般の人々は宿営の中にとどまり、この世にしがみつき、そこに安全、安心、安定を求めるだろう。けれども、それは賢明ではない。世は過ぎ行くもの、滅び去るものである。

私たちは宿営の中にとどまり、この世の価値観、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、偶像崇拝、偽りの教え、意味のない風習、闇の霊性、そうしたものに絡み取られ、支配され生きていくのか。そこから脱し、後に来ようとしている都を求めつつ、キリストを選び取り、キリストとともに生きるのか。著者は私たちに選択を迫っている。私たちは玉虫色でいることなく、明確な立場を取りたいと思う。キリストは、わたしのもとに来るのは誰か、わたしの側につくのは誰か、わたしに従うのは誰かと、呼びかけておられる。