皆さんは、気力を失いそうになる、おじまどう、もうやっていけないと感じる、そういう経験がおありかもしれない。ヘブル人の手紙の受取人たちは、まさしくそのような試みの中にあった。この世の濁流が彼らを押し流そうとしていた。もし、その濁流ばかりに目が行き、濁流に目が奪われていたらどうなるのか。彼らは浮き沈みをくり返し、しまいには濁流に流され、キリストから離れてしまうだろう。彼らはキリストから目を離しそうになっていた。同時に、キリストのみことばが告げる救いの約束を握る手が緩み出していた。彼らはキリスト信仰に堅く立ち、キリストにしっかりと信仰の錨を下ろし、約束をしっかりと握り、最初の確信を投げ捨てず、忍耐していくことが求められていた。

前回は、キリストはすべてのささげものにまさるお方で、私たちを救う完全ないけにえとなってくださったことをご一緒に見た。キリストが私たちのために代償を払い流された血は、完全な救いの保証となった。

今日の前半部分では、キリストの血の効力が記されている。キリストの血が信仰の礎となるからである。初めにキリストの血の効力について二つのことを見よう。キリストの血は、まず第一に、天に救い入れる働きをする(19~20節)。19節の「まことの聖所」が天(天の御国)を表わしている。キリストの流された血が天に救い入れる働きをすることについては9章ですでにお話したが、20節は著者がこれまで言及しなかったことである。ここで「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」とある。「垂れ幕」とは、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕のことである。至聖所は大祭司も年に一度しか入ることができなかった聖域で、ここが天(天の御国)の型。大きさは聖所の2分の1で完全な立方体。それは天の御国(天の都)の完全性を表わしている。そこに入るには垂れ幕を通らなければならなかった。この仕切りの垂れ幕は、神の領域と人の領域を完全に隔てることを意味していた。垂れ幕には天使であるケルビムの模様が織り込まれていた。ケルビムは、アダムとエバが罪を犯してエデンの園を追放された時、二人がいのちの木に近づくことがないようにとエデンの園の境界線に置かれた存在である(創世記3章)。ケルビムは罪人は近づくなという番人の象徴。まさしく垂れ幕の模様としてはふさわしい。大祭司は年に一度、罪のためのいけにえの血を携えてこの垂れ幕を通り、至聖所に入り民のための贖いを行った。これは、キリストの十字架の血による贖いのみわざの予表であった。

キリストが十字架上で血を流し、息を引き取った時、何が起こったか。マタイ27章51節にはこうある。「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。偶然ではこんなことは起きない。この幕は馬二頭で両側から引っ張らせても裂けるものではなかったからである。だから、これは神さまが成した奇跡であり、私たちへのメッセージが込められていることがわかる。つまり、キリストの十字架の犠牲、その流された血によって、誰でも神の前に出られることを意味していた。天に救い入れられるということを意味していた。「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」という表現は、キリストがご自分のことを神殿と呼ばれていたことと関係している。黙示録では完成に至る天の都(神の都)の描写で、「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である、神であられる主と、子羊とが都の神殿だからである」とある(21章22節)。キリストは大祭司であり、ささげものであり、神殿であり、すべてのすべてである。また20節後半に「私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」とあるが、道ということに関しても、キリストは言及されていた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14章16節)。キリストが流された血は私の罪のためと信じるならば、キリストを通してまことの聖所である天の至聖所に入り、神の御顔を仰ぎ見ることが許される。

キリストの血は第二に、きよめの働きをする(22節)。「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、9章で、新しい契約とは、キリストの血によって新しい心が与えられることであることを学んだ。それをここでは「邪悪な良心をきよめられ」と表現されている。「からだをきよい水で洗われた」とは、バプテスマのことで、内的に、霊的に新しくされたことのしるしである。きよめというのは、私たちのふるまいも変えていくものである。ある方がビーイングがきよくなれは、ドーゥーイングもきよくなると言ったが、その通りである。木の性質が良くなれば実も良くなる。私たちは罪を犯す可能性は残っている。だが、キリストの血はすべての罪からきよめる働きをしてくれる。

