私たちの目を、現代の日常生活に向けてみるとき、変化に気づくことがある。私の記憶に強く残っているのは、車窓から見た都会の街並みである。真新しい一戸建て住宅がズラリと立ち並ぶ光景を見て、綺麗だなと思ったことがある。それから20年ほど経って同じ場所に来たとき、そこにはくすんだ外壁の住宅がズラリと立ち並んでいた。年月を感じた。私たち人間も、気力、体力、記憶力が衰え、変化を遂げて行く。久しぶりに会った人に「相変わらずお若いわね」と言われても、素直に、そのことばを受けとめられない自分がいたりする。すべて形あるものは、くすんで朽ちていく。けれども、そうでないお方がおられる。

今日の箇所は、信仰生活の実際的教えが散りばめられていて、最後は、きのうも、きょうも、いつまでも変わらないキリストへの信頼が生活の基盤になることを教えている。著者はこれまでキリストの偉大さを、切り口を変えて、様々な角度から語ってきたが、今日の箇所も最終的には偉大なキリストに目を向けさせる。先ずはじめに、著者が語る信仰生活の実際的教えについて見ていこう。全部で五つある。

第一、「兄弟愛をいつも持っていなさい」(1節)。キリストはある時、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24章12節)と預言されたことがあった。地球温暖化と言われる時代を迎えたが、キリストは精神的には「地球寒冷化」の時代が到来することを預言されていた。ここでの勧めは、その寒冷化と反対ものである。「兄弟愛」<フィラデルフィア>は、「暖かい愛情」を意味する<フィレオー>ということばが元になってできたことばである。<フィレオー>は肉体的感情をも含むもので、家庭のぬくもりを感じさせるような愛。家族愛と言ってもよいものである。相手を温める暖かい愛。手紙の受取人たちは外では冷たくあしらわれることがあったわけだが、お互いの間ではそうであってはならないよ、と教えている。教会は対社会的には組織だが、しかし、互いの自覚は神の家族であるべきである。ご自分が育った家族、あるいは今の家族を思ってみて、一組織だと思った人はいるだろうか。いないと思う。そうである。私たちは組織の一員ではなく、家族の一員である。まず、その自覚に立ちたいと思う。

第二、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」(2節前半)。「旅人をもてなすこと」とは、原語では一語である。先ほどの「フィレオー」と「旅人」ということばの合成語である。よって旅人を愛情をもってもてなすことの勧めである。当時は旅館の設備は思わしくなく、またどの宿場も道徳的に感心できない事情があったらしい。ここでは、よそから来た人を受入れ、仕えるということが重要な徳目とされている。現代は家から客間はなくなりつつあり、もてなすスタイルに変化は見られるが、精神は同じということである。「こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」(2節後半)は、創世記に記されているアブラハム、ロトを読者に思い起こさせるわけだが、彼ら以外にも、同じような体験をした者たちがいたであろう。

第三、「苦しめられている人々を思いやりなさい」(3節後半)。苦しめられている代表的な存在が「牢につながれている人々」。当時は何の悪いことをしていなくても、牢に入れられることはよくあった。それを知った人々は自分が牢に入れられた身になってイメージしてみる。牢の暗さ、地面の冷たさ、空気の悪さ、そこで受ける虐待、恥、痛み、飢え、寒さ、孤独感、そうしたことを自分で味わうかのようにイメージしてみる。そこから自分に何ができるのかと考えて、手助けする。当時の囚人は、食べるもの、着るもの、その他の必要を、知人や友人に頼ることが大きかったという。3節の教えのポイントは、援助ではなく共感である。共感なしでお金で解決してしまおうとする援助がある。共感とは切り離された援助システムがある。しかし、聖書は共感を重んじ、共感を出発点にしている。方法ではない。しかし、共感するのは容易なことではない。自分はその人が苦しんでいる場所にいるわけではないし、その経験もよくわからない。けれども、「肉体をもっているのですから」と聖書は語る。肉体をもっている者は、もし同じ苦しみが自分にも与えられるなら、どのように感じるのか想像できる立場にある。だからその想像を働かせ、冷風が肌を貫く痛みや、全身を憔悴させる暑さや、飢え渇きや、傷の痛みや、そうしたことから来るストレスといった様々なことを思い浮かべることができる。共感力、共感する努力が責任として言われている。このことに関して、神のことばであり、神ご自身であるキリストは肉体を持たれたので、私たちの弱さに同情してくださる方であることも、励ましとして付け加えておきたいと思う。

第四、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい」(4節前半)。これは、後半の記述から、不貞を戒めているものであることがわかる。不貞は自分の家庭を壊し、他人の家庭を壊す。本人たちも罪で病み、傷つくことになる。だが、著者はもっと重いことを述べている。「なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです」(4節後半)。いつの時代でも聖書の性道徳の教えは珍奇なもの、また現代では時代遅れのものとみなされるが、神を恐れなければならない。

第五、「金銭を愛する生活をしてはいけません」(5節前半)。直訳は「生活は、金銭を愛するな」。金銭を愛することの禁止命令。「金銭を愛するな」は原文では一語で、愛情を意味する<フィレオー>の形容詞が組み込まれている。金銭は生活手段としては必要である。だが金銭に愛情を注いではならない、愛着心をもってはならないと言われている。これも現代の流行の教えと逆行している。「金銭を愛するな」と言われると、愛したくなるのが人間だが、そうさせないために5節後半がある。「わたしは、決してあなたを捨てず、あなたを離れない」。もちろん、キリストが私たちに直接、お金を渡したり、カードを渡したり、口座に振り込んでくれるということではない。キリストはともにいて、導き、助けてくださるということである。ともにいて私たちの経済生活にも心を配ってくださり、必要なものを必要な分だけくださる。この信仰に立つ時、金銭に執着しないで、「今持っているもので満足」する生き方を選び取ることができる。すなわち、神にあるシンプルライフを実践できる。

