12章に入って、「人生のレース」、「人生のトレーニング」と学んできて、ラストは「人生のゴール」である。キリスト者の人生のゴールは希望と喜びに満ちたものである。28節において、それは「揺り動かされない御国」と描写されている。永遠の御国である。感謝したいと思う。世の中には、このような素晴らしいゴールを選択できることも知らずに、人生のゴールは無であると本気で信じている人たちがいるし、また多くの人は、どうなるのだろう?わからないと、クエスチョンマークのまま生きている。もし、ゴールがどこにあるかわからないまま走るランナーがいるとしたら、愚かだと人は笑うだろう。けれども、笑ってはいられない現実があるのではないだろうか。多くの人は人生のゴールがどこにあって、それはどういうものなのかわからないでいる。人生の最期を考えると恐ろしくなるので、考えないようにしているという方も多い。

この世では、人は死んだら天国に行くという表現は使う。「天国」という表現であるが、一昔前の口語訳の聖書は「天の御国」を「天国」と訳していたのだが、この表現が広まった。聖書の前後の文脈無視で、このことばだけが切り取られ、人々は口にするようになった。今や「天国」は自動的に誰でも入ってしまえるかのような世界とされ、神の前に悔い改め、福音を信じる者が入るという条件は無視され、それだけでなく日本では、仏教の六道輪廻の一つの世界と混同されてもいる。「天の御国」とは「神の国」の言い換えである。「天の御国」(天国)という表現はマタイの福音書で一番多く使用されており、33回登場する。マルコ、ルカは零で、ヨハネでも2回登場するのみである。なぜマタイは「天の御国」という表現を多用するのかと言えば、マタイの福音書はユダヤ人を強く意識しているということに関係がある。ユダヤ人は「神の御名をみだりに唱えてはならない」という十戒の第三戒の命令により、「神」という言葉を口にするのをはばかり、代わりに「天」という婉曲的表現を使うことが多かった。それでマタイは「天の御国」という表現をより好んで使用したのだと思われる。反対に、マルコ、ルカは、「神の国」という表現しか使わない。「神の国」は「神が王として支配する世界」を意味する。聖書は、キリストが神であり王であると伝えている。神に対して、キリストに対して不敬神な思いでいる人にとっては、この神の国という世界、天の御国という世界は苦痛でしかない世界であろう。キリストは神の国に人類を招くために地上に人となって来られ、福音を伝えられた。悔い改め、わたしを神の救い主、王と信じるなら、神の国は約束されると。そして信じる者を神の国に救い入れるみわざとして、神の国の王であるにもかかわらず、私たちの罪のために十字架につき、そのいのちを償いの代価として献げられた。キリストはご存じのように王の服装を着せられ、なぶりものにされた。そして十字架につけられた時の罪状書きには、皮肉にも「王」と書いてあった。人々はキリストがまことの王であることを知らなかった。キリストは死後、三日目に、私たちのさきがけとしてよみがえり、死を打ち破り、天の御国に昇られ、神の右の座に、王の王、主の主として着座された。それは私たちのために場所を用意するためでもあった。キリストはある時こう言われた。「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(ヨハネ14章2節)。

著者は希望と喜びに満ちたゴールが信仰者にあることを伝えるために、旧約時代のモーセを通して結ばれたシナイ契約の場面について言及する(18~21節)。シナイ山は噴火警戒情報が出ている山のような恐ろしい光景になっていた。旧約、すなわち古い契約が与えられる場所はシナイ山であった。そこに神さまが顕現した(出エジプト20章)。神さまが顕現したシナイ山は聖さに満ち、異観を呈していたため、動物も人間も死の恐怖にとらわれた。恐れたのは民たちだけではない。仲介者のモーセでさえ恐れた(21節)。シナイ山は恐れのシンボルである。恐怖の象徴である。

著者は、キリスト者は恐れのシナイ山に近づいているのではなく、「シオンの山」に近づいていると言及している(22節)。シオンの山は喜びのシンボルである。シオンの山とはエルサレムにある丘のことで、ここに神殿が建てられていた。キリストが「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」(ルカ22章20節)と最後の晩餐を守られた場所は、このシオンの丘であると言われている。このシオンの丘は、エルサレム全体を指すことばとしても用いられた。このシオンは「神の御住まい」と呼ばれていた(詩篇9編11節)。それは「主はここにおられる」という場所である。著者はこの「シオンの山」という表現で、「天の御国」を描写している。「シオンの山」は「天の御国」の言い換えである。

