イースターおめでとうございます。キリストの復活を祝うイースターにようこそお越しくださいました。イースターはクリスマスと比べて、まだ認知度は低いが、昨今は、スーパーマーケットに入ると、イースターの意味を伝える放送が流れるようになった。二千年前のこと、キリストは弟子たちに対して、ご自分が多くの苦しみを受け、死刑に定められ、捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならないことを告げておられた。また十字架刑が間近になった時に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と宣言された。キリストを信じる者には永遠のいのちが約束される。キリストはその保証として十字架の死後、三日目によみがえられた。

皆さんは、野口雨情が作詞した「シャボン玉とんだ」をご存じだろう。一番の歌詞は「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた」。実はこの一番の歌詞は、野口雨情の長女の死が背景にある。長女のみどりちゃんは生後1週間で亡くなってしまった。雨情はある日、シャボン玉遊びをしている子どもたちを見て、みどりちゃんを思い出し、この歌詞を書いた。シャボン玉のようにはかない人生。実は、人生をシャボン玉のような泡にたとえた文章は多い。人生はほんとうにシャボン玉である。だが、イースターのシンボルはシャボン玉ではなくて、イースターエッグ(卵)。それは死んでも生きるいのちのシンボルである。

ただいま、新約聖書の中でも、わかりにくいと思われる箇所を読んだが、キリストのよみがえりを感動をもって受けとめていただくために、カギとなることばが散りばめられていて、とても素晴らしい箇所である。この箇所は、キリストの十字架の犠牲について教えてくれている。キリストの犠牲が並大抵のことではない犠牲であったことを知るときに、キリストの復活の意味を知ることができる。

以前、こんな母親の話をお伝えしたことがある。ある男性が古ぼけた写真を見せてくれた話である。お母さんが写っている一枚の写真である。彼はいつもこの写真を肌身離さず持っていたようである。彼はこのお母さんのお蔭で、今の自分があるという話を始めた。この方のお母さんは、彼を産むとき、医者に言われたそうである。「お子さんを産むと、あなたはいのちを落とす可能性があります。どうされますか?」「産みます」。そうして、彼は生まれ、お母さんはいのちを落とした。彼は、お母さんが死んでまで自分にいのちを与えてくれたこと、自分のいのちはお母さんの尊い犠牲の上に成り立っていることを肝に銘じていた。彼はこの体験を通して、キリストの身代わりの死も理解できたと言う。

キリストが私たちに与えたいと願っているいのちは、この地上でしばらく生きるためのいのちではない。死んでも生きるという永遠のいのちである。そのいのちを与えるために、キリストは犠牲となられ、十字架でいのちを献げられ、そしてよみがえられた。キリストが与えてくださるいのちは、よみがえりのいのち、永遠のいのちである。

皆さんには、キリストの復活の前に、キリストがどうしても十字架の死を遂げなければならなかった理由をはっきりと知っていただきたい。先週のキリスト教の暦は「受難週」だった。キリストの十字架の苦しみを覚える週ということである。キリストの十字架の苦しみを覚えて、イースターを祝うということである。新しいいのちの出産の前に産みの苦しみがあるが、ちょうどそれと同じである。私たちがキリストの苦しみの意味をしっかり知るときに、イースターの喜びは倍増する。

実は、このヘブル人の手紙11章で、ある単語が繰り返し登場する。それは「血」である。13回登場している。この章は、キリストが血を流された意味を伝えたいと思っている。22節をご覧ください。「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」。

古代、中東では、動物を献げる儀式が広く行われていたようである。イスラエルという国でも神殿で行われていた。たとえば、このように。ある人が罪を犯したと自覚したとき、動物を連れだって祭司の前に進み出て、自分の犯した罪を告白し、その動物の上に手を置いた。それは、その動物がその人の罪を負うことを意味していた。また、その動物にその人の罪が移し替えられることを意味していた。その後、その動物はその人の身代わりとなって、血を流して命を落とした。また、年に一度、「贖いの日」と言って、国民全体の罪を扱う行事も開催された。9章は、この行事が背景にある(7節)。その時、祭司はやぎの頭の上に手を置いて、国民全体の罪を告白した。その後、やぎと子牛は犠牲となって血を流した。これらは、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないことを教えるものであり、最終的には、キリストがやがて十字架の上で血を流されることを指し示すものでもあった。イースターの花といえば白百合だが、実は、キリストは白百合だけでなく、赤い薔薇にたとえられることもある。その意味はお伝えするまでないだろう。赤は血の色である。赤い薔薇はキリストの受難を意味しているというわけである。

