私たちを迷わすものは周囲に満ちている。それを今日の箇所では「さまざまの異なった教え」と言われている。現代も、さまざまの異なった教えがあって、人々を迷わしている。著者が言わんとしている「異なった教え」とは、一応キリストを伝える教えである。だから迷わされる。背後に異質な教えを備え、キリストを信じましょうと訴えてくる。このような惑わしは、初代教会時代からすでにあった。パウロは言っている。「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことをせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」(第二コリント2章17節)。コリント教会にも偽りの教師が侵入してきた。にもかかわらず、コリント教会の人たちの中には、使徒パウロの教えのほうを怪しんで聴く者たちがいた。同じような混乱は現代でも続いている。なぜ、異なった教え、偽りの教えを見抜くことができないことが起こりうるのか。本物に見えるからである。偽札、偽ブランド、そういったものは限りなく本物に近く見えるから、人はだまされる。異なった教えもそうである。全部異なっているわけではない。表面的には真理で偽装されている。真理が散りばめられている。だからだまされる。だが、それが偽りかどうかを見抜くポイントは単純と言えば単純である。聖書プラス何かの教えを付け加えていたり、聖書の教えを削ったりということをしているかどうか、である。良くある事例では、奇跡、不思議の体験を強調し、自分を権威づけ、自分が語ることばは神から啓示を受けたことばだと、聖書のことばと同等の権威づけをしてしまう。神から預言を受けたと外れる預言をする。また、世の終わりの年やキリストの再臨の年を計算して、それを真実だと思い込ませる。

現代の異なった教え、偽りの教えは見抜くのが困難になってきたと言われている。それは詐欺の手口が摘発されるたびに巧妙になってきているのと一緒である。昔は、三位一体を信じていなければ異端だと、わりと容易に判別できた。けれども、最近のキリスト教系の異端はそうではない。最近、日本福音同盟を通して、韓国に母体のある異端の教会が東京で集会参加を呼び掛けているので注意するようにという情報が来た。韓国で猛威を振るっている異端だそうである。そこで少し調べてみると、その教会は、キリストの十字架の永遠の贖いを強調し、自分の思いではなく、神のことばを信じるように強調する。一見、何も問題がないように思える。ところが、「キリストを信じた時、罪はなくなるのだ。クリスチャンが、毎日の生活で、自分に罪はある、悔い改めなくちゃならない、そんなことを思うことこそ罪。それは悪魔のだましなのだ。自分が罪人であると思っているクリスチャンは地獄に落ちる。キリストを信じたら悔い改めなくちゃならない罪などなくなる。悔い改めるのはまちがっているし、赦されなければいけない罪などなくなったのだ」。そのように主張し、キリストを信じた後に犯す罪はすべて罪ではないと教え込んでいる。だから赦される必要も、悔い改める必要もない。この異端はクリスチャンに対して、実際に罪があっても罪はないと思い込ませ、罪の意識をもたないように教え込んでくる。パウロは言った。「私にはやましいところは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です」(第一コリント4章4節)。またパウロは地上で罪なき完全になれることを説く人ユダヤ主義者たちを意識して、「私は、・・・すでに完全にされているのでもありません」(ピリピ3章12節)と言っている。ヨハネは当時のグノーシスという異端を意識してこう言っている。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いているのです。真理は私たちのうちにありません」(第一ヨハネ1章8節)。私たちはキリストを主人として聖霊に導かれて歩むことができる。だからといって、罪を犯す可能性がなくなるわけではない。自分が神に近づけば近づくほど、自分が罪深く感じるというのも本当である。キリストが弟子たちに対して日毎に祈るように教えた祈りは「主の祈り」だった。そこには、「私たちの罪をお赦しください」とあるではないか。初代教会時代は、毎日、これを祈っていた。自分に罪がないと言うのは高ぶりであり、傲慢にすぎない。それこそ、悪魔を喜ばせる罪である。

では9節に目を落そう。「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした」。当時、食物の制限を重要視する異端的な教えがあったのだろう。パウロは、「私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても益になりません」(第一コリント8章8節)。かつてカトリックは金曜日に魚を食べる習慣を持っていたが、魚を食べることと霊的になることを結び付けていた。げんをかつぐ程度の意識だったかもしれないが。