著者は、シナイ山と対比されるシオンの山を、次々と言い換えていく。続いて、それらを見ていこう。

「生ける神の都」。アブラハムをはじめ他の聖徒たちも、この天の都を目指していた。

「天にあるエルサレム」。地上のエルサレムとの対比で言われている。地上のエルサレムは堅固な場所で、要塞都市だった。しかしながら、絶対的に安全な場所ではない。地震もある。それに対して「天にあるエルサレム」は安全、安心な場所で、揺り動かされることなく、「新しいエルサレム」とも呼ばれている(黙示21章2節等)。

「無数の御使いたちの大祝会」。「シオンの山」「生ける神の都」「天にあるエルサレム」と言われている天の御国には大勢の聖徒たちがいるだけではなく、無数の御使いたちがいて、そこは大祝会が行われる場所である。黙示録では、その御使いの数は「万の幾万倍、千の幾千倍」と描写されている(5章11節)。そこで無数の御使いと会うことになる。私はまだ実感がわかない。このようにシオンの山は大祝会の場所であって、恐怖に震える場所ではない。喜びに満ちあふれた場所なのである。

著者は続いて23,24節で、ゴールの先にあるものを、様々に紹介している。

「天に登録されている長子たちの教会」。著者は天の教会と言わずに、ユニークな表現を取っている。「天に登録されている長子」とは誰なのかということだが、キリストを信じる人たちのことである。「長子」は聖書で「初子」とも呼ばれているが、長子は相続権をもつ。ここで著者は神の国の相続人のことを「長子」ということばで伝えている。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人なのです」(ローマ8章17節)。神の国の相続人であるキリスト者は、すでに天に登録されている。イスラエルでは初子を登録するという規定があったが、神の国の相続人であるキリスト者は、すでに天に登録されている。皆さんはいろいろな所に登録されているはずである。市町村に登録されている、スーパーに登録されている、銀行に登録されている、何かのクラブに登録されている等。でも、天に登録されていることが一番。

「万民の審判者である神」。神を審判者として紹介するのが、ヘブル人の手紙の特徴でもある。気を抜いた人生のレースをしないようにという著者の意図があるのだろう。    「全うされた義人たちの霊」。11章で論じられてきたような旧約時代の信仰者が想定される。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤ、エステル、他の多くの旧約の聖徒がいる。今の時代はそれに加え、ペテロやヨハネをはじめとする聖徒たちも加えられるだろう。当然、主を信じて先に天に召された家族たちも入るだろう。天の御国で初めて会う人たち、再会する人たち、とにかく数えきれないほどの神の家族がいる。名前を覚えるのがたいへん。

「新しい契約の仲介者イエス」。古い契約の仲介者はモーセであったが、私たちはイエス・キリストに近づいている。このお方と会いまみえる。これが最高の望みである。キリストは私たちの信仰の初めであり、途中の道であり、ゴールである。天の御国はキリストの臨在で満ち満ちているところと言ってよい。御国とはキリストと言ってしまってよい世界である。だから、天国に行きたいけれどもキリストを信じたくないと言っているこの世の人たちは、御国の性質を何もわかっていない。キリストがいなくなったら、そこは御国ではない。私たちは、キリストと会いまみえることを一番の望みとしたい。

「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」。これは一言で言えば、キリストが十字架上で流された血である。著者は先に「新しい契約の仲介者イエス」と紹介したので、その流れで、新しい契約を成就させたキリストの血について語ったのだろう。この血なくば、私たちは天の御国に救入れられない。その血は罪の赦しの血、贖いの代価である。

このキリストが流された血がアベルの血との比較で言われている。アベルの血について簡単に触れておこう(ヘブル11章4節)(創世記4章1~11節)。アベルは兄のカインのねたみを買い殺されてしまった。神はカインに告げた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる(創世記4章11節)。アベルの血は何を叫んでいるのだろうか。正義と報復を叫んでいる。