まず、皆さん、罪の赦しのためには血が流されなければならない、いのちの犠牲が必要である、ということをどう思われるだろうか。残酷すぎると思われるだろうか?もっと簡単に赦すべきだと思われるだろうか。今朝は、このことを真剣に考えてみたいと思う。

日本では、古来から、どうすれば罪は赦されると考えられていたのかご存じだろうか。そこに登場するシンボル的存在は「血」ではなくて「水」である。

日本には古来から「禊祓」(みそぎはらえ)の思想がある。有名な創世神話では、黄泉の国から逃れてきたイザナギノミコトは、徹底的に水によって穢れを洗い清める。体を洗い注ぎ、あげくの果てには、黄泉の国を見た左目を、そして黄泉の国の匂いを嗅いだ鼻を洗い注ぐ。古代から日本では、罪、汚れを取り除く方法は、水によって清めるというお祓いが一般的であった。「水に流す」という表現も、こういうところから来ている。

古文書研究の権威者であり、国語辞書などの改訂に携わってこられた学者で、大野晋(すすむ)教授がおられる。大野先生は「罪」という漢字の説明の中で、神道の行事である大祓(おおはらえ)を引き合いに出して、次のように述べている。大祓とは年に二回、6月と12月に行われる、穢れや罪を祓い、清める行事である。「罪について重要なことは、罪の償い方である。六月の晦(つごもり)の大祓の祝詞(のりと)によって、そのあらすじを記すと、『この世の罪という罪を集めて、山から落ちて来る水に流すと、その川の瀬に座っている瀬織つ姫(せおりつひめ)という神が、その罪を大海原に運んでいくだろう。すると海流の集まる所にいる速開つ姫(はやあきつひめ)という神が、その罪をがっぷり呑み込むだろう。すると風を空に吹き出す口にいる気吹戸主の神(いぶきどぬしのかみ)が強い風を吹いて、地下の国へその罪を吹き落とすだろう。その罪を地下にいる速さすら姫(はやさすらひめ)という神が抱えて、彷徨している(さまよっている)うちに、どこかに罪を失くしてしまう。それによって罪は消える』とある。ここには個人の罪に対する責任の念がない。・・・現代の日本人は罪に当たる事実を明確に認識せず、また的確に表現する習慣に欠けて、ごまかすところがあるが、その淵源(みなもと)は、この古代の罪の認識の希薄さ、事実の確認の脆弱さにあり、それが連綿として日本人の心底(心の底)に生き続けているのではないか」。大野晋教授は、以上のように述べておられる。

大祓の祝詞は、確かに、日本人が罪についてどう捉えているかをよく物語っている。罪を山から落ちてくる水に流す。罪は川から海へ流れていく。海に入り込んだ罪を風が地下に落とすと、その罪はいつの間にか無くなってしまう、消えてしまう、という理屈である。それは、赦しとも違い、なんというか、うやむやなまま、知らぬ間に消滅してしまうものとされている。水に流してすべては解決するという思想である。

本来、罪とは何十年経っても、何百年経っても、どれ一つとして消えないはずである。それは犯した時のまんまで神の前にある。そして、その罪は裁かれなければならない。水に流せば、あとはなんとかなるというものではないはずである。