シンプルライフの秘訣を二つだけ述べよう。第一に、神(主キリスト)を第一に求める。そうすれば、浪費や金銭のむさぼりや、生活の不安、思い煩いが鎮まる。一例として取税人ザアカイの回心の記事を見てみよう。ルカ19章1~10節をご覧ください。ザアカイは金銭を愛する生活をしていた人である。職業は取税人。取税人は国家に雇われた徴税人で、ローマの手先として嫌われていた。庶民に税率の計算法などろくに教えなかったものだから、だまし取るのはお手の物だった。彼らは「犬」と呼ばれていた。また収税人からは施しも寄付も受け取るなと言われた。なぜかというと、それは汚い金だからというわけである。彼らは「盗っ人」と同列に見られていた。収税人は不実の代名詞とされ、裁判では証人に立つのを禁じられたほど。全く信用を失っていた。だからザアカイはお金に囲まれていたけれども孤独だった。彼の心は冷たく暗いほら穴同然だった。彼はいつしか自分にはキリストという人格が必要であることを悟るようになっていた。そのザアカイにキリストは語りかけた。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(5節)。収税人が嫌われ者であったことを思う時、このことばはどれほどザアカイを喜ばせたかと思う。当時の文化的背景を考えて、これを表現し直すと、「きょう、あなたの心に入る。いいかい?」ということである。愛に満ち、真理に満ち、永遠のいのちでありたもうキリストの語りかけである。ザアカイは心の部屋にキリストを迎え入れた。ザアカイの愛情は金銭からキリストに移ってしまうことになる。私たちも、キリストが金銭に優るお方であることを知っている。そして金銭は神のため、人のために使うことを学んでいくのである。

シンプルライフのための秘訣の第二は、実用性を考えて買うということ。現代の便利品類のコマーシャルは、この点、あの点と新しい機能や特徴を強調し、消費者に買換えを説得しようとする。実際はそう便利でもなかったりする。いろんな物が溢れている社会に生きていると、物が自分を幸せにしてくれるものだと錯覚してしまう。不毛の北極地方に何ヶ月も単独で滞在したリチャード・E・バードは日記にこう記している。「人間は大量の物質が無くても、大いに人間らしく生きられることを学んだ」。私たちキリスト者の場合は、「人間は大量の物質が無くても、イエス・キリストさえともにいてくださればいい」ということになるだろう。

6節は5節からの流れで、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言ってくださるお方がともにいるのだから、苦難の中にいる聖徒たちよ、心理的にも経済的にも圧迫されていて大変かもしれないが、恐れることはない、と言いたい。

そして7節において、今は召されたかもしれない指導者たちの信仰にならうように告げている。その信仰とはイエス・キリストに対する信仰である。そこで著者は今日の区分の最後に、8節で、イエス・キリストに目を固着させる。

そこで最後に、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と語りかけて下さる方の素晴らしさを、8節から学ぼう。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。ここではキリストの不変性が言われている。「きのうも」とはいつのことだろうか。「人間としてこの世におられた時」と言うことができるだろう。私たちの時代からすれば二千年前ということになる。人間としてこの世におられた時のお姿は福音書等によく記されている。先ほどはザアカイの家に来られた時の、愛情深いお姿をご一緒に見た。

続いて「きょう」とは、「今日⁄こんにち」ということだろう。私たちもザアカイと同じくキリストと出会い、福音書の世界に生きることが許されている。キリストの愛と恵み、慈しみ、その御力は「きょう」も変わらない。私たちは福音書等を通して、昔と変わらないキリストの語りかけをダイレクトに聞くことが許される。そして、

また「きょう」とは、「キリストが天において働いておられる今」と言えるかもしれない。キリストは天において神の右の座に着き、私たちのためにとりなしをしていてくださるお方である。著者は4章の終わりで、「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(16節)と私たちを励ましている。私たちは祈りによって昔と変わらないキリストの助けを仰ぐことが許されている。

「いつまでも」とは、「永遠の先までも」ということである。著者は7章24節で、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます」と、キリストの永遠性と不変性について語っていた。キリストの私たちに対する愛も力も衰えることはない。またそれゆえに、私たちへの関わり方を変えてしまうことはない。力が無くなってきたから「あなたを離れず、また、あなたを捨てない」なんてもう無理、約束守れないとか、悪いけど気が変わったとか、そういったことはない。よってキリストは、この地上のことだけではなく、死の先のことも、永遠の先までも全く信頼できるお方なのである。

俳人の松尾芭蕉は、旅先で死の床に伏したとき、深夜にこう詠んだ。

旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる

 

美の狩人、風雅の達人の行き着いた先は枯野だった。花びら舞う花野ではなかった。自分のたましいが荒涼たる枯野を駆け抜けて行く。それも、あてどもなく、行き着くところなく、どこまでも、どこまでもさ迷い歩く。そういう凄みを映し出している。だが、ここに、死の彼方にはばたく世界は見えてこない。よって、希望や明るさはない。

あるクリスチャンの方が、この一句を受けて、こう詠んだ。「旅に病んで、夢は御国をかけめぐる」。この方は病床にあって、永遠の生を想って、天の御国に心をはばたかせた。「わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われたキリストは、死においても私たちを見捨てることはない。朽ちることのない永遠のいのちを備えてくださっている。私たちは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることのない救い主であるキリストとともに、きのうも、きょうも、いつまでも生きる身とされている。このお方に対して心のスイッチはいつもONにし、このお方を前に置き、内なる耳を開き、内なる目を開き、一日24時間、そして永遠の先までも歩んでいこう。