キリストも一見すると、アベルと同じような末路をたどった。当時のユダヤ教指導者たちのねたみを買い、十字架刑に処せられ、血を流し、死んだ。けれども、その血は報復を叫んでいるのだろうか。違う。キリストが流された血は、新しい契約のためのものであり、その血は罪の赦しと和解を呼びかけている。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル9章22節)。キリストの血は私たちの罪を赦し、罪ののろいを取り去り、それは神との平和をもたらす。さらにそれは永遠の御国に入る保証となる。全き救いの保証となる。私たちは報復、裁きに近づいているのではない。「アベルの血よりもすぐれていることを語る注ぎかけの血」、その血が意味するところの、全き救いに近づいている。

著者はこの後、天の御国を待ち望む姿勢について教えていく(25~29節)。私たちはどのような姿勢で待ち望むのがふさわしいのだろうか。寄留者としての姿勢を忘れて、この地上が永遠の住まいであるかのような世俗的な精神でいることではないことは確かである。著者は今の天と地は揺り動かされ滅びることを告げている(26節)。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす」とは、旧約聖書ハガイ2章6節の預言である。同じような預言はキリストご自身もされている。「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺る動かされます」(マタイ24:19)。ヨハネの黙示録でも同じような預言が頻繁に見られる。大地震はあってほしくないが、それは避けられない。また宇宙全体の異変も避けられない。私たちは揺り動かされるものから、永遠に揺り動かされないものに期待と希望を置くのである。信仰の父と言われたアブラハムがまさしくそうであった。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです」(ヘブル11章9節)。「堅い基礎の上に建てられた都」とは、「揺り動かされない御国」(28節)に他ならない。

著者は、この生ける神の都、天の御国を待ち望む姿勢として、28節で「慎みと恐れ」を告げている(新改訳2017「敬虔と恐れ」)。すべてのものが揺り動かされる日が近づいている。神の審判の日が近づいている。ならば、私たちは、この慎みと恐れを持たなければならない。終末時代の霊性は、神を恐れることにあると言ってよい。世はますます神を恐れない様を呈してきている。罪を罪とせず、誰が私たちを裁くのかと傲慢さを顔に表している。すべてが許されるという風潮が世の終わりの特徴である。それは神への恐れを失った世界である。人の心には死への恐れがあると言われている。そして根底には神の裁きへの恐れがある。しかし、そうしたことと向き合おうとはせずに、罪を肯定したり、罪を楽しもうとするのだ。だが私たちはへりくだって神を恐れ、神に仕える霊性を養っていきたい。

最後の29節を見よう。「私たちの神は焼きつくす火です」は、神さまを最高に恐れさせる表現である。印象に強く残る表現である。この表現は著者の発明ではなく、すでに申命記4章24節にある。そこでは神の戒めにそむいたら裁きがあるという文脈で記されている。裁きをペテロも次のように警告している。「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです」(第二ペテロ3章7節)。「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きを立てて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたはどれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」(同3章10,11節)。このようにペテロも火のさばきについて語り、敬虔な生き方を教えている。またヨハネは黙示録20章15節でこう語る。「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」。

ヘブル人への手紙の著者はユニークな手法を取っている。初めは、18,19節にあるように、「あなたがたは、手でさわれる山、<燃える火>、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません」と安心を与えておいて、最後に、「私たちの神は焼き尽くす火です」と気を引きしめさせている。

私たちクリスチャンは焼き鳥の刑に向かって信仰のレースに臨んでいるわけではない。けれども世界全体は火の裁きに向かって進んでいる。あなたがたも、その仲間にならないようにという警告である。良い意味での緊張感は必要である。もし私たちが良い意味での緊張感を失うならば、信仰の筋肉はたるみ、持久力も落ち、罪に絡み取られ、天の御国へのコースを外しかねない。

今日の箇所から、信仰のゴールのすばらしさを再確認しよう。これ以上ないという喜びのゴールが待っている。ともに信仰のレース途上には落とし穴もあるので、神を恐れて、聖なる緊張感も忘れずに、キリストから目を離さずに走り続けたいと思う。