今日はごいっしょに「ことば」について考えたいと思っている。「ことば」とは、一般にコミュニケーションの手段とされている。ある女性がある著名人にこんな悩みの相談をしていた。人と話していて、ボキャブラリーが少ない、ことばが出て来ないという。出ることばは「すごい」とかそれくらい。雪がたくさん積もった時も、無遠慮な人に会った時も、お菓子をたくさんもらった時も「すごい」。何かを表現したいのだけれども、いつも「すごい」で終わってしまう。どうしたらいいのでしょうか?という質問。回答者の方は、同じ「すごい」でも、イントネーションや表情で随分異なってくるんではないでしょうか?語彙が少ないのなら、同じ「すごい」でも256種類を微妙に使い分けられるとか、そういう方向に進まれたらいかがでしょうか?と答えていた。「すごい」の達人になりなさいのお勧め。ことばは意志や感情の伝達手段。私たちは色々な場面でことばの大切さを痛感させられる。にもかかわらず、ことばでの失敗は多い。

ことばの失敗というときに、多くの方が失敗を犯すのは、言い間違い、聞き違い。私たちのほとんどが、言い間違い、聞き違いの失敗を犯す。幾つかの例を紹介しよう。まずは聞き違いから。

赤い靴~は~いてた~女の子~♪・・・次の歌詞は?・・・異人(い~じん)さんに。ところが、にんじんさんに・・・いいじいさんに・・・知事さんに・・・もいた。

シャボン玉~飛んだ~、屋根ま~で~飛んだ♪・・・屋根もいっしょに飛んだと思っていた人がいた。屋根までもが飛んだ。あり得る。台風か竜巻か?

今日は母の日だが、静まり返ったオフィスで、上司が突然、「お母さん!」と叫んだ。びっくりしてしまったが、その人の聞き違いで、「岡田さん」だった。

小学生の頃、「汚職 事件」を「お食事券」(食べるほうの)だと思っていた。500円のお食事券が発生!なんかは嬉しい。

回転寿司でデザートに「プリンください」と頼んだら、「ブリ」の握りが出て来た。

和菓子喫茶で「クリームあんみつ」を注文したのに「クリまんじゅう」が出て来た。

当教会は湯沢聖書バプテスト教会の伝道所。「バプテスト」も何回言っても間違えられる。「ハプテストですか?」が一番多かった。「バスケットですか?」もあった。

読み間違いもある。私も老眼が進んで、しょっちゅう読み間違いをするようになった。コインランドリーのチェーン店で「じゃぶじゃぶ」がある。お肉好きな方が車で、そのコインランドリーの前を通った。何と読み間違えただろうか?「・・・・」。ある方がレストランに入って、メニュー表で「木イチゴのシェーク」を見て、注文するときに、「ホイチゴのシェーク」と言ってしまったそう。漢字の「木」をカタカナの「ホ」と読み間違えた。何度も「ホイチゴ」「ホイチゴ」と店員さんに言ってしまったそう。

もっと問題なのは言い間違え。町内会の打ち合わせで、会長が、「じゃぁ、今日はアニマル通りにやりましょう」と言ってしまった。「マニュアル」の言い間違え。

温泉に行った時、お母さんが「さっすが源泉の垂れ流しは気持ちいいね」と満面の笑みで言った。娘は「温泉のかけ流しね」とやさしく訂正した。

コンビニで「カラアゲ」を注文しようとして、指さして「カラアゲ」と言わず「カラオケ」と言ってしまった。この方は多分、カラオケ好きなのだと思う。

今述べたような言い間違えは可愛いほうで、問題は、守れない約束を口にしてしまったり、故意にうそをついてしまったり、正しくない情報を伝えてしまったりというようなこと。正しくない情報としては、噂話の中で、あの人が入院したのよが、いつの間にか、亡くなったのよ、まで行ってしまうことがある。勝手にこの世から葬り去られたり、悪者にされたり。その反対はなかなかない。最近では「フェイク」とか「フェイクニュース」という表現もよく聞く。余り色々な情報が飛び交うと、何が偽りで何が真実なことばなのかもわからなくなってくる。実は、現代は「ことば」の信頼を失っている時代である。