続く23~25節では、教会生活の具体的な勧めがされている。この中で気になるのが「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで」(25節前半)である。記録によると、この頃から、キリスト者の交わりから退こうとする傾向があったようである。現代もその傾向があると言われるが、彼らはどうしてキリスト者の交わりから退こうとしたのだろうか。考えられているものを四つ挙げよう。

一つ目は、「気の緩み」。怠惰や倦怠感があって、信仰がぬるくなってきて、この世に色目を使い、二心となって、共同体の交わりから遠ざかり、ただの人のように歩む者たちが出て来た。二つ目は、「過信」。人に頼らずやっていける、共同体の助け合いなしでも済ますことができるという虚栄心に満ちた優越感のため、交わりや公同の礼拝から遠ざかってしまった。一匹狼信者。三つ目は、「人の目を恐れる」。反対する人たちの目を恐れ、役人の目を恐れ、キリスト者とみなされることを避けるため、公同の礼拝に参加しないようになった。四つ目は、「信仰のゆがみ」。信仰の理解がずれていき、キリストから目を逸らし始めた。

神さまは、私たちが一人で信仰生活を送るように定めておられない。キリストのからだに属する共同体の一員として歩むことを図っておられる。それが贖われた人としての生き方。と言う以前に、人間は一人で生きるように造られていない。ここで「いっしょに集まる」というのは、主に公同の礼拝が意識されていると思われる。この礼拝が信仰のバロメーターである。「かの日が近づいているのを見て」と意識されている「かの日」とは、キリストの再臨の日のことである。信仰のレースを、砂漠や山や川を横断する耐久レースにたとえれば、「かの日」とはゴールの日ということになる。NHKのBSで数日を要する耐久レースを観たことがある。完走するだけでも大変なレース。ほとんどの人は初日は大丈夫なのだが、途中、砂漠でバテてしまい、山道で迷いと、いろんな場面が訪れる。数人のグループ単位での耐久レースでは、まさしくメンバーで励まし合い、助け合いながらのレース。方向がわからなくなって迷う、一人のメンバーが体調をくずす、色んなことが起きるわけだが、助け合って前進する。私たちの場合は、互いにキリストから離れてしまわないで信仰のレースを全うできるようにと助け合い、励まし合うわけである。

著者はこれまで、信仰の歩みの秘訣として、キリストとキリストのみことばにとどまることであることをくり返し語ってきた。このヘブル人の手紙の執筆目的は、キリストの偉大さを伝えること、そして試練の中に置かれている彼らがキリストのことばにしっかりとどまることであった(2章1節,3章14,15節)。けれども、彼らが聞く耳持たずで、心かたくななままに歩み、故意に神に逆い続けるならば、後は無いことを、著者は手厳しい表現で語る(26~31節)。

29節の警告文をピックアップして見てみよう。ここでは、心はキリストから全く離れてしまって、罪の支配から解放されることを拒み、故意に罪を犯し続ける人の姿が、三つの表現で言われている。第一は「神の御子を踏みつける」。この表現は「絵踏(えぶみ)」を想起させる。絵踏はキリシタンでないことを証明するために、キリスト教に関係する図像を踏ませて確認する行為である。絵踏は1629年頃、長崎で始まった。長崎では春の行事として定着するようになる。踏ませるものは「踏絵」と呼ばれた。踏絵の素材は当初、紙製だったが、より強度のある木製へ変わり、それでも摩耗が激しかったために、真鍮製となった。そこには茨の冠を頂いたキリストの姿などが彫られていた。キリシタンにとって、この絵踏が信仰のテストになった。しかし、ここで、踏絵が導入されているいない関係なく、神の御子を足の下に踏みつける可能性について言われている。神の御子を足の下に踏みつけるというのは、「お前なんか関係ない、俺の生活に立ち入るな」と、蹴りを入れて、足の下に踏みにじるような侮辱的態度である。キリストと決別した人の態度である。

第二は、「自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなす」。これは言い換えると、十字架による救いなんて陳腐でありえないとすること。キリストが十字架で血を流した意味を全くなくさせる態度。見殺し。キリストを愚弄するような態度。

