前回は9章より、キリストが私たちの罪を赦すために、十字架の上で身代わりの犠牲となり、尊い血を流してくださったことを中心に見た。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(9章22節)。罪の赦しというのはきれいごとでは済まないということだった。水に流せば済むということではないことを見た。罪に対しては裁きは必定で、それが赦されるためには、自分の罪を自覚し、告白した上で、いのちの代償としての身代わりの犠牲が必要だった。

旧約時代は、雄牛や山羊や子羊が犠牲動物としてささげられていた。前回見た9章は年一回に大祭司が司る「贖罪の日」が背景にあり、大祭司は犠牲動物の上に手を置き、そしてそこで民の罪を告白し、それを犠牲動物に移した。罪の転嫁である。その後、犠牲動物はほふられ、血を流した。赦された者、赦された民は、自分の罪の赦しのために、血が流された事実を知った。罪の赦しは凄惨な事実が伴った。罪が赦されるというのは、簡単なことではない。

今日の箇所で著者は「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」(4節)と語り、私たちの目を、完全ないけにえであるキリストに向けさせようとしている。当時、ささげられる犠牲動物は、傷や欠陥のないものでなければならなかった。それでも罪を完全に除くことはできなかった。いくら一級品の動物であるといっても、それは人間ではなく動物に過ぎないから。

では誰か人間を身代わりにと言っても、罪を犯す度に、誰かが身代わりになって裁きを受けていたら、いくら人間がいても足りない。一人一年に付き365人の身代わりが必要で、それ掛ける90年とやっていたら、一人に付き生涯の間、32,850人の身代わりが必要となる。しかし実際の話、自分のいのちを身代わりに差し出してくれる人などそういない。それ以前の話として、罪の身代わりになれる資格のある人間なんて、この地球上に一人も存在しない。身代わりの条件は罪のない人物でなければならないので。神はそれをご存じで、キリストを送られた。ことばなる神が人となられた。まことの神がまことの人となられた。身代わりとなる資格はイエス・キリストだけがある。

5~7節はメシヤ預言の詩篇40編のギリシャ語七十人訳である。6節には「あなたは全焼のいけにえ(「全焼のささげ物」新改訳2017)と罪のためのいけにえ(「罪のきよめのささげ物」新改訳2017)とで満足されませんでした」とある。初期の日本語訳の文語訳では、全焼のいけにえは「燔祭」(はんさい)と訳されている(「燔」は肉を焼くという意味)。罪のためのいけにえは「罪祭」(ざいさい)と訳されている。両方とも「祭」(まつり)の漢字が使われている。

皆さんは「祭」という漢字の意味をご存じだろうか。この漢字は三つの部分から成っている。左上は肉という字である。右上は、人間の手で何かの動作をする象形文字。よって手を意味する。部首の「示」は神に物をささげる台をかたどった字である。ここからわかることは、「祭」という文字は、肉を手にもって、神聖な台の上にささげることを意味するということ。祭りの本質は楽しく賑やかに歌ったり踊ったりすることではなく、神にささげものをすることであると分かる。日本の祭りでささげてきたものには、稲穂、お酒、菜類、魚類、海藻、上等な織物、白馬、白猪、白鶏などである。「マツリ」の発音だが、日本語はタミル語に由来するとも言われているが、日本語マツルの語源「マツ」の意味は、「飲ませること、食わせること」で、これと類似することばが、「神に対する食物の奉献」という意味で使われていた。では、まことの神は、肉食べたくて、血を飲みたくて、いけにえを求めるのだろうか。おもしろいことに、詩篇50編にこうある。「森のすべての獣はわたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものはわたしのものだ。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちているものはわたしのものだから。わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえをささげよ」(10~14節)と続く。続く51編では、「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた心」(17節)ということばもある。神さまは本質的に私たち人間に何を願っておられるのかを知っておきたい。特に新約の時代に生きる私たちは知っておかなければならないことがある。私たちの救いのために必要なことはキリストがすべてしてくださった。キリストが十字架について贖いのみわざを全うしてくださったので、もはや罪が赦されるために何かをささげる必要はない。あの十字架は一度で完全な贖いのみざわだった(7章27節 9章12)。私たちは今、罪が赦されるために何かをささげるというのではない。先ほどの詩篇にあったように、感謝のいけにえをささげる。また心をおささげすることをする。また、私たちのからだもささげる。パウロはこう命じている。「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12章1節)。ここで命じられていることは、「ただ神のあわれみによって、キリストの十字架の贖いによって罪から救われたことにお応えして、自らを神にささげた献身の生活をしなさい」ということである。私たちは、心とからだがダラッとしてきたときに、十字架を仰ぐと、襟を正される。

7節では、動物のいけにえは罪を取り除くことができず不完全なので、キリストがご自分のからだをささげるために来られることが預言されている。著者はこの詩篇を足台として、動物のいけにえと、キリストといういけにえの比較対照を続ける。11節をご覧ください。動物のいけにえはくり返しささげられなければならない。ということは、動物には罪を取り除く永久的な効果がないということ。不完全なささげものであるということ。くり返さなければならないものは世の中に多くある。薬も一錠飲めば完璧に効いて治るということはほとんどなく、毎日、くり返し飲むことになる。インフルエンザの予防注射も毎年受けなければだめという風に。けれども、十字架の祭壇にささげられたキリストのいけにえは、一回限りで、完全に罪を取り除き、永遠に有効ないけにえだったのである。10,14節をご覧ください。もはや、それはくり返される必要はない。14節の「一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」を、新改訳2017では「一つのささげものによって永遠に完成されたからです」と訳している。