キリストは私たちが使うことばに対して、警告を発せられたことがあった。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人は、口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタイ12章36,37節)。

聖書は「ことば」を非常に大切にしている。聖書では、「ことば」という単語自体、非常に多く使われている。旧約聖書で「ことば」を意味する原語<ダーバール>は、約1455回登場。新約聖書で「ことば」を意味する原語<ロゴス><レーマ>が併せて398回登場。「ことば」を尊ぶのは聖書の特徴。ことばで一番大事なことは、そのことばが真実かどうかである。聖書では、神のことば、聖書のことばは真実であることを証言している。聖書のことばは真実で信頼できる。

聖書のことばの性格について述べよう。聖書のことばの性格は、神が発せられたことばは、ことばだけで終わらず、それは必ず実現するというもの。ことばはことば通りになる。ことばはことばだけで終わらず、働きを伴い、それはことばどおりになるということ。人間のことばと比較してみると、たとえば天気予報士が「明後日は晴れます」と言ったとする。実際は曇りで終わった。晴れなかった。でも、意外と私たちは気に留めない。ことばはことばどおりにならないことはままある、むしろそれが当たり前と思ってしまっているから。けれども、神さまが「明日は晴れる」と告げられたら、必ずことば通りに晴れる、これが本来のことばということである。聖書という神のことばにうそ偽りはないし、そのことばには力があり、ことばはことば通り実現する。神のことばの約束はそのとおりすべて実現するし、預言もすべて成就する。ことばは実体を持ち、それは必ず成就する。ことばはことば通りになる。これが神のことばであり、本来のことばなのである。神さまのことばは真実だから、神さまが、あなたを愛していると言われたら、自分の事が好きになれなくても、それを疑うことはしないで、そのまま素直に信じ受け取ればいいし、あなたの罪を赦し、永遠のいのちを与えるという約束があれば、それを疑わず信じればいい。天の御国に救い入れるという約束があれば、今はつらい時を過ごしていても、人生のゴールは素晴らしいと信じることができるし、現在は混乱や戦争や災いの多い世の中であっても、聖書に書かれている素晴らしい未来、罪も苦しみも悲しみもない天の御国の訪れを、そのままその通りになると信じることができる。

けれども私たちは、ことばはことば通りにならないことを体験し、ことばを疑うクセがついてしまっているので、神のことばであっても、中々信じられないという現実がある。私たちはことばを疑わざるをえない世界に生きていることは確かである。私たちは、これまでの人生において、人の言うことを鵜呑みにして肩すかしを食った経験がある。裏切られたこともある。助ける、と聞いていたのに、実際は邪魔された。本来、ことばとことばの意味する働きはもともと一つの関係にあったが、それは罪によって分離してしまった。ことばのもつ本来の機能は壊れてしまった。ことばでは約束して、実際は約束と違うことになってしまう。最初からだますつもりでことばを使う方もいる。私たちは、人の言ったことをそのまま信用してはだめだぞと、助言を受けるのが常である。詐欺も横行するようになった時代である。本来のことばの世界に生きていれば、私たちはことばだけで十分相手を信用でき、関係は成り立つ。けれども、この世界に罪が入ったので、ことばだけでは信用できませんよという世界になってしまった。ことばは軽いものとなり、うそも混じりと、ことばへの信頼は失われていった。それでことばだけでは信用できないから誓約書にサインしてくださいとか、そんなことを言っていなかったと後で言われても困るから、これからの会話の内容を録音させてもらいますよとか、ことばへの信頼は完全に失墜してしまった。私たち人間はいつしか、ことばを、中が空でアンコが入っていない最中のように思ってしまっている。ことばを表面的で中身がないもののように思ってしまっている。ことばは実体を伴わないものと思っているということである。