第三は、「恵みの御霊を侮る」。マルコ3章28,29節に「聖霊を汚す罪」がある。「まことに、あなたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。しかし、聖霊を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」。マルコの文脈を見ると、キリストに敵対し、キリストをサタン扱いにする律法学者に向かって語られたことばであるとわかる。ヘブル人の手紙の著者は、この罪について言及しているわけではないが、共通していることは、キリストに対する侮蔑である。

こうした態度の末に待っているのは「重い処罰」。罪のためのいけにえはもはや残されていない(26節)。焼き尽くす激しい火(27節)。あわれみのないさばき(28節)。恐ろしいさばき(31節)。私たちはキリストが十字架にかかり血を流してくださった意味を、心深く受けとめていたい。

著者は警告の後、励ますことで終わっている(32~39節)。この箇所からも明らかのように、読者たちは試みの中にあったことがわかる。32節から迫害があった事実を読み取れる。「激しい戦い」。34節から投獄があったことがわかる。「捕えられている人々」。同じく34節から持ち物までもが奪われてしまったことがわかる。「自分の財産が奪われても」。つまり、彼らは、私たち以上に厳しい環境の中で信仰生活を送っていたということである。彼らは、こうした中にあっても、キリストが唯一の神の救い主であり、自分たちを真の安息に招き、天の都に救い入れてくださることを信じていた。34節後半が暗示しているように、キリストを信じているなら「いつまでも残る財産」、すなわち、朽ちることのない栄光の富が自分たちのために天に蓄えられていることを信じていた。けれども、中には、その確信が揺らぎ出した者たちもいた。キリストを信じることに何の意味があるだろうかとまではいかなくとも、おもしろくないことが続いていく中で、ほんとうに天で確かな報いが用意されているのだろうかと疑心暗鬼にもなったであろう。そこで35節で、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」と言われている。「確信」と訳されていることばは、「全き信頼」と別訳することもできる。キリストとキリストのみことばに全き信頼を置くのである。キリストは大きな報いを備えていてくださる。

「大きな報いをもたらす」ということはキリストご自身も語っておられた。それはマタイ5章10~12節「義のために迫害されている者は幸いです。・・・天ではあなたがたの報いは大きいから」。「大きな報いをもたらす」ということに関して、江戸時代のキリシタンたちの話もしたい。徳川家康の命によって、数千人のキリシタンが処刑されたと言われている。キリシタン処刑の原則というものがあった。徳川幕府は、キリシタンは簡単に棄教しない、それどころか殉教の際、喜びを持っているということに気づいた。そして、その理由を知った。彼らは天国で報いが大きいという信仰があるから、拷問に際して普通の罪人(ざいにん)より忍耐があり、殉教さえいとわないのだと。そこで考えられたのは、できるだけ残酷で苛烈な手段を選び、しかもすぐに絶命させるのではなく、できるだけ苦しみを長引かせて死に至らしめるということ。一例を挙げると、同じ火あぶりに処するも、キリシタンの場合は薪を湿らせておく。こうすれば薪はくすぶり、温度はなかなか上がらない。80歳のキリシタン女性を火あぶりするのに2時間以上かかったとする記録もある。彼女はその間、意識を失うことなく、叫び声一つ上げず、最後の一瞬まで聖歌を歌い続けたという。

36節では忍耐が説かれる。「あなたがたが、神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」。忍耐ということに関しては、32節で「激しい戦いに耐えた」とあり、34節で「喜んで忍びました」とあり、「それを持続してください」という励ましである。いつまで?それは37節で言及されているキリストの再臨の日までである。37,38節はハバクク書2章の70人訳からの引用である。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」。だが、ある人たちはこう思うかもしれない。「彼らにこのメッセージがあってから二千年の月日が経った。約束は実現していない。じゅうぶん遅い、遅すぎると」。けれども、それは、狭い時空に生きる私たちの判断なのである。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日なのである。神は約束のことを遅らせているわけではない。一人の人でも滅びることを願わず、救われることを願って、忍耐しておられるのである。

苦難の中にある人は早く主に来てほしいと願うのは当然である。その人たちに必要なことは、主は約束に対して真実な方であると信じ、何があっても確信を投げ捨てず、忍耐をもって歩んでいくことである。