聖書は、罪について詳細に述べ、そして罪に対しては裁きが必要であるとはっきり告げている。そして、この罪の問題を解決するには、身代わりのいのちの犠牲しかないと、くりかえし告げている。しかし、牛とかやぎとか羊といった動物は、本当の意味で、私たち人間の身代わりにはなれない。やはり、誰かが身代わりになるのでなければ、つまり同じ人間でなければ、身代わりの役は務まらない。けれども、身代わりの役が務まる資格のある人間は、地上にだれもいない。オーディションをやっても一人も受からない。なぜなら、どんなに素晴らしいと思える人でも、皆、罪人であるから。罪のない人間はこの地上に誰もいない。そこで、罪のない神のひとり子が天から下り、まことの人となり、まことの神がまことの人となり、私たちと同じ血と肉をもってくださり、時至り、十字架の上でそのいのちを献げてくださった。十字架の上で、私たちの罪をすべて負い、裁きを受けてくださった(26節~28節前半)。キリストはこの時、清い血を流された。その血は罪の赦しのために流された犠牲の血である。

血ということばに残忍なものを感じるかもしれない。しかし、罪の赦しの方法、救いの方法は、きれいごとではないということである。罪の赦しは多大な犠牲があって、はじめて成り立つ。地下にいる神さまが罪を抱えて彷徨っているうちにどこかに落として失くしくれる、そんな簡単なことではない。先にお話した大祓についてもう少し触れると、実は大祓では、祝詞を唱えた後に、人形(ひとがた)という人の形に切った白紙(しらかみ/白い紙)に、罪、穢れを移し、川や海に流すことをする。天皇の代替わりでは大嘗祭という儀式があるが、その中でもこの儀式が行われる。天皇は人形(ひとかた)に罪を移す儀式を行う。皆さんは、人の形に切り取った薄い紙一枚に人間の罪を負わせることをどう受け止めるだろうか?

キリストは薄いペラペラの紙ではなく、まことの神である。まことの神はまことの人となり、私たちの罪を負って刑罰を受け、血を流し、死なれた。それは壮絶な死であった。これは神話ではなく、歴史上の出来事である。西アジアのイスラエルでの出来事である。キリストの十字架は、私たちの罪がどのような重大な結果をもたらすのかを教え、同時に、罪の問題の解決はここにあるのだと教えてくれている。キリストが十字架の上で流された血は、私たちの罪に対して神の裁きが下された証なのである。

第二に、キリストが流された血は、神の愛の証であることを受けとめたい。皆さんは数々の救助の物語をご存じだろう。落石から人を救おうとして、傷を負い、血を流した話など、いろんな救助の物語を耳にする。その最大の救助の物語がキリストの十字架と言ってよいだろう。キリストは命がけの愛をもって、私たちを救おうとされた。

第三に、キリストが流された血は、新しい契約のしるしなのだと知っておきたい。今、私たちが読んでいるのは新約聖書のひとつの書である。「新約」とは「新しい契約」の意味である。「新しい契約」とは、キリストを信じるならば、罪赦され、永遠のいのち、永遠の資産を受けるという約束である(15節)。そして、その契約のしるしが、キリストが流された血なのである。キリストが流された血は、キリストが命がけの愛をもって、私たちを救おうとされたことの証というだけではない。キリストが流された血は、救いを確約する契約のしるしなのである。それはハンコやサインと比較にならないくらい契約の真実性を証するものである。それは心血注ぎ、命を賭けたしるしであり、絶対救うことを約束するという、これ以上ないしるしである。これは血判状と比較できるかもしれない。血判は誓いが強固であることを表わし、指の一部を切り、自らの血で捺印した。けれども、キリストの場合は指の一部を切ってということではなく、頭から胴体、手足に至るまで、ご自身のすべてを犠牲にして、契約を締結した。