モルモン教はコーヒー、お茶、コーラを禁じていることで良く知られている。基本、一夫多妻も受け入れている。それ以前の問題が彼らにはある。彼らはキリストの十字架の贖いと復活を信じることが救いには必要だと説く。それなら、私たちと同じではないかと思ってしまう。それで人はだまされる。ところがである。彼らの聖典は「聖書」だけではなく、「モルモン書」「教義と誓約」「高価な真珠」の四書からなる。モルモン教はジョセフ・スミスが天使と出会ってお告げを受け、モルモン書を発見するところから始まる。「モルモン書」は聖書以上に権威のある書とされており、聖書は間違いだらけの書なのだと言う。私たちが「聖書は誤りのない神のことばで、信仰と実践の唯一の規範で、信頼に値する」と信じていることとかけ離れている。キリストを信じることに加えて、聖書的根拠は何もない密儀宗教的な様々な儀式を導入し、信者にあずからせている。いわば人が神に進化していく儀式である。創設者のジョセフ・スミスは秘密の儀式を実践するフリーメーソンに加入し、マスターメーソンにまで昇格しており、フリーメーソンの儀式に類似していることを実践しているのだ。彼らは、神が無から世界を創造したことを否定する。「主が無からこの地球を造られたという主張は不合理であり、不可能である。神は無から決して何かを造り出したりはなされない」。彼らは今の世界は永遠の昔から神のうちに、神とともにあった構成要素が組織されてできたものであるとする。彼らは創造ではなく、もともと永遠の昔からあったものが組織されたという組織を説き、宇宙に内在し、宇宙と一体である神を説く。神と被造物という区別はない。人間も創造の作品ではない。人間は、神という永遠の存在の一部で、永遠の心という神的英知の中に存在していたとするので、人間の霊は神と同等になれる潜在力を秘めていると説く。こうした教えは、神と物質、神と人間が未分化であるアニミズム(神道)やニューエイジの世界観と同じである。また多数の神々の存在さえ説く。例えば、「教義と誓約」では「アブラハムは天使にあらず・・・神々なり」などという記述もあり、多神教的なのである。神々は永遠の昔から神と一つになって存在していたとされ、この神々がこの宇宙を組織したと教えている。彼らは、父なる神、キリスト、聖霊なる神という信仰告白をするが、内実は、キリスト教と全く違っている。混乱するのは、父なる神の上に神がいるという主張だ。父なる神とは、かつて死すべき存在で、死んで復活し、栄化され、時間をかけて全能者になったというのだ。そして第二の神キリストは、父なる神と妻、もしくは妻たちとの間に生まれた子どもであるというのだ。そして私たち人間も、もともと神の一部的存在なので、神性を宿しているので、進歩によって神のようになれるとする。彼らは三位一を否定しているばかりか、このように人間を神格化する思想をもっている。霊の進化、たましいの進化を説き、ニューエイジのそれと同じである。エデンの園で、「あなたは神のようになれる」とエバを誘惑したサタンの手法と同じである。

エホバの証人の創設者チャールズ・ラッセルも神秘主義者である。彼もフリーメーソンに加入していたと言われている。彼も天使のお告げによって活動を始めている。彼はピラミッドに隠れた教えがあると信じ、ピラミッドの寸法の計算から1914年というハルマゲドンの年を割りだし、後に、この年がキリスト再臨の年であると告げた。今は、この1914年がキリストが天において統治を始めた年であるとともに、終わりの時が始まった年であると主張している。先に触れたピラミッドだが、ピラミッドといえばフリーメーソンのシンボルであるが、彼の墓にはピラミッドが刻まれ、また彼の墓の近くにある記念碑はピラミッドの形をしている。完全に怪しい人物である。彼らが使用している聖書「新世界訳」は、自分たちは原典に一番忠実な訳であると自称しているが、キリストから神性を剥奪する意図的なひどい改訳で、彼らはキリストを被造物の天使だとしてしまっている。また、原典のギリシャ語聖書に「エホバ」などという呼び名はいっさい出てこないが、彼らは信者たちにこの事実を隠し、この呼び名しか認めない。人間にたましいがあることも認めないのも特徴的で、現代のサドカイ人たちである。輸血禁止は一般の人たちも良く知られているところである。血のあるまま肉を食べてはならないという過渡的な一過性の教えを、輸血の分野にまで持ち込んで、それを普遍的な戒めにしてしまった。

統一教会も簡単に触れておこう。彼らにとって、キリストの十字架は人類の贖いのための神のご計画ではなかった。おかわいそうに十字架につけられてしまっての次元のお話である。そして文鮮明こそが再臨のキリストなのだから、彼を信じ受け入れなければならないとなる。彼は完全な反キリストである。

では異端ではなく、キリスト教と呼ばれている教派はどうだろうか。ギリシャ正教会を挙げてみよう。ギリシャ正教会の特徴として「イコン」がある。「イコン」はギリシャ語の「イメージ」ということばから来ている。それは具体的にはキリスト教絵画であるわけだが、イコンは聖書の代わりを果たすと主張している。ここに問題がある。キリストと十字架を描いた絵を神棚と称する棚に置いたり、また聖人を描いたイコンをあちらこちらに置く。このイコンは生活の中でお札の役割を果たすと言う。「イコンとお札では、意味において大変な差があるが、用途は一見したところお札と余り変わらない。身近な例として車の中のイコンをみてみると、どの車にも聖クリストフォロスという聖人のイコンがかけてある。幼子イエスを肩に乗せた聖クリストフォロスは、交通安全の守護の聖人である。病気がちの人は聖パンテレィモン、聖コスマスとダミアンという医者の聖人に祈願する。聖ゲオルギイや預言者イリヤには厄除けと農耕の成果のための祈りが捧げられ、子どもたちの守護は聖ニコライに祈願される。聖ニコライはサンタクロースで有名な聖人で、慈悲深さを教えるとともに、商人の守護聖人でもある。・・・これらの諸聖人のイコンは、日本のお札のように必要な場所にかかげられて守護を仰ぐようになっている。困ったときにはどの聖人に頼めばよいかも決まっており、お百度を踏むこともある」(日本ハリストス正教司祭)。この方々は自分たちこそが初代教会の伝統を引き継いでいるというが、単に、神道の外国版を実践しているように思えてしまう。