このように、ことばに対して不信感のあるまま、神のことばである聖書に向かうので、私たち人間は、聖書に書いてある神のことばを信じるのに難儀する。本当に神は愛なのかなぁ?聖書に書いてあることは事実かなぁ?ほんとうにそう成るのかなぁ?と。

創世記1章1~5節を開いて読んでみよう。この箇所は天地創造の記述の最初の場面。宇宙が存在する以前に存在していたのは神。神はことばで天地を創造された。「神は仰せられた。『光があれ』すると、光があった」(3節)。こうして神は次々とことばを発し、そのことばはことばどおりになり、天地は造られていく(6節~)。先ほどお話したように、神が発せられたことばは、ことばだけで終わらず、それは必ず実現する、ことばは実体を持ち、それは必ず成就するということ。聖書の冒頭から、それを証ししている。

私が今日皆さんに、最初にお伝えしたかったことは、聞き違い、言い間違いに注意しましょうということよりも、自分のことばに責任を持ちましょうということ以前に、聖書という神のことばに信頼を置いてください、ということである。もし神さまがおれるなら、この世界に、完全に信頼できることばを残して下さるはずである。

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(イザヤ55章11節)。神のことばは必ず成就する真実なことばである。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40章7節)。真実なものこそ永遠に滅びない。不変の価値がある。これが神のことばである。

次にお伝えしたいことは、イエス・キリストが「神のことば」であるということである。今日のヨハネの手紙第一1章1節で、キリストが「いのちのことば」と紹介されている。これを書いたのは、キリストの一番弟子と言ってよい使徒ヨハネだが、ヨハネはヨハネによる福音書1章の冒頭で、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とキリストを紹介している。キリストが永遠の初めから存在していた神のことばそのものであると告げている。天地が創造される前から、ことばを発する神がおられた。永遠の昔からことばなる神がおられた。最初の最初の初め、永遠のはじめにおられたのは、ことばなる神である。科学が未発達な時代、人々は、物質が永遠の昔から存在していたと信じていた。しかし科学の発達でそれは否定された。物質は存在しない時があったと証明された。では物質が生まれる前に、一番初めに存在していたのは何か?聖書は、人格をもつ、ことばなる神がおられたと告げている。ことばは人格あるものしか使用できない。永遠の初めにあったのは無機質な物質でも単なるエネルギーではなく、ことばなる神である。すなわち、そのお方とはキリストである。私は聖書を読んでこの事実を知った時、からだに衝撃が走った。「ことば」は「理性」とも訳すことができる。理性をもつ知的存在がはじめのはじめに存在していた。理性をもつことばなる存在が初めにおられなければ、どうして人間のような理性的存在が生まれるだろうか。

このことばなる神が世界を創造し、人間をも造られ、そして時至って、目に見える存在、すなわちイエス・キリストとなられた。1節を見ると、「聞く」「見る」「触る」という五感で体感できる存在としてキリストを紹介している。神のことばはまことの人となられた。

2節を見ると、この神のことば、いのちのことばの本質が「永遠のいのち」であることが証しされている。このヨハネの手紙を読んでいただくとよくわかるが、ヨハネはキリストに対して、「永遠のいのち」「いのち」という表現を、これでもか、これでもかと、くり返し使用する。その理由は、キリストは永遠のいのちをもつ人格であることを知らしめるためが一つと、もう一つはキリストを信じる者には永遠のいのちが与えられることを知らしめるためである。

キリストが私たちに永遠のいのちを与えるために、どうしてもしなければならなかったことは、ことばを唇から発し、見ることができて、触れることができるという正真正銘の人間となって神のことばを伝え、そして私たち罪人の身代わりになることだった。2章2節をご覧ください。「この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく、世全体のための、なだめの供え物です」。「なだめ」ということばは、罪に対する神の怒りということが前提としてある。罪とは神に対するそむきである。具体的には、自己中心であり、高慢であり、邪欲であり、他の人間に対する蔑みであったり、ねたみであったり、いじわるであったりする。それらの罪に対する責任は重い。「罪」という漢字は、網の下に、そむきの罪を犯した人が捕えられているさまを表わしている。「罪」という漢字自体、罪には刑罰が伴うことが暗示されている。聖書は、罪は神の刑罰を招くものであると教えている。しかし、その罪に対する刑罰を、キリストが十字架の上で身代わりに受けてくださったのである。そのことを信じる者に、罪の赦しと永遠のいのちがある。