このキリストといういけにえの完全性、永遠性を信じていないと、様々な間違いが起こってくる。自分の努力、修養、行いによって救われようというこだわりから離れられなくなる。だが、罪滅ぼしをしても、お百度参りしても、何をしても、罪を赦された平安は来ない。

行いだけでなく儀式にこだわる人たちもいる。何か儀式に与っていれば大丈夫かなと、そちらのほうにこだわってしまう。儀式の意味自体も、どうなのかと思うものがある。カトリックには七つの秘跡というものがある。その中で、秘跡中の秘跡と言われるものに「聖体」がある。これはパンとぶどう酒に与る儀式で、プロテスタントの聖餐式に相当する。けれども意味することが幾分違う。キリストはこの聖体において、ご自身をいけにえとしてくり返しささげているのだという。「聖体」はキリストのからだを意味し、キリストのからだに与ることを「聖体拝領」と呼ぶ。キリストといういけにえはすでにささげられ、くり返しささげられる必要がないことは、このヘブル人への手紙を読むだけで分かることだろう。罪のためのいけいにえは、もはや、くり返しささげられる必要がないことを、それこそ、くり返し説いている。また幼児洗礼がある。これについても、教派によって授ける意味合いは違うのだが、たとえばカトリックをはじめ一部の教派では、幼児洗礼を救いの手段のようにして位置づけている。子ども自体が信じることを拒否していても、親たちが無理にでも授けようとすることがある。幼児洗礼自体が天の御国に入る保証であるかのように信じ込まされている。しかし、救いは行いや儀式にはなく、キリストにある。

私たちが、キリストといういけにえの完全性、永遠性を信じていないと、いつまで経っても、罪からの救いの確信がないということになる。著者は16~18節で、私たちに、キリストにある罪の赦しの確信を持たせようとしている。16,17節はヘブル人の手紙8章でも引用された新しい契約の預言の箇所、エレミヤ31章33,34節である。著者は、キリストにあって、17節の「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことをしない」を、しっかり信じてもらいたい。キリストにあるこの完全な赦しが新しい契約の恵みなのである。

この確信に至るまで、私たちがすることは二つあるだろう。一つ目は悔い改めである。けれども、何が悔い改めなのかということである。次のことばに耳を傾けてほしい。「自分の心の内側を探る時、人は不健全なまでに内省的になります。いかにも『自分はとても悲しい思いをしているのだ』という顔つきをします。そうした表情を示すことで、本当にまじめに自分の問題と向き合っていることが証明されるのでしょうか。落ち込みや自責の念、悲しみ、後悔、涙などが見られるなら、それは悔い改めている証拠であると多くの人が主張します。私は、罪が露見してしまったことを非常に悲しく思っている人々に出会ってきました。けれども、それは悔い改めではありません」。

では、いったい何が悔い改めなのだろうか。以前、ヨハネの手紙第一1章9節のみことばを何度も紹介した。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。「自分の罪を言い表す」の、「言い表す」のギリシャ語<ホモロゲオー>の意味は「同じ事を言う」である。誰と同じ事を言うのだろうか。もちろん、神さまとである。そこには言い訳も弁解もない。自分の罪をありのまま認め、それを神に言い表わさなければならない。「その通りです。言い訳も弁解もしません。それは悪しき罪です。あなたを悲しませました。紛いもなく罪です。贖いが必要な罪です。きよめが必要な罪です。十字架が必要な罪です」。

ある母親がいた。彼女は自分がみじめな思いをしているのは娘の行動にあると言って譲らなかった。従って母親は、自分の問題を解決するには娘を変えなければならないと思っていた。娘の習慣は彼女にとって受け入れがたいものだった。それが彼女を苛立たせていた。確かに娘の行動は正されなければならないものだった。しかし、母親は、まず自分の態度を正してから、初めて娘の行動に対処する心の準備ができるのだということに気づいていなかった。娘に対して心の中で抱いている思いが、この母親の一番大きな問題だった。彼女は自分の罪を神の前に<ホモロゲオー>することが求められていた。私たちはへりくだった心、悔いた心をもって、神の前に自分の罪を<ホモロゲオー>する習慣を持とう。

私たちがすべき二つ目のことは、キリストに罪をゆだねてしまうこと。チャールズ・シメオンという有名な聖徒が1813年に回心した時の証を紹介したい。シメオンは、受難週に次の文章に目が留まった。「イスラエルの人たちは、自分の罪をささげものの頭に転嫁したとき、自分たちの行為を理解していた」。これを読んで、次のような思いが心に迫った。「自分の罪咎すべてを他の者に転嫁してよいだろうか。神は私が自分の罪をその頭の上にゆだねてよい『ささげもの』を備えてくださったのだろうか。いや、備えてくださったのだ。そのささげものが主イエスなのだ。それなら神の御旨に従い、私は一瞬たりとも、これ以上自分のたましいに罪を持っているべきではない」。こうして彼は、自らの罪を主イエスの尊い御頭(みかしら)の上にゆだねることをしたと言われている。これがシメオンがキリストに対して働かせた信仰である。キリストは動物に代わる完全なささげもの。罪を取り除いてくださる神の子羊。罪を告白しキリストにゆだねてしまうのである。その者に対して神は約束してくださる。「わたしは、もはや決して、彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(17節)。

8章の講解メッセージの時、コーリー・テン・ブームの次のことばを紹介した。「神が赦されるとき、神は忘れられる。神は私たちの罪を海の底に沈め、土手に『魚釣り禁止』という立札を立てられる」。神さまは言われる。「もう、あなたが告白したその罪は絶対に思い出さない。海の深みに沈めた。だからもう魚釣りは禁止!過去の罪を釣り上げようとするようなマネはしてはならない。私は完全に赦したのだから。」キリストによって罪は完全に、永遠に赦される。