第四に、キリストが流された血は、私たちを罪から救うための代価であるということである。キリストは死の後、どうなったのだろうか。12節をご覧ください。「また、やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げたのです」。ここで「まことの聖所」とは、天の御国の比喩的表現。キリストは十字架の死後、三日目によみがえり、それからしばらくして、弟子たちが見ている前で天に昇られ、天の御国に入られた。そして「永遠の贖いを成し遂げられた」と言われている。「贖う」というのは、代価を払って救うという意味をもつことばである。過ちを犯した子どもを親が赦す場合、涙という代価が支払われる。あるいは、その代価が白髪、顔のしわ、身を切るような痛み、世間の悪評、つらい労働というような場合もあるだろう。多くは身銭を切るというようなことになる。実際に、牢獄に入れられた息子を救い出すために、過酷な肉体労働で、汗を流し、血を流しながら、バカ息子を出してあげるための保釈金を稼いだという母親の実話もある。その息子は、お母さんが面会に来た時に、お母さんの手が血だらけなのを見て、「お母さん、その手の傷はどうしたんだ。指の血はどうしたんだ」と聞いた。そのお母さんは、彼を釈放してあげようと、朝から晩まで石材運びの重労働をして、お金を貯め続けていることを打ち明けたそうである。では、キリストが払われた代価は?それは金銀よりも尊いもので、ご自身のいのち。血はそのいのちを表わしている。このキリストの支払われた代価のゆえに、罪から救われ、天の御国に入ることが許される。その救いは永遠の救いである。

北米インディアンの酋長の回心の物語を読んだことがある。かつて邪悪な人間だったヨハネスと言う酋長が、どのようにして信仰をもつに至ったかというお話である。昔、ひとりの説教者が、彼らを教えようとしてやってきたそうである。そして手始めに、神は存在することを説明したそうである。それを聞いて彼らは言った。「その通り。ところで、あなたたちは、私たちが神の存在を知らないと思っているんですか。さあ、来たところに帰りなさい」。また別の時に、別の説教者が来たそうである。そして、「盗んではならない。酒を飲みすぎてはならない。嘘をついてはならない」などと教えた。それを聞いて、「馬鹿な説教だ。私たちがそれを知らないなどと思っているのか。帰って、ご自分でそれらの戒めを学びなさい。あなたの国の人たち以上に、酒飲みで泥棒の嘘つきがどこにいますか」、そう言って、この説教者も追い返してしまった。それからしばらくして、クリスチャン・ヘンリー・ラウフという人が彼の小屋にやってきた。彼は酋長の横に座って、話し始めた。その内容はおよそ次のようなものだった。神が私たちをみじめな状態から救い出そうとして、神が人となられ、人類のためにいのちを与えられたこと。それがキリストであること。キリストが流された血は、罪の最高の贖いであるだけでなく、私たちの力となること。ラウフという人は、十字架につけられ、血を流されたキリストを高く掲げた。彼は語り終えると、小屋の板の上に横になって眠り込んだ。旅の疲れが出たのだろう。酋長は心の中で考えた。「何という人だろう。ここに彼は横になってぐっすり眠っている。彼を殺して森に投げ捨てても、誰も気にしない。それなのに彼は平気の平左だ」。酋長は、彼の十字架のメッセージが絶えず耳を離れず、眠ってもなお、キリストが彼のために血を流した夢を見たそうである。彼は十字架につけられたキリストを仰いだ。彼は自分の罪のためにキリストが十字架に釘づけられ、血を流してくださったことを純粋に信じた。その赦しの恵みの大きさを痛感した。救いはここにあると分かった。そして、この村全体に回心の輪が広がって行った。ラウフの属する団体を立ち上げたツィンツェンドルフという人物はこう述べている。「私たちは、イエスの血潮における神の恵みの上に人生を建てなければなりません」。

イースターにお伝えしたかったことは、キリストは死で終わった方ではなく、お墓に入ってハイ終わりではなく、死からよみがえられた今も生ける救い主であるということとともに、なぜキリストは避けようと思えば避けることができた十字架の死に向かわれたのかということである。なぜ、尊い血を流してくださったのかということである。

キリストは十字架の上で私たちの罪を負った。そして血を流された。血を見るのは苦手という人は多いだろう。私も苦手である。ですが、皆さんには、心の目で、キリストが十字架の上で流された血を見ていただきたいと思う。それは私たちの罪の赦しの保証だから。キリストはその後、死からよみがえられた。このよみがえりは私たちに永遠の救い、永遠のいのちを保証するものなのである。どうか皆さんが、キリストが流された血は自分の罪のためであったと受け止められ、そして、キリストがくださるよみがえりのいのち、永遠のいのちを受けていただきたいと思う。