ローマカトリックでも、マリアをはじめ聖人に祈る。カトリックでは、生前、奇跡を二回以上行ったと認定されると聖人に昇格できるとのこと。そしてその聖人に祈る。「カトリックには多くの保護聖人がいると聞くと、それではもう多神教だという人がいますが、それは誤解です。・・・人間が聖人に願うのは、神に自分の願いをとりついでもらうことです。保護聖人はいわば願いの受付係です。・・・すぐ近所に出張所があって、親戚のおじさんが受付デスクに座っているのに、必ず市役所本庁に行かなければならないということはありません」(日本カトリック司祭)。でも、こんな教えを聖書に見出すことができるだろうか。ヘブル人への手紙は、神と人との間の仲介者として唯一キリストを紹介し、大祭司の務めを永遠に果たされるこのキリストにとりなしを願い、このお方に向かって嘆願するように教えている。近所の出張所の聖人おじさんの所に行ってもいいよ、などとふざけたことは教えていない。もちろん、マリアへの嘆願も教えていない。

まっすぐキリストに向かうべきところ、いつしかそのキリストは、壮麗な教会堂や、りっぱなガウンや、手の込んだ絵画や、豪華な宗教備品や、複雑な儀式や、人目を引く宗教行為に取り囲まれ、人間の教えの装飾に取り囲まれ、その存在があいまいにされ、ぼかされ、代理のおじさんが座る出張所まで作られ、それどころが他宗教の神々を拝むことまで許容しと、わけのわからないことになっている。キリストだけで十分なはずなのに。そしてキリストだけが唯一の救い主と聖書は証言しているのに。私たちは聖書を通してまっすぐにキリストに向かうことができればいい。そのためにも聖書信仰である。

聖書にない教えは、たくさん生み出されている。それはプロテスタントでも変わらない。進化論が取り入れられ、偶像崇拝が許容され、罪を罪としない教えが説かれ、聖書に権威をしっかり認めているようで、実質は認めておらず、聖書に付け加えたり、削ったり、そうした教団、教会の存在は少なくない。私も会って話したことがある著名な日本人牧師が、最近、とんでもないことを主張していることを耳にした。話せば長くなってしまうので、一言でまとめるが、彼は救いはキリストにあると言うが、聖書に心理学と哲学の思想を混ぜ込んで、神は罪を裁かない、聖書は悔い改めを説いていない、と主張し始めた。

偽りの教えは、キリストを信じているだけでは足りないかのように不安を煽ることも多い。9節ではキリスト信仰プラス食物という過ちを示唆している。救いはただキリストを信じる信仰による。恵みによる。偽りの教えは、キリストを信じる信仰による恵みから心を逸らす。9節で言われている食物は、他のわざに取って代わることが多い。そして、それをしていないと不安になり、自分は救いから落ちるのではないかと強迫観念にかられる。禁欲主義的、また律法主義的キリスト教になる。

また、偽りの教えは、13節で「キリストのはずかしめを身に負って」とあるが、キリストのはずかしめを身に負わせることを避けさせることが多い。パウロはガラテヤ人への手紙で、キリストを信じることプラス割礼を強要してくる人たちを警戒するように警告を与えている。パウロは言う。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないためです」(ガラテヤ6章12節)。以前、「多元主義」、「包括主義」についてお話したことがある。聖書信仰に立たない人たちの立場である。「多元主義」は、宗教はどれも同じよ、という立場である。キリストを他の神仏レベルと同列に置いてしまう。ニューエイジムーブメントでは、キリストと菩薩の違い、キリストと他の神々の違いがどこにあるのかもわからないような教えが広まっている。そうした影響もあるように思う。「包括主義」は、キリスト教が頭一つも二つも抜きんでているとする立場だが、キリスト教の神の恩恵は他宗教にまで及ぶとする。だから、他宗教の神々を拝んでいても救われないことはないと説く(カトリック、聖書信仰に立たないプロテスタント等)。いずれにしろ、多元主義、包括主義の立場の人々は、他宗教と対立することはない。郷に入れば郷に従え、のふるまいをする。非難は避けられるだろう。だが、これが聖書の教えだろうか。旧約聖書も新約聖書も偶像崇拝はきつく戒めているのではないだろうか。それがキリスト信仰だろうか。それはただの霊的姦淫ではないだろうか。何のための信仰だろうか。趣味でやっているならそれでいい。

私たちは神を恐れる思いで聖書を注意深く読みたい。神は何と言っておられるのだろうかと。そして、ほんとうの意味でキリストを愛し、キリストに誠心誠意、仕えていきたい。異なった教え、偽りは、詐欺と同じでだまされやすいが、皆さんは、どうか騙されないでください。偽りはみことばによって排除していきたいと思う。