キリストは十字架の死後、復活された。それによりキリストが永遠のいのちそのものであることが証明された。聖書は、このイエス・キリストを信じ、受け入れる者に、罪の赦しと永遠のいのちを約束している。この約束は真実である。神の約束であるから。

最後に、3,4節から語りたいと思う。著者は明らかに読者が神との人格的交わり、キリストとの人格的交わりに喜びを見い出していただきたいと願っている。ほんとうの幸せはそこにあるから。

夫もいるし、かわいい赤ちゃんもいるし、幸せなはずだけれども、あるモノが手に入らなくて、それを持っている人を見ると、嫉妬して非常に苦しい思いをしてしまうという女性から、某作家に、こんな質問があった。「どうしても手に入れたかったのに手に入らなかったものはありますでしょうか?・・・パートナー、自分にあった職業、住む場所、かっこいいクルマなど、色々なものを欲するけど、必ずしも手に入るとは限らないですよね」。「どうしても手に入れたかったのに手に入らなかったものはありますでしょうか?」という質問である。この質問に対して返ってきた答えが、以外だった。「僕自身のことで言えば、僕はいろんな人がそれぞれ持っている『心の部屋』に、もっと入っていきたいと思っています。・・・でも僕が一生の間に足を踏み入れることのできる人々の心の部屋というものは、どうしても数が限られています。そう思うと、ときどきつらい気持ちになります。とても残念です。・・・もっと、いろんな人の、そういう心のありかのことを知りたい。でも表面的に知り合うだけでは、なかなかそこまで入っていくことはできないし、深く知り合うには時間がかかります。そして人生の時間は限られている。・・・人の心というものは、広い部屋のようだと思いませんか?誰もいない、しんとした部屋。僕はそこにおいてある家具や、そこに漂っている匂いや、そこに聞こえて来る物音や音楽に興味があるのです」。

この作家は人々の心の部屋に入っていくことを切に願っている。それを求めている。それこそキリストは、私たちの心の部屋に入ることを願っている。最後に、ヨハネの黙示録3章20節を読もう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼ととともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。キリストも私たちの心の部屋に感心がある。愛に満ち、いのちに満ち、真理で満ちているキリストは、私たちの心の部屋に入ることを願っておられる。「食事」とは親しい交わりの比喩である。キリストは私たちと親しい人格的交わりができることを願っている。私たちの心の中に入り、私たちと人生をともにしたいと願っておられる。時おり、「あなたが会ってみたい歴史上の人物は?」というアンケートがとられる。皆さんも、会ってみたい方はおられるだろう。回答で見受けたのは、織田信長、明智光秀、聖徳太子、坂本竜馬、福沢諭吉、卑弥呼、マリ-アントワネット、細川ガラシャ夫人、そして、イエスさまと答える人もいた。イエス・キリストとの出会いは夢ではない。キリストは今も生きておられ、私たちを愛し、私たちに深い関心をもち、キャパシティ抜群で、私たちがこの方に心を開くならば、このお方のほうから、私たちの心の部屋に入ってきてくださるお方である。そして私たちの人生の同伴者となり、最後まで人生をともに歩んでくださる。私たちの性格も知って、弱さも知って、私たちのすべてのすべてを受入れ、最高の友として、最高のカウンセラーとして、最高のリーダーとして、人生をともに歩み、永遠の御国へと救い入れてくださるのである。それだけではない。私たちは、お互いにキリストを行き交し合うような交わりをもつことができるのである。このすばらしい恵みに私たちは招かれている。キリストに心を開いて、キリストを心の部屋にお迎えしていただければ幸いである。

最後に、現代は孤独の時代であることもふまえて、あるキリスト者のことばを紹介して終わろう。「イエスを知って前より淋しくなった人